第33話 水晶の間4―始まりの一族―
「じゃあ、続きを読むわね」
真赭がしっかりとした口調で、蒼と浅葱に確認した。
蒼と浅葱は沈黙のまま深く頷く。蒼は両膝を抱え込んだ。
さて、まずティエンチについて、再度確認しておく。
ティエンチとは、近代になって作られた言葉である。意味としては『天職』を示している。アゥマを使役する者を、天に命ぜられた職と呼ぶことから出来た言葉だ。しかし、歴史を遡ると、元々は『クネパ』と呼ばれていた。『特殊技能職人』ということから、元来職人という意味合いが強かったのだ。それを後世の人々が、崇高化したと言えよう。
ならば、何故このような言葉の改変が必要とされたのか。それは、何をおいても組織化した国の存在、その国々のクネパの扱いが影響している。
「へぇーボクは聞いたことなかったなぁ。『クネパ』かぁ」
「師匠の所で修行していた時は、みんな、職人のことを『ティエンチ』じゃなくて『クネパ』って呼んでた。言葉が違う国でも、アゥマ使いの呼称って、ほとんど同じなのにって不思議に思ったもん。違いを聞いても、古い言い方だってことしか、教えて貰えなかったけど」
「蒼のお師匠様が住んでいらっしゃる場所は、人里から離れているのよね? そういう所では、形だけでも残っているのかもしれないわ」
真赭が視線を斜め上に転がした。その拍子にずり落ちそうになった上着を、掛け直す。
今では慣習的な意味合いが強いのだけれど、茶師は他店で師匠を持ち二年間修行を行う。
蒼の師匠は、白龍の昔馴染である黒龍だ。その彼が店を構えているのが、とんでもなく人里離れた場所だ。この古書の作者が本を書こうと決意したのは桃源郷のような場所へ辿り着いたのがきっかけだとあったが、そこと似ているかも知れない。古代の呼称が残っていても不思議ではない雰囲気と古の遺物が多くある村だった。
浅葱はいまいち想像がしにくいようだ。しかし、わずかに首を傾げただけで、すぐにさして気にした様子もなく「ふーん」とだけ零した。
そんな浅葱を見た真赭が、顎に指をあて再び口を開いた。
そもそも、『クネパ』――本書では古代のアゥマ使いへ畏敬の念を払い、こう呼ぶ――とは、樹からアゥマを使役する能力を特別に与えられた一族、ということ以外、成り立ちも彼らの出生も詳細は伝聞されていない。故意に隠匿されているとも考えられるが、それも推測の域を出ない。
ともかく、アゥマは世界の汚染を取り払う物質であることは確かだが、当時万人が扱うことの出来る物ではなかった。それをある一族、一説には樹が存在する聖地に根付いていた民族だと言われている人々だけが、魔道を用いて浄化を施行することが可能になったとある。魔道もまた全世界では存在しなかった、もしくは発展していなかったと言われている。それが今や、一部の例外を除いて、世界中の人間が魔道を操りアゥマを纏っているのだ。勿論、技量の差は存在するのだが。
その一族は極自然に各方面から重宝されるようになった。一時期は聖人としても祀られるほどだったと言う。
しかしながら、彼らは特殊な技能を驕ることもなく、あくまでも国という組織ではなく、個として人々のために働いたということだ。むろん、彼らとて人間。極一部の者は、その力によって富と権力も得ていたが、表舞台に出ることは少なかったと言えよう。
「いわゆる、『始まりの一族』とか『ラウルスの申し子』呼ばれる人たちだよねぇーそれはボクも聞いたことある。それにしても、特殊な力を持っていても、権力にぐらつかず献身的に働くってすごいよねぇ」
浅葱が感心した様子で、何度も頷いた。眩暈が起こりそうな勢いだ。
蒼の瞳も輝いている。今も語り継がれている話が古書に記述されているのを目の当たりにすると、時空を越えた繋がりを感じて胸が高鳴って仕方がない。しかも、自分たちよりも伝説に近い時代に生きた人間が、というのがさらなる興奮を誘う。
しかし、と蒼の顔にふとした疑問の色が浮かんだ。
「でもさ、個としての人々ってあったけどさ。私たちが知ってるおとぎ話だと、とある人物と手を取り合って、大きな国を建てたってあるよね。世界の秩序を守るためって」
「そうだよねぇ。その国が、全ての国々の祖とか言われてるよねぇ」
子どもの時から絵本や紙芝居、演劇など多くの方法によって語られる物語。それを疑うことなど、考えたこともなかった。職人の家系だけではなく、今この時代を生きる多くの人々が同じだ。
それだけ親しまれ、意識の中に存在する話――もはや、史実なのだ。
真赭は二人の疑問に直接は答えず、先を進める。
人間とは恐ろしい生き物である。そして、恐怖に支配されている悲しい生物。
