第36話 水晶の間7―大切な人―
蒼と真赭、それに浅葱の三人は水晶の間に佇んでいる。立ち上がっているおかげで、下に溜まった冷気からは開放されていた。相変わらず、ひんやりとした空気は肌を撫でてくるが、蒼の身を震わせるほどではない。
蒼の右手は、真赭の両手にしっかりと握られている。真赭の華奢な手の震えは、止まらない。合わせられた真赭の瞳に映っている蒼の姿は、わずかに揺れている。
蒼は、これほどまでに追い詰められた真赭を、見たことがない。何も言えずにいると、再び真赭の唇が
「ごめんなさい」
と小さく動いた。
蒼はあいている方の手を、そっと添える。
「真赭、どうして、そんなに何度も謝るの?」
蒼には全く心当たりがない。しかも、繰り返し謝られるほどの内容だ。
真赭の必死な顔つきに気圧され、今日の出来事を辿ってみる。色々有りすぎて一筋縄にはいかないが、やはり、見当は付かなかった。
真赭は歯を食いしばっている。右手を掴む力が強まっていく。真赭が、蒼からの言葉を待っているのは伝わってきた。けれど、答えは浮かび上がってこない。蒼の頭が横に落ちた。
真赭の顔が、一気に赤く染まった。
「だって、私は、鍵を使えば、恐怖の空気に満ちた映像に遭遇する可能性があるのを、知ってた! おばぁ様の死因の糸口がどんなものかわからないのに、それを蒼に見て欲しくて、鍵を使わせた! 突然の解除だったとは言え、何も伝えてなかった! 結果、蒼と浅葱をあんな危ない目に合わせた! 自分のおばぁ様のことしか考えていなかったのよ? 挙句、蒼が抱えていた不安にも触れないで、古書を読まなければとばっかり考えて! 自分勝手だわ。だから、蒼に嫌われたかもって――」
今までにないほど、真赭は声を荒らげていた。全て吐き出したかと思うと、喉を詰まらせた。頬には何筋もの涙が伝っている。肩を小さくして、嗚咽を堪えている。
ぎょっとしたのは浅葱だ。おろおろと不可思議に左右に動き出す。
「真赭、泣かないでよぉー」
浅葱の掌が、せわしなく真赭の背中を撫で続ける。しかし、浅葱の手が滑る程、真赭の体は強ばっていった。
蒼は、真赭の切羽詰まった様子に、思考が止まってしまった。真赭が蒼の前で泣きじゃくるのは、蒼が川に落ちて以来だ。修行に出る前の別れの時、寂しさで三人抱きしめ合って涙を流したが、取り乱したわけではない。こんなにもむせび泣く真赭は、久しぶりだった。
蒼の額が、真赭に触れる。
「おばあさんはさ、真赭を誰よりも理解してくれていたもんね」
出た声は、予想以上に穏やかだった。真赭に伝わるように、思い至らなかった自分に言い聞かせるように。
古書店の人間は幼い頃から年長者と共に、または自ら冒険者として世界に出て、古書を探してまわり経験を積む。体が弱い真赭は、両方とも叶わない。古書の解読にあまり多くのアゥマを消費出来ない。それについて、誰も責めるわけではないが、真赭自身が思い悩んできた。真赭の祖母は、真赭の辛い思いも、経験を補うための努力も、一番理解していた。真赭の古書の知識は並大抵ではない。真赭が記憶している知識の凄さを、深くまで共有し分かちあえた人。
強く閉じられた真赭の瞼から、大粒の雫がこぼれ落ちていく。水晶の床で静かに弾けた涙が、アゥマの光を受けて淡く煌めいた。
「真赭さ、おじさんたちが一度整理したおばあさんの遺品を元に戻してさ、今でも生きてた時と同じようにしてるんだってね。毎日おばあさんの部屋に入り浸ってたから、亡くなる直前に何がどこにあったかも、全部覚えてたんでしょ?」
大切な人を失ったのは、真赭も同じだった。なのに、真赭がここまで追い詰められているのに、蒼は気が付かなかった。考えも及ばなかった。そんな自分に苦笑が浮かんでくる。
ふと、動きを止めた浅葱を見る。浅葱は優しく微笑んでいた。
「ボクも、おじさんとおばさんに聞いたよ。掃除もして、布団も干してるんだってねぇ」
浅葱の言葉に押され、真赭から嗚咽が飛び出てきた。細い足が激しく揺れている。
蒼は、柔らかく掌を弾ませる。
「真赭、手を離せる?」
蒼と真赭が触れ合っている全ての肌から、緊張が伝わってくる。恐る恐る上げられた真赭の顔は、真っ青だった。目元と鼻だけが、紅を塗りたくったように赤く腫れている。
