第35話 水晶の間6―見たもの―
重い静寂が空間を支配している。誰一人として動くことが出来ずにいた。
蒼は床に座り込んでいた。唇は青い。顔面も蒼白であるのに、額からは汗が流れ続けている。台座に腰掛けている真赭は、古書の上に手を置いたまま瞼を閉じていた。蒼が呆然としているのに対し、真赭は思案しているようだ。浅葱といえば、そんな二人をただ眺めていた。
長い沈黙に捕らわれていた中、最初に口を開いたのは浅葱。
「ねっ、ねぇ。蒼も真赭もさぁ。どうしたのさ? 確かに衝撃的な内容ではあったけど、そこまで暗くなることかい? 最後なんて、表現がぼんやりしてて、良く理解できなかったしさぁ。真赭、顔色悪すぎるよ」
声の調子をややあげた浅葱の声が、耳に届く。
最後の言葉に、蒼が下に向けていた顔をあげる。立ち上がって眉を潜めている浅葱と、自分と同じように固まっている真赭が見えた。目があった浅葱は、さらに眉間に皺を寄せた。
「蒼も、真っ青じゃないか! っていうか、真赭よりひどいじゃないかっ!」
「私は……大丈夫」
蒼は、か細い声で何とか応えた。自分から、こんなにも弱々しい声が出るのかと思えるほど、消えてしまいそうな音だった。未だ身体に力が入らない。頭の中で、映像や言葉が交錯していて、二の句が継げない。
ぎこちない仕草で真赭の方に、首を回す。まるで鏡に映った自分の姿を見ているような動きの真赭がいた。しかし、真赭の表情は、蒼以上に苦しそうに歪んでいた。顔だけではない。纏う空気、全てが曇っている。
「蒼、やっぱり、黒い陰に取り込まれた時に、見たのね?」
真赭から出た言葉は、思いの外しっかりとしていた。逆に、蒼からは形にならないモノがぽろぽろと落ちるだけ。真赭の瞳が、蒼を射抜いてくる。疑問よりも、期待が込められた色。
蒼は必死で頭を動かす。今、真赭はなんと言ったのか。ゆっくりと腕をあげ、右手で顔を覆う。水晶板の床についていた掌は、とても冷えていた。血が通っていないのではと思える冷たさだが、今は丁度良い温度だ。
蒼は、黒い陰に取り込まれ、両親の姿を見た。真赭も黒い陰に同じ映像を見せられていたのだろうか。いや、蒼が目を覚ました時、真赭は浅葱と一緒になって黒い陰を取り払おうとしてくれていた。
蒼は、何度か深呼吸を繰り返す。
「真赭……も?」
辿たどしく尋ねる蒼。
真赭は全身で溜息をつき、目を伏せた。それが答えだった。
立ち上がったままの浅葱は二人を見比べ、頭を抱える。言葉にならない叫びをあげているようだ。頭上の団子から伸びた髪を振り乱し、地団駄を踏んだ。
「ちょいちょい待ってよぉー!! もしかして、置いていかれてるのは、ボクだけかい?!」
「浅葱、今説明するから……」
真剣な表情が一変。真赭は疲れた様子で額を抑えた。狭い空間に浅葱の声が反響して、軽く頭痛でもしたのだろうか。とてつもなく緊迫した空気だった筈なのに、いつの間にか和らいでいる雰囲気。蒼は目を瞬かせた。
台座に腰掛けたままの真赭と、仁王立ちで彼女に苦情を垂れている浅葱。二人に近寄ろうと、蒼は立ち上がろうと試みる。けれど、膝に力が入らない。
すると、真赭の方が、ゆるりと床を鳴らした。一瞬、真赭の体が揺れる。浅葱が慌てて支えたおかげで、転倒は免れた。気丈に見える真赭の精神状況も、ぎりぎりの所で保たれている。そう、蒼は感じた。
真赭は古書を封印台に戻すと、蒼のすぐ前で膝を折った。そっと、蒼の右手をとる。蒼の体が跳ねるほど、冷たい。真赭の手は、氷を握りしめたのかと思える温度だった。けれど、右手を包んでいる両手は、不思議と安らぎを与えてくれた。
しかし、蒼とは反対の様子で、真赭の唇が震えた。
「ごめんなさい、蒼。私、とてもひどいことをしたの。浅葱も巻き込んでしまって、ごめんなさい」
「真赭が?」
