第31話 水晶の間2―封印解除―
水晶の床。その下で流動している、アゥマを含んだ水の冷気が伝わってくる。空間に満ちている心地よい空気と同じで、嫌な冷たさではない。霧のように漂っているアゥマの粒子が、肌に触れては消えていく。
蒼と真赭それに浅葱の三人は、先程まで古書が封印されていた台座の前に座り込んでいた。蒼と浅葱は、固唾を呑んで、一冊の古書を見つめている。その本を抱えている真赭は、落ち着いた手つきで古書を置いた。その拍子に、水晶下に流れるアゥマと反応しあい、淡い光が古書から溢れた。
古書と溜まりとの間で起こった共鳴だ。別段、変わった現象ではない。けれど、神秘的な雰囲気に包まれているせいか、蒼の全身が震えた。鳥肌までたっている。
円になった三人の中心に置かれた古書。膝ひとつ分だけ距離を置いた場所にある古書に、真赭の掌が重ねられた。
「さっきので大方の封印は解けているのだけれど、本を開くにはもう一段階、処理が必要なの」
真赭は早口でテキパキとことを進めていく。どこか急いた調子に思えるのは気のせいだろうか。少しばかり気にはかかったが、蒼は大人しく耳を傾けることにした。
けれど、隣の浅葱は我慢できなかったようだ。真赭の不機嫌を誘うと理解しているはずなのだが、のんびりとした声で疑問を口にする。
「あー、そう言えばさぁ、ボクちょっと気になったんだけどぉ」
「なによ?」
「真赭は、おばあさんが守ってたっていうこの古書や、封印の解き方を知ってるのはなんでさぁ? それに、怖いって言ってたのって、この古書の内容がってことかい? そうだったら、ボク、心の準備しなくちゃ」
浅葱が口にした疑問。それは蒼にもあるものだった。
こんなにも厳重に管理された場所と古書の存在を、真赭はどうやって知り得たのか。それに、真赭があんなにも怯えて発した『怖い』という言葉。しかし、今の彼女の様子は至って冷静だ。どこかそわついている雰囲気はあるものの、それは負の感情でないことは、彼女の表情や饒舌さから察することが出来る。
真赭といえば、やはり、ムスリとしてはいるものの、落ち着いた仕草で頬に手を添えた。口を開く前に、じっと蒼の目を物言いたげに見つめただけで、他に動揺している様子はない。
「本の内容は、一部だけれど、知っているわ。それに古書の存在や封印については、しかるべき人たちから教わったわ。あと……『怖い』という言葉に関しては……」
真赭は短く発していた言葉を一旦切ると、憂いの色を浮かべた。落胆にも似たような顔色だった。次いで出てきたのは、声ではなく溜息。
蒼が真赭の名を呼ぶと、開きかけた口を再び詰むんでしまう。『怖い』ことを思い出してしまっているのだろうか。今は触れるべきことではないのかもしれない。
話を変えようと、蒼は浅葱の方へと顔を向ける。水晶がきらりと光り、眩しさのあまり一瞬目を閉じてしまう。
先に声を出したのは、真赭の方だった。
「ごめんなさい。そのこと自体が直接古書と関係あるかは、はっきりとはわからないの。どうやら、一番確実な方法は駄目だったみたいだし」
肩を落とした真赭。しかし、すぐに、目を見開いて口を覆った。つい先ほどまでとは一変し、激しく動揺しているようだ。さっと、真赭の肌から血の気が引いていく。
「え? いつの間にか、なんかしたのかい?」
真赭の様子に気がついていない浅葱は、きょとんと瞬いた。
「でも、関連したことが、この古書に載っているかも知れないの!」
汗を一筋流した真赭には、確かに焦燥感があった。だが、他にも複雑な感情も抱いているような気がした。申し訳ないような、苦しんでいるような。蒼の記憶にもある顔だ。どこで見たのか記憶を辿ってみるが、思い出せない。
意図してか否か、浅葱の質問には答えなかった真赭。両手で古書を握り締め、腰を浮かせている。