蒼は、ゆるりと額を離し
「大丈夫だから」
と微笑みかける。真赭はしばらく口を結んでいたが、だらんと力なく腕を下ろした。
さっと、蒼は真赭を抱きしめた。
「真赭。私さ、お父さんとお母さんと、最期にお別れの言葉も交わせなくてさ。すっごくすっごく落ち込んでて、それはもう、何もかもぐちゃぐちゃだった。でも、真赭も浅葱も、ずっと傍にいてくれたよね?」
「そうだったねぇ。蒼の部屋で一緒に泣いたり、思い出話もしたりしたよねぇ」
浅葱の手が、蒼と真赭の頭に添えられた。冷えた空気を跳ね除けるように、軽く弾む手。背伸びまではいかないが、浅葱の肘が不格好に上がっている。
ふっと、蒼の頬が緩んだ。
「すごく嬉しかった。泣いてばっかりで、口にする言葉もめちゃくちゃで。それでも一緒に居てくれて」
「あたりまえよ、大好きな両親が亡くなったのだものっ」
しゃくりあげながら、声を絞り出す真赭。ぐっと、真赭に回している蒼の腕に力がこもった。
「でもね。真赭も、おばあさん大好きだったもんね。私が知らない間に、きっと、いっぱいいっぱい泣いたんだよね。それなのに、私、自分のことばっかりで、真赭がどういう気持ちでいるのか、苦しんでいるのか、全然考えがいたらなくて。ごめんね?」
蒼は少し体を離し、真赭の顔を覗き込んだ。真赭は風を切って顔を上げる。涙で崩れた顔を、涙が飛び散るほど激しく振った。
真赭の顔を見れば、今、どんな考えでいるのかが手に取るようにわかる。自分をあんなに責めておきながら、蒼の謝罪は考えもしなかったのだろう。
黒い陰はさておき、ずっと鍵を所持していた真赭も何かしら見た可能性はあった筈だ。自分がたった一言でも声を掛ければ良かったと、今になって蒼は気が付いた。古書も同様。真赭が焦って読みたがっていたとはいえ、少しでも話を聞き出せていれば、こんなにも罪悪感を抱かせるまで追い詰めなかったのではないか。
蒼はそっと真赭の頬を包んだ。手の冷えが嘘のように、熱くなっていた。
「私のこと、嫌い?」
蒼が躊躇いがちに尋ねる。真赭の涙がぴたりと止まった。
「なんで? そんなわけ、ないじゃない、私は蒼を大好きよ」
「うん、ありがと。同じ。私もさ、真赭、大好きだよ」
言葉にすると、どうにもくすぐったくて敵わない。蒼に照れ笑いが浮かぶ。けれど、心があたたかくなる言葉。耳が熱くなる。
「へへっ、なんか恥ずかしいね」
と後頭部をかいて、誤魔化した。
真赭は目元を赤くして、複雑な表情をしている。
真赭は大切な親友だ。嫌いになるなんて、あるはずないのに。蒼は顔を引き締める。
「自分が大好きな人の死について、何かわかるとしたら、私だって目の前の可能性に必死になるよ。それに、真赭が古書に集中出来たのも、厳重に守ってた古書を一緒に読もうと思ったのも、私たちを信頼してくれてたからでしょ? 真赭がおばあさんを大好きだったのも、真赭がちゃんと色々考えて気にしちゃうのも、わかってるつもりだよ?」
「そうそう! 何年幼馴染で、どんだけ一緒にやってきたと思うのさぁ! のけ者みたいでちょっと悔しいけど、蒼と真赭なんて、赤ん坊の頃からの付き合いだろー?」
頭を撫でていた浅葱の手が、頭頂部をゆるく締め付けてくる。
「あっ、浅葱も、ちゃんと好きだよー。のけ者じゃないよー」
平坦な調子で蒼が言い訳をすると、浅葱の指先に力が入った。
「ちょいちょい! ものすんごく気持ちがこもってない気がするんだけどぉー!」
「そんなことないよーごめんねー」
蒼は、奥歯を噛み締めて笑いを堪える。ちらりと視線だけを動かすと、浅葱の口がタコのようになっていた。ぷっと、空気の漏れる音が鳴った。音源を探すと、真赭が口を押さえていた。真赭の様子に、胸のつかえが下りた。
蒼は、上げた顔を封印台に戻されている古書へと向ける。
「結局、知りたい真実には辿りつけなかったかもだけど。可能性は試せたわけだし、良かったと思う。私も紺君の件で落ち込んでた時さ、一人で抱え込んで暴走して、挙句いつもと違う茶葉だって言われて、さらに落ち込んでた。悪循環だった。でもね、失敗だったとはいえ良い経験になったと思ってるし、周りの人にはもうちょっと相談はすれば良かったかなって」