唐突に謝られ、蒼の瞳が大きさを増した。働かない思考を一生懸命回転させるが、全く心当たりがない。中腰になっている浅葱を見上げる。浅葱もぎょっとした顔を、大きく左右に振った。
しばらく、真赭は床を睨んでいた。が、意を決したように顔をあげた。蒼から手を離し、服に仕舞ってあった懐中時計を取り出す。ぎゅっと、きつく握りしめた。
「本当は、先に言うべきだったのよね。この鍵に関して」
「それは、本棚の仕掛けと古書の封印を解除した鍵だね」
一見、なんの変哲もない懐中時計に見える鍵。中蓋を開けると、非常に濃いアゥマが閉じ込められている。それに蒼が触れた瞬間、黒い陰に取り込まれた。ぞわりと、蒼の背中を冷たいものが走っていった。
少しの躊躇いのあと、真赭は口早に問いかけてくる。
「蒼は、黒い陰に取り込まれた時、何か見たわよね?」
形は質問だが、断定的だった。まるで、蒼が見たものを知っているかのようだ。
蒼の目の前に、両親の姿が蘇ってくる。そして、また古書の最後の文が浮かんで、謂れのない恐怖が、蒼を支配した。掴みどころのない不安と慄然。蒼の体が、再び固まっていく。
真赭と浅葱は、静かに蒼の言葉を待っている。懐中時計を下に置いた真赭が、再び蒼の手を包んだ。決して圧迫感はない。逆に、真赭からは苦しみが伝わってくる。蒼は重々しく、口を開いた。
「お父さんとお母さん。それに何人かの人と……どこかの溜まり」
蒼からぽつりと溢れた言葉。真赭が息を飲んだ。緊張が走る。
真赭を見るが、前髪に隠れてしまっていて表情はわからない。けれど、触れている手から震えが伝わってくる。いや、全身が総毛立っている。蒼の手を握っていた両手がゆるゆると解かれていく。あまりの様子に蒼が真赭に手を伸ばす。が、逆に肩を強く掴まれた。真赭から出ている力とは思えないくらい、きつく締め付けられる。
見開かれた瞳には、期待と当惑が見え隠れしている。蒼は恐る恐る、声をかけた。
「まっ真赭? どうしたの? 大丈夫?」
「蒼! その中に、私のおばぁ様はいた?!」
真赭が必死の形相で詰め寄ってきた。この水晶の間に来る前に「怖い」と言っていた時と同じ真赭だ。肩に爪が食い込んできて痛んだが、正直それどころではない。
蒼は瞼を閉じて、映像を思い出す。
「いなかった、ていうか、見えなかった。お父さんとお母さん以外は、なんか悲しそうにしているっていうことしか、わからなかったんだ」
「そう……」
真赭にしては珍しく、あからさまに落胆している。真赭の手は、蒼の腕を滑って床に落ちていった。
「あとは、見たことのない不思議な風景とか黒い陰とかくらい」
あまりの様子に、もう一度と必死で情景を思い出す。しかし、何度記憶を辿っても、それ以上得る情報はない。
ついに、真赭は凍りついてしまった。傍観していた浅葱から、驚きの声が上がる。
「気絶してる間に、そんなもの見てたのかい?! なんだろう、っていうか、黒い陰の影響だよね? やっぱ、濃いアゥマには不思議な力が備わってるのかなぁ?」
矢継ぎ早に出てくる疑問。浅葱は、興奮して手足を動かしている。が、突然ぴたりと動きを止めて、しゃがみこんだ。
「不思議な風景はアゥマの記憶として納得出来るけど。蒼の両親が見えたのはなんでだろうねぇ? その時の両親に、アゥマが関係してたってことかなぁ」
「さっさぁ。でも、私の記憶にある場面じゃなかったし、夢にしては凄く現実味があったんだよね。溜まりが見えたから、アゥマは関連していると思う」
蒼は意識を取り戻した時、あの場所へ戻らなければと思った。決して夢の中に戻りたいという願望ではない。ぼんやりとしたモノではなく、掴めると思えたほど、現実味を帯びていた。薄い壁の一枚向こう側で、今まさに起きていることのようだった。
