第32話 水晶の間3―秘密―
「浅葱!」
「おいよぉー!」
ぐっと、浅葱が蒼の手を握りしめた。思ったより強い力が込められている辺り、予想以上に曲者なアゥマなのかもしれない。蒼にとっては、共鳴しやすい相手だったが、相性は人それぞれだ。
蒼が共鳴によって引き出した古書のアゥマを、浅葱が練っていく。この場合、蒼が紡いだ糸を、機織り機で形にしていくのが浅葱の役割といえる。その布に刻まれた文字を真赭が解読していく。
己の仕事が一段落したとはいえ、浅葱の作業が終わるまでは気が抜けない。ぷつりと、織り糸が切れてしまっては、意味がない。少しでも、浅葱と真赭が楽になるよう、より深い部分のアゥマを探ろうと、蒼は顎を引いた。
しばらくして、真赭が肺から全ての空気を吐き出すほどの溜息を落とした。それが合図になり、蒼と浅葱の全身から一気に力が抜けていく。
「はぁー」
蒼は両の手を後ろへとつき、天井を見上げた。水晶の床に触れている部分から、熱が体外へ逃げていき気持ちが良い。思い切り息を吸い込むと、やはり、冷気が飛び込んできて、心が落ち着いていった。
前向きに上半身を折っていた真赭が、いち早く姿勢を正した。恭しく、古書を手に取ると、震える指先で表紙をめくった。興奮の色が濃い緊張感だ。重々しい装丁の表紙が、ゆっくりと開かれていく。真赭の指が紙を撫でると、一斉に光り出し、文字らしき形へと変化していく。らしきとは、現在使われている形式の字ではなく、蒼の記憶の中にある、いわゆる古代文字と呼ばれるものに似ていたからだ。蒼も茶葉やアゥマの歴史を勉強するうえである程度の古代文字は学んだが、目の前の文字はどれにも当てはまらない。
真赭は書物の知識だけではなく、それを読み解くための道具として古代の言語にも精通しているので、無駄骨にはならずに済むだろうけれど、かなり時代を遡りそうだ。
真赭は沈黙したまま何項かに指を滑らせる。数枚に目を通すと、落胆とも安堵とも取れる息をついた。
「ところどころ解読できなかったけれど……」
「お疲れさまぁー! 早く、はやく読んで!」
それまで横に倒れ込んでいた浅葱が勢い良く起き上がり、真赭にせがんだ。仕草にこそ出さないが、蒼とて同じ心境だ。
二人の視線を受け、真赭が大きく深呼吸をした。部屋の空気が全てなくなってしまうと錯覚してしまうくらい、大きく動く華奢な肩。ある程度内容を知っているはずの真赭でさえ、声に出すことを躊躇うほどの事実が記されているのかもしれない。
数度同じ動作を繰り返し、真赭の視線が二人を射抜いた。
「この書に記すは、龍脈によって栄枯した国々。また、今はティエンチと呼ばれるようになったアゥマを繰る人々についてである」
「そこだけだと、なんか普通の歴史書っぽくないかい?」
「浅葱、ちゃちゃ入れないの」
蒼が浅葱の膝を軽く叩いた。やけに部屋に響き渡る。
しかし、真赭はそれどころではないようで、特に何も返さずに話を続けた。
「最初の方には、そういった古代の国々についての歴史が記されているみたいね」
真赭が独りごとのように呟いた。そのまま、視線を左から右へ転がしていく。解読が難しい部分が所々あるようで、しばし手が止まる。とんとんと、自分の頭の横を叩いては、再び読み進めていった。蒼と浅葱は、正座をしてじっと待っていた。
同じ動作を繰り返した真赭がようやく顔をあげたのは、大分時間が過ぎてからだった。
「問題なのは、本の三分の二を過ぎたあたり。封印が強くなっている部分から。出来るだけ、現代語に近い言い回しで読むけれど、不明なところがあれば、言って」
真赭は微笑んだ。力のない笑みは、自分を落ち着かせようとしているように見える。蒼には、今から口にすることが、恐ろしい内容であることを暗に語っているように思えた。蒼は小さく頷く。やや遅れて、浅葱も緊張した面持ちで、それに倣った。
いつもよりもぐっと低くなった声で、真赭は古書を読み上げる。
――以上、私がこれまでに調べ上げることが出来た国々である。とある国は既に滅亡し、また、とある国は未だ繁栄の道を辿っている。
だが、私が本書を纏める上で重要視しているのは、其のような国々の歴史ではない。国家、いや、世界の文明を遡り、目の当たりにした現実だ。
龍脈≪りゅうみゃく≫。
それは、人々がアゥマと呼称する物質が、流れる道。アゥマと呼ばれる物質やアゥマを生み出している樹が、前文明のもたらした汚染を取り除いたことについては、すでに本書の冒頭でも記した通りである。
アゥマが溜まる場所に、汚染から生き残った人々が国を建て、再び文明を築いてきたことも、前述の通りだ。私が纏めあげるまでもなく、周知の事実でもある。
しかしながら、私は調査の中、ひとつの疑念を抱いた。神殿に記録されている歴史、国の蔵書、市井の人々の記憶。それらから得る情報は、大方が樹やアゥマがもたらす益に関するものであった。
世界の真理は表と裏であると、つねづね、私は考えてきた。それは私に限っての思想ではないということもまた、変えようのない事実である。