「あっ、紺兄が原因だって認めたねぇ」
「あっ! 違う! 茶葉、丹茶、お茶について!」
蒼の体が大きく跳ねた。慌てて両手を振るが、浅葱の顔に笑みが広がっていく。
外の書庫で話が出た際も、特に紺樹が原因なのを否定した覚えもない。けれど、浅葱の言いように、思わず首を横に振ってしまう。
蒼の焦った様子を見て満足したのか。浅葱は、思い切り背伸びをした。
「だねぇーあっ、真赭も蒼も、次からは事前に、ボクにもわかるよう色々説明するように!」
悪戯な笑顔はそのままに。浅葱が胸を張った。
蒼は素直に返事をするが、真赭の眉間には皺が寄っていった。
「あら、私は古書について、教えてあげたでしょ? あれで、時間がかかったのよ」
目元を拭いながら、いつもの口調で反論した真赭。
蒼は真赭に回していた腕を解く。体を離す際、服の右腿辺りの違和感に、手絹の存在を思い出す。うっすらと桃の香りが付いた手絹を、真赭に差し出した。今更という頃合いだが、真赭は静かに手を触れた。
「取り乱して、ごめんなさい」
「まぁ、珍しいものを見たってことでさぁ、良しとしようよ。ボクらの友情愛情も確認出来たし! 表に戻って水分補給すれば、号泣した分も戻ってくるよー」
浅葱があっけらかんと歯を見せた。次の瞬間、真赭の拳が小気味よい音を鳴らした。
「いってぇー!!」
浅葱からは、悲痛な声が飛び出た。真赭は、ぶすりとして、封印台の方へ戻っていく。
「一言どころか、フタコトミコト、多いのよ」
乱暴に目元を擦った真赭と、床にへたりこんで頭を抑えている浅葱。蒼の笑い声が、静かな空気を振動させた。
蒼は腹を抑えながら、浅葱に声を掛ける。
「そんな目で見られても困るよ。浅葱が叩かれたのは、私のせいじゃないし」
浅葱が恨めしそうな目で見上げてきた。団子に纏めている髪が、少し崩れている。
「真赭、爆笑してる蒼は良いのかい?!」
「蒼は、浅葱を笑っているのだから、私は気にならないわ」
真赭は背中を向けたまま、二人を手招きした。真赭のすぐ傍にある封印台。そこに供えられた古書は、淡く光っている。古代に、古書へ掛けられた封印が戻り始めたのだろう。
蒼と浅葱は、封印台へ上がる。再び緊張感が全身に駆け巡っていく。
真赭が懐中時計を翳すと、封印を解除した時と同じように、魔道陣が現れた。四方の水晶に色が反射して、美しい。振り返った真赭も、光の色が映っている。
「台座の封印を施すわ。要領は解除した際と変わらないけれど、消費するアゥマは多いから、手伝って欲しいの」
施されていた封印を解除するより、封印の術を掛ける方が困難だ。しかも、鍵がなければ解けないとはいえ、気の抜いた術を使うわけにはいかない。ぐっと奥歯を噛み締め、三人は、今度は真赭が最後になるように掌を重ねていく。上から蒼、浅葱、そして真赭の順だ。
魔道が起こす風音が、徐々に増していく。蒼は大きく口を開ける。
「今回読めなかった部分は、また挑戦しよう! 魔道具や時期を調整したら、解除で出来るかもしれないし!」
「そうだねぇ。お腹もすいたし、表に出たらお茶でもしながら計画立てようかねぇー」
ちょうど良い間合いで、浅葱の腹が鳴った。風が吹き荒れる中でも、はっきりと聞こえる音量だった。呆れかけた蒼と真赭の腹も、それに続く。
三人は顔を見合わせて、弾けたように笑った。
「蒼に浅葱。ありがとう」
光が溢れ準備が整うと、真赭が小さく呟いた。蒼は微笑みを向ける。そして、すぐに凛と表情を引き締め、浅葱の手をきつく握った。
複数の魔道陣が古書を取り囲んでいく。回転している古代文字に、七色の光が流れる。蒼は魔道陣から放たれるアゥマと共鳴するため、静かに瞼を閉じた。
真っ暗な空間にほつりほつりとアゥマの粒子が生まれてくる。ふっと。両親の姿と古書の最後の文章が浮かぶ。粘着質に蒼の頭と心から離れない、二つのこと。繋がりなどないと振り払っても、両親に張り付いた文字は、消えなかった。出来るなら古書と一緒に封じてしまいたい。蒼は願って、意識を集中する。
魔道の光が見せたのか、古書からにじみ出たのか。アゥマの欠片に混じって、黒い陰が自分を見下ろし嘲り笑っている、気がした。