蒼は、真赭の頭を撫でる。今は、眼前で肩を落としている真赭の方が気がかりだ。数回、大人しくされるがままになっていた真赭が、重い調子で顔をあげた。今にも泣き出しそうだ。
「だから。現実と区別がつかないくらいだったから、蒼は『行かなきゃ』って言ったのよね?」
苦笑に混ぜて掛けられたのは、予想外のモノだった。蒼が見るモノをある程度予測していなければ、状況が状況だっただけに、普通は覚えていないような言葉だ。実際、浅葱は首を傾げている。
長い沈痛の溜息が響き渡る。憂心に真赭を見つめる蒼と浅葱。しかし、真赭の顔は、どこかすっきりとしていた。軽く頭を振り、しっかりとした調子で腰をあげた。そのまま、真赭は蒼に手を差し伸べた。
真赭の変化に、蒼は戸惑いが隠せなかった。手を引かれ立ち上がると、アゥマが放つ光りを受けて輝く水晶に目がくらんだ。天井が近くなると、頭上の煌めきが一段と近くなる。起きた眩暈は、それだけが原因ではないのだろうけれど。
「私もね、蒼と似たモノを見たと思うの」
「えっ?! 真赭も?!」
「だーかーらー! ボクにはさっぱり話がわかんないんだってばぁー!」
浅葱の拗ねた声が、鼓膜に響いた。ぶすりと口を尖らせた浅葱。いつもなら真赭の鋭い叱責が飛ぶのだが、今は困った笑みを浮かべている。
「わかっているわ。おばぁ様が亡くなった後、この懐中時計を持って、一人で書庫に来たの。ここなら、両親もほとんど来ないし。それで、何度か共鳴をはかっているうちに意識が遠のいていって……」
「真赭も、見たんだね」
「私が見た映像はひどくぼやけていて、おばぁ様が水の近くに立っていたということだけしかわからなかった。けれど、全身粟立って、呼吸が止まる緊迫感があって、絶望感が漂っていて……とても、とても恐ろしい空気に満ちていたのは感じたわ」
真赭が小さく頭を振った。短いくせ毛が、ふわりと舞った。
蒼が遭遇した場面と似ているが、見えている範囲は違うようだ。溜まりと認識も出来ないほど、鮮明ではなかったのだろう。もしかして、見る者に親しい人の姿が現れるのかもしれない。
浅葱が腕を組んで、唸り声を捻り出す。
「うーん。真赭はおばあさんを、蒼は両親と朧気な他の人を見たのか」
「そう、ね。私が溜まりを認識出来なかったり、視界が狭かったりしたのは、共鳴力の差だと思うわ」
共鳴力。アゥマと深く繋がる力の差とも言えるかもしれない。共鳴力の強い蒼は、真赭よりも多くを垣間見たということだ。
浅葱は落ちていた上着を拾い上げ、真赭の肩に掛けなおす。自分を包んだ上着を、強く掴んだ真赭。
「おばぁ様は亡くなる直前、髪を切っていたわ。私が見たおばぁ様の髪は、短かった」
「ということは、つまり……!」
「あれが現実に起きた一場面なら、亡くなった真相に繋がるのではと考えたの。だから、共鳴力の強い蒼なら、もっと詳しくわかるんじゃないかって」
真赭の声は諦めの色が濃い。認知出来た内容は、二人とも大した違いはなかった。差はあれども、根本的な部分は同じだ。
と、蒼の脳裏に古書の一文が流れる。先ほどの真赭の様子から、同じことは予想出来た。けれど、糸が繋がっているわけではない。それこそぼんやりとした霞みの中に、どす黒い塊が浮遊している感覚があるだけだ。お互い、沸いてくる得体のしれない恐怖を言葉にするのが怖いのかもしれない。
真赭の頬が硬く締まった。
「本当に、ごめんなさい。信じてもらえないかもしれないけれど、あの黒い陰のことは、全く知らなかったの。私が鍵を解除した時には、あんなこと起こらなかった。ただ、蒼が『行かなきゃ』って叫んだ時、私は蒼が見たモノがおばぁ様じゃなかったことに、少なからず、がっかりもした」
真赭には悲愴感が漂っていた。蒼に対する懺悔の気持ちと、真相を知り得なかった落胆。様々な想いが入り交じっている。
真赭は、蒼の判断をじっと待つ。
浅葱も、その様子を静かに見守っていた。