世界の汚染から生き残った人々は、はじめこそ手を取り合って助け合いながら文明を築き上げていった。樹を崇め、クネパを尊敬し、復興に精を出し、生きていることにただ感謝をする。
しかし、ある時、考えるのだ。『クネパは本当に欲なくアゥマを使っているのだろうか。我々は彼らに騙されているのではないか。いや、彼らに踊らされているだけに違いない。再び緑溢れる大地が蘇った暁には、自分たちだけが支配する世界にする企みを抱いているのだ』と。不安というものは悲しいかな、希望よりも容易く伝染し、心を蝕む。湧き始めた猜疑心は止むことを知らない。
そうして、弾圧は始まるのだ。まさに『人狩り』と呼ぶべき、惨劇だった。
それまで抑揚なく読み上げていた真赭の声が、苦々しく濁った。最後に聞こえた言葉は、おとぎ話とはかけ離れていて。蒼は絶句したまま、身動きできずにいた。呼吸が、止まる。煩いくらい高鳴っていた心臓が、今は嘘のように静まり返っている。動いていないみたいだ。
蒼とて、おとぎ話が全てだとは思ってはいなかった。白がいつも言い聞かせてくることに『見えるモノだけが全てではない。今、知り得ることだけが真実ではない』という言説があったから、平素から心がけてはきた。けれど、今しがた耳にした内容は、想像を遥かに越えている。
「ひと、がり……?」
うわ言のように呟くと、途端、ぎゅっと胸が締め付けられ、鼓動が耳にまで響いてくる。生まれて初めて耳にした単語のように、拙い発音だ。頭が理解することを拒んでいる。
真赭は瞳を曇らせ、歯を擦り合わせている。ぎこちない仕草で横を向くと、浅葱は眉間に皺を寄せ、頭の後ろで組んでいた腕を中途半端に解いたところで固まっていた。
蒼はそれ以上、言葉が出てこなかった。意を決した様子で、真赭は続ける。
一族は数を増やし、組織と呼べるほど成長していた。それを国は驚異に感じていたのだろう。知識を持ち経験深いが抵抗力に乏しい老人や洗脳しやすい子どもを除き、組織の中心を成す若人たちが、まっ先に狩りの対象になったという。一族の長を捕らえ、まず指揮官を奪う。そうして、戦力となる年齢層を奪ってしまえば、あとはもう国側の思惑通りに事は進んでいった。元々争いは好まず、博愛を志としていた一族だ。
得た知識とそれを忠義に実行する駒を手中におさめた国は、発展の一途を辿っていったのだ。
だが、恐らく樹の加護を畏怖してのことだろう。単なる奴隷として扱うことには、さすがに抵抗があったようで、一族の生き残りには溜まりの守人という地位と物資の優先権を与え、職人として国のために尽くすよう洗脳していった。それと同時に、国の一大事には命をなげうつようにも責を科して。
見れば、真赭の古書を掴む手が、そのまま紙を引きちぎってしまうのではと思える程、明らかに震えていた。いや、手だけではなく全身が揺れている。
今の話を聞く限り、溜まりを守護する者は弾圧された一族の子孫ということだろうか。いや、その国の存在自体、もうないのかもしれない。それに、現在の溜まりの守護者とて建国当初からという一族ばかりではない。そこまで考えて、ふと蒼の頭に疑問が浮かぶ。
「あのさ、私、思ったんだけど。その当時、アゥマを用いて浄練を行うことが出来たのは、その一族だけだったんだよね?」
「えっ、あぁうん、おとぎ話でも歴史的にも、そこは同じだろうねぇ」
「でも、そんな希少な一族を、人々を殺してしまうってことはさ、アゥマを使える人も減るってことでしょ?」
蒼は混乱する思考回路を必死で働かせる。鼻に立てた右の人差し指を触れさせ、ともすれば散ってしまう集中力を高める。
蒼は古書から目を外し、水晶下のアゥマを見つめた。
「えっとさ。でも、溜まりを守っている一族が上手く扱えるっていうのはあるけど、突然変異はあるとしても、今の時代、ほとんどの人がアゥマを使えるわけじゃない? 乱暴だとは思うけどアゥマを身体に取り込むことや、一族の子孫と他の人の血が混ざってっていうのもわかるよ? けどさ、そんなに早く、人間の体って変わるモノなのかなって。だって、前の世界――文明の人ってアゥマが使えなかったどころか、存在もしていなかったのに」
蒼自身も何が言いたくて、言葉を吐き出しているのかわからなかった。違和感の正体を求めているのか、それとも何故か浮かんだアゥマが使えない例外の人間の名前を振り払うためか。
ついさっきまでは全身をそばだてていた冷気も、全く感じられない。反対に、血が駆け巡り、熱でどうにかなってしまいそうだ。
真赭は黙ったままだ。浅葱がしかめっ面のまま、戸惑った声を出す。
「どうだろうねぇ。ボク、その辺りは専門外だからなぁ。とは言え、何千年も昔のことだしねぇ。それだけ時間があれば、変わるんじゃない? 世界の汚染だって大方なくなって、植物やら生物やらも浄化されてるわけだしねぇ。ラウルスの加護だってあるだろうし。それか、術的なものを生み出したか。なんといっても、実際、ほら、使えるようになってるわけだし」