だが、どうだろう。人々はのぼせた顔で、真実を語るはずの書物でさえ陶酔した言葉で、樹やアゥマを讃えるばかりである。
だから、私は本書を手がけることにした。しかしながら、現代において、日の目を見ることは、まずないと予想している。万が一、本書が世に出たとしても、存在を消されることは必至だと、容易に想像が出来る。
今の世でなくともいい。後世で、真実を望む人間の力になればと願うばかりである。
それだけ、本書に記したのは、容易に受け入れることが出来ぬような驚愕の史実。私は知らぬ人々を、私は愚かだと悲嘆しているわけではない。私も桃源郷のような場所にたどり着かず、ある人物に出会わなければ、目を逸らしていただろうから。
今はこうして、知り得たことを書き綴ることしか叶わぬ無力な己を嘆くことしか出来ないが……。私が持つ全ての情報を書に詰めようと思う。
前置きが長くなってしまったが、まずは国とティエンチの関係から記していくことにしよう。
耳あたりの良い調子の声が、区切られた。真赭が言葉を止め、唇を舐めている。乾燥しての、行為ではない。ここは、どちらかと言えば、霧が降り注いでいるように潤っている。
躓くことなく朗々と読まれた文章は、歴史書という印象はなかった。
蒼は考えていた。古書というと、小難しい文体で書かれたものが多い。古語を現代語に訳すと、どうしても読みにくくなってしまうという。それを差し引いても、重要度が高く現代まで保管されている古書の内容と言えば、博識なものだ。
今、目の前で真赭が読み上げているそれは、まるで日記のようだ。この先書かれているであろう事実は、筆者の躊躇う様から、余程のモノだとは予想出来るが。
たいしたことでもないので、蒼は口にするべきか迷ったが……小首を傾げると、自然と感想が出てきてしまった。
「歴史書というよりは、日記みたいだよね。三分の一内容は知らないからさておき、今の部分に関しては、そんな雰囲気」
「そうね。こういった著者の主観は、本編前にのみ記されることが多いけれど。敢えて終わりも近いここに記されているということは、最初という人目につきやすい場所に書くには気が引けるけれども、収められずにはいられなかったというか……」
言いにくいことなのか、真赭の喉が鳴ったのがわかった。今度は浅葱の視線が宙へ向いたが、言葉が発せられることはなかった。
姿勢を正した真赭が、蒼と浅葱を見据える。
「ここから先が、この古書が厳重に保管・封印されている所以みたい」
強い口調で告げた真赭の指先は、小刻みに震えていた。
理解しやすい文章は、とても助かる。だが、その親しみ易さが逆に身近な恐怖を煽ってくる。蒼は自分自身を抱きしめるように両腕を握り締めた。
「ちょっと寒くなった気がしない?」
「確かにねぇーここ、少し寒いし。ボクは長袖だけど、蒼と真赭は半袖だしねぇ。一回、外に戻って、そこで読むかい?」
浅葱が両袖を持ち上げて、軽く振った。とはいえ、浅葱の着ている直垂も厚さはない。先は気になるが、確かに、表に出たほうが明かりも確保できるかもしれない。
真赭が、残念そうな声を出し、髪を揺らす。
「それは、駄目。この古書を水晶の間から出せば、誰に気配を感じ取られるか、わからないわ。水晶の間自体に封印が施されていることにも意味があると思うの。危険は回避することに越したことはないわ」
真赭の口から出た息が、白く色づいた。心なしか、唇も青い気がする。先程までは、封印の為に魔道を使用した影響か、若干温度は高かった。じっと座っていることもあり、実際、室温自体が下がっていっているのかもしれない。
蒼と浅葱は顔を見合わせ、小さく頷きあった。蒼は腰帯に手をかける。全面に付いている飾り紐をひき、大きめの蝶々結びを解いた。まっすぐになった腰帯は肩掛けになる程の大きさはある。
「どっこいしょ」
年寄りめいた掛け声をともに腰をあげると、真赭の肩にかけ、胸の前で結ぶ。
「保温効果はないけど、きっと、ないよりはましだよ?」
「蒼、いいわよ! 貴方だって、鳥肌たってるのに!」
真赭が、慌てて結び目を解こうとする。
今度は浅葱が素早く上着を脱ぐと、真赭に羽織らせた。真赭の猫目が、さらに見開いた。
「浅葱も、いいわよ!」
「この中で一番体力ないっていうか、むしろ病弱なんだから、大人しく着てなよぉ」
「そうそう。長丁場になるかもしれないからね。真赭が倒れちゃったら、私たち先が気になってしょうがないもんね」
二人で、悪戯な笑顔を浮かべてみせる。体の弱い真赭に、この部屋の温度は厳しいものだ。加えて、極度の緊張状態が続いている。蒼と浅葱も、今までの出来事と古書について興奮していたため、真赭の体調にまで気を回す余裕がなかった。
蒼と浅葱は元の場所へ戻り、聞く体勢に入っている。真赭に有無を言わせないためもあるし、出来ればこの部屋自体から早めに出る必要があると判断したためだ。
二人の気迫を感じ取ったのか。真赭もそれ以上、遠慮の色を見せることはなかった。
「ありがとう」
少しは効果があったらしく、真赭が、ほぅと息を吐く。そうして、再度視線を古書へと落とした。紙が擦れる音がした。