この短い時間に起こったことと言えば、黒い陰に襲われ、書庫の仕掛けが起動したくらいだ。その騒動の間に、真赭が何かを試している素振りなど、なかった。蒼は首を傾げるばかりだった。
「真赭が言いにくいことなら、今話さなくても大丈夫だよ? とにかく、真赭は早く本を読みたいんだよね」
「蒼……ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないよ? さっきから読みたくて仕方がないって顔でうずうずしてるんだもん。それに、私もこんなに厳重に封印されている本に何が書いてあるのか、すっごく気になってるし!」
蒼は拳を握って、明るい声でおどけてみせた。
けれど、真赭は小さく頭を振って、もう一度謝罪を口にした。真赭の本の虫っぷりは、蒼も浅葱も十分すぎるほど知っている。どうして何度も謝るのかと、蒼には不思議で仕方がない。
浅葱も同じだったようだ。二人は顔をあわせて、眉を垂らしてしまった。沈黙が訪れる。しかし、数秒後、浅葱が勢い良く腕をあげた。
「真赭先生、質問です!」
「えっ? えぇ、なに?」
浅葱の声に、拍子抜けした顔で応える真赭。
「さっきの質問に、本を読んだ後でもいいから、ボクたちにもわかるように答えてくれますかっ!」
「もちろんよ。私が古書の存在や封印の解き方、本の内容を一部知っている理由も、きちんと説明するわ。しなければいけないことだから。……『怖い』という内容についても」
「じゃあ、ちゃっちゃと封印の解き方、教えてくださぁーい!」
言い終えると、浅葱は口の端をめいいっぱい伸ばした。
今度は、蒼と真赭が呆気にとられてしまった。全く、浅葱の空気の読み方には驚かされる。昔から、あっけらかんと重い空気をひっくり返す幼馴染。切り替えの速さは天下一品だ。
蒼からくすくすと笑い声が漏れると、浅葱は頭をかきながら
「ボク、深く考えるの苦手だからさぁ」
と笑みを深めた。
真赭が顎を引いた。小さい声で何事か呟いたようだが、二人の耳に届くことはなかった。けれど、あげられた真赭の頬に赤みがさしていたから。二人は、ほっと胸をなでおろした。
二人の様子に気恥しくなったのか、真赭はやや大きな音を立てて、古書を床に置いた。
「じゃあ、今から封印を解除するわね。ただ、私一人ではアゥマの共鳴技術も封印解除術も足りないから。蒼と浅葱に手伝って欲しいの。特に蒼」
真赭の表情はこの上なく真面目だ。思わず、蒼はたじろいだ。共鳴に関しては幼い頃から褒めてもらえることが多かった。だが、飛び抜けた技術があるわけではない。好きなものこそ上手なれ、の程度だと思う。
蒼は言葉なく、瞬きを繰り返すことしか出来なかった。
蒼を数秒見つめたあと、真赭は大きな溜息を落とした。
「蒼、貴方の共鳴力は、自分が考えているより遥かに優れているわよ? 表での書架でもそうだったけど、茶葉の浄練に留まらない共鳴範囲の広さだって、その一つだわ」
「そっそういうものかな?」
「ボクも、真赭のその意見には同意だなぁ」
腕を組んだ浅葱が、大袈裟に頷いた。
あまり真面目な顔で褒められると、恥ずかしくて仕方がない。照れくささのあまり、蒼は頬をかきながら視線を逸らした。
未だに自分の評価に納得出来ていない蒼の心中を察してか、真赭が苦笑を浮かべた。早く本を読みたいと言っているのに、説明を求めてしまって申し訳なくなるが、蒼としても気になるところだ。
真赭が笑みを深める。
「ここに入る前に、昔話をしたわよね」
「うん、私が小さい頃川に落ちて、変なのに足を引っ張られたって話、したね」
「私、前に白様とおばぁ様の会話を、偶然聞いたの。事件からしばらくしたある日、封印がかかった本を白様が心葉堂の溜まりで処理しようとしていた時、蒼がこっそり入ってきてしまったらしいの」