浅葱の意見は、正論だった。それに、案外的を射ているかもしれない。人間の構造の変化などという難しいこと、蒼たちは知らない。魔道が発展していったのなら、そこでアゥマを使役しやすい方法を見つけたのかもしれない。
だが、古代の人々が辿り着いた方法は、一体どういったモノだったのか。蒼はそこが気にかかって仕方がなかった。
「そうなんだけど。浄練はまだ必要とはいえ、世界のほとんどが浄化されているのは確かだけど。そうなったのも、数千年の歴史から見たらつい最近のことなのかなって、思ったのもあって」
「あーまぁ、言われてみればねぇ。だけど、当時人間の数自体少なかったわけだし、世界規模とは又違う気もするんだよねぇ」
存外、浅葱は冷静なのかも知れない。しかし、彼女の様子を見る限りでは、動揺していることは確かだ。胡座を組んでいる足を忙しなく揺り動かしているし、やたらと自分の顔を触っている。
蒼が「浅葱、意外と落ち着いてる?」と聞けば、浅葱は「いや、混乱しすぎて逆に冴えてるのかもねぇ。つーか、思考が単純になってるだけ」とやたら真面目な瞳で返された。
やけに納得してしまった蒼だが、話を戻そうと背を正した。
「浅葱が言うのがもっともなのかも。あっ、あとね、私が不思議というか、疑問に思ったのは、変わり方というかアゥマを使えるようになった方法とかあるのかなって。もちろん、数千年かけて変わったのなら、方法とかはないんだろうけど。でも、もしかしたら、両方なのかもって。あれ? 自分で何言ってるか、意味不明。バラバラになってきたよ」
ついに、蒼は頭を抱え込んでしまった。まったくもって、自分が声に出している言葉が不可解だった。想像ばかり広がって、着地点の見えない考えばかりが浮かんできてしまう。
髪を左右に振り乱して大きな声をあげる蒼。浅葱も腕を組み、後ろに倒れてしまいそうなほど天井を見上げて唸っている。
一人静かな真赭に意見を求めようと、二人の視線が一斉に彼女に向けられた。
「私も、不思議だったの……でも、どうしても、皆がアゥマを使える様になったことに関する記述があるだろう部分が解読できなくて」
「うわぁぁー!! そこ、一番気になるよぉー!」
「ただ、単語だけは拾えたのだけど、良く理解出来なくて」
そう言い淀んだ真赭。伏せられた瞳が、揺れた。真赭の知らない古代文字を、自分が解読できるとは思えないけれど、好奇心がくすぐられる。
真赭が数枚紙をめくった。
「そうね。『いでんし』『さいぼう』『ぽ……連鎖反応』『げのむぷろじぇ』とか」
「聞き慣れない言葉だよね。どういう字なんだろう」
「たぶん、この古書より古いモノを調べれば意味がわかるのかもしれないけれど。少なくとも、今まで私が読んだ文献には出てこなかったわ」
真赭は幼い頃から古書に限らず、様々な書物を読破してきている。冊数にすれば、かなり膨大な量になるはずだ。専門機関の司書となれば、また別の話かもしれないが、並の大人の知識では到底適わないだろう。
まだ心臓から気持ち悪いくらい血が全身へ流れていっている感覚はあるが、やや落ち着きを取り戻した蒼。深呼吸を数回すると、くらくらと回転していた視界が元に戻っていった。もちろん、恐ろしい言葉を忘れたわけではない。耳に入ってきた時は随分と混乱してしまった。しかしながら、どうにも実感というか現実味を感じられないのだ。蒼の中にある世界とかけ離れている。
「前後の文章も、解読出来ないのかな?」
「そこなのよ。良くは理解できないのだけれど、凄く嫌な感じだけはして。この部分の封印のアゥマは他に比べ物にならないくらい強いし、術者の深い闇に嫌悪それに憎悪が反映されている。あっ、文章がね。文脈から予想すると、一族の身体で何かしらの実験をしたり、アゥマを扱えない一般の人と比べたり。方法は全くわからないのだけど、そういうことだと思うわ」
「ふーん。今は普通になってるけど、アゥマの解析とかなのかねぇ?」
三人寄れば某とは良く言うが、三人揃ってあがるのは唸り声だけだった。若い娘が三人、円になって低い可笑しな声を出している姿は、何とも奇妙だ。
そう言えば、と蒼が手を叩いた。やはり、変らず部屋の中に澄んだ音が響き渡った。
「とっとにかくさ、先を読んでみようよ! 解読出来てる部分はある?」
「そうね……」
真赭の細い指が紙を滑っていく。
しばらくの間、耳触りの良い、紙の擦れ合う音だけが部屋に満ちていた。上質な厚い用紙が生み出す乾いた音。胸の中でくすぶっている不安を、少しだが取り除いてくれる気がした。