真赭の視線が斜め上に転がった。蒼も同じように思い出を辿った。麒淵≪きえん≫と出会ってからは、溜まりに立ち入っても特に叱られた覚えがないので、いつのことだか、さっぱり浮かんでこない。
蒼の頭の中を読んでか、表情に出ていたかは不明だが、真赭は困ったように笑った。
「本人にとっては大した出来事ではないかもしれないわね。だけど、白様にしてみたら、驚愕だったのよ。だって、小さい蒼が高度な封印を解いてしまったのだもの」
「えっ!? すごいじゃん、蒼! 共鳴の技術が高いのはわかってるけど、そんな特技があったなんて初耳だよ」
「うそ?! 私、全然、覚えてないんだけど……」
寝耳に水だ。浅葱が興奮した様子で体を揺さぶってくるが、止める気にもならない。
「覚えてるかは別にして。何度かそういうことがあったって、仰ってたわ」
術の封印を解除する機会など、そう滅多にあることではない。ましてや、幼い頃の出来事であれば忘れてしまっていても普通のことだ。今の蒼自身に自覚が無くても、頷ける。蒼は自分に言い聞かせた。
よっぽど可笑しな表情をしていたのか。真赭が小さく吹き出した。
「まぁ、そういうことなの。あの事件以来、格段に蒼のアゥマの制御能力が上がったらしいわ。それが黒いモノに触れられたのが原因か、川底の濃いアゥマを含んだ水を飲んでしまったからかは不明だけれど。これで納得してもらえたかしら? そろそろ封印解除にうつっても?」
「あっ、うん。ありがとう、頑張る」
「蒼、がんばれぇー」
「浅葱も頑張るのよ。じゃあ、始めるわね」
ついに痺れを切らしたらしい真赭が、本の表紙へ懐中時計をのせた。蒼の手を引き、懐中時計の上へと重ねた。次いで、浅葱の手首をひき、蒼と同じようにする。
そうして、最後に二人の手を覆うように、自分の手を被せてきた。
「蒼に本との共鳴を、浅葱には蒼が引き寄せたアゥマをこねて欲しいの」
「華香札を作るのと同じ要領でいいんだねぇ?」
「えぇ。私がそのアゥマを解読して、本を解放するわ」
緊張からか、真赭の声が一段と厳しいものになる。短く言葉を発すると、瞼を閉じてしまった。アゥマを集めるために、意識を集中し始める
蒼の心拍数が上がっていく。つい、肩に力が入る。
ちらりと横目で浅葱を見ると、すでに真赭と同じ姿勢になっていた。蒼は慌てて瞳を瞼の裏に隠した。一番手である蒼の準備が整わなければ、いつまで経っても始められない。
「よし」
蒼は、小さく呟いた後、手の内に意識を集めていった。
たちどころに、全身に良質なアゥマが巡ってくる。濁りのない透明なアゥマが、身体の内側から肌の表面に溢れてくるようだ。
茶葉の浄練を行う際の共鳴は、入り交じった色から適正を判断し選んでいくことがほとんどだが。この古書が纏っているアゥマは単純。いや、単純などというと語弊があるかもしれない。
蒼は、感嘆の息を吐いた。
この古書のアゥマに関しては、無駄がないと言う方がしっくりくる。その上、とんでもなく澄んでいる。人で例えるならば、純粋でありながら、凛とした緊迫感を纏っているような印象を受けると表現できるかもしれない。そうだ、この間を形作っている水晶と限りなく似ている。
蒼は己が煌めいているような感覚に陥っていった。ちょうど水晶が太陽の光を受けて、輝くような。ただし、共鳴の仕方を誤ると、透明なはずのアゥマは虹色を放つ。清廉さに浸っていた蒼は、奥歯を噛み締め、一点に意識を注いだ。ふわふわと揺らいでいた蒼のアゥマが、芯を持ち始める。古書のアゥマへ蒼のアゥマが近づいていく。幾度か、触れるか触れないかの距離にまで詰めるが、なかなか安定しまい。しかし、二つが繋がらなければ共鳴することは出来ない。
蒼は肩の力を抜いて、呼吸を整える。
しゃらん、と鈴のような音色が響いた。
その瞬間、蒼と古書のアゥマの粒子が、一本の糸のように繋がった。