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クコ皇国の新米茶師と、いにしえの禁術~心葉帖〜  作者: 笠岡もこ
― 第二章 クコ皇国の変化 ―
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第29話 蛍雪堂7―開いた扉―

 歯車の軋む音が、広漠とした空間に響き続けている。

 瞼が閉じられているせいだろう。災厄は去ったはずなのに、得たいの知れない音だけが蒼の耳へと流れ込んでくる。それが、蒼の胸をざわめかせた。必死に色を映そうと試みるが、全く力が入らない。


(真赭と浅葱は……)


 ついさっきまで、真赭と浅葱は近くにいた。しかし、二人が動いている気配は感じられない。

 ひょっとして、とても傷がひどいのか。それとも、この轟音の発生源に目を奪われてしまっているのだろうか。どちらにしても、心配なことには変わりない。

 蒼は自分を落ち着かせるために、深呼吸をした。その拍子に、きしりと胸が悲鳴をあげた。蒼の口から、苦痛の声が漏れる。


「うっ――」

「蒼、大丈夫?」


 堪らず上がった声で、真赭が息を飲んだのがわかった。


「浅葱、治癒の華香札かこうふだはあるかしら?」

「あっ、うん。ちょっと待ってねぇー」


 浅葱はいつものゆっくりとした声調に戻っている。

 倒れ込んでいる蒼の頭辺りから声が落ちてきた真赭の声は、どこか呆然としてはいるが、しっかりとして落ち着いた様子だ。

 そんな二人の様子が感じ取れて初めて、蒼は安堵に胸を撫でおろした。若干ではあるが、不思議と体が軽くなった気がした。慌ただしく動く二人の靴音が、床を伝って聞こえてくる。

 蒼はもう一度深く息を吐き、ゆっくりと瞼を持ち上げた。瞼にかかっていた錠が綻びたように、開いていく。途中、眩しさのあまり小さく声が漏れた。

 やがて、ぼやけた視界の向こう側に、自分を心配そうに覗き込んでいる親友たちの顔が見えてきた。徐々に焦点があってくる。

 そして、明瞭になった真赭と浅葱の姿を認識した途端、蒼の体が跳ね起きる。


「いっ!!」

 


 全身裂けるような痛みが、蒼を襲った。あまりの苦痛に、歯を食いしばる。肌に細かく出来ている傷が、というよりは、体内からの疼痛だろう。

 再び、蒼の身体は床へと戻ってしまった。

 しかし、その瞬間。床の冷たさとは反対に、ほのかな熱が額に走った。そのまま、心地よい温度が爪の先にまで流れていく。


(真赭か浅葱が、治癒の札でも使ってくれたのかな。幾分か、さらに体が軽くなっていく)


 掌に力を入れると、かさぶたが剥がれるような感覚が走った。次いで、かちゃんという金属音が耳に届く。瞳を転がすと、大理石の床に懐中時計が転がり落ちているのが見えた。掌に根をはるようにくっついていた懐中時計が剥がれたのだ。奇妙な痛覚に、冷や汗が流れた。

 蒼のだろう。懐中時計の蓋には、赤黒い血がついている。

 蒼から懐中時計が離れたのを見逃さず、浅葱が袖から華香札を素早く出した。それを、真赭がつかみ取る。再び、あの黒い陰が現われては、敵わない。


「封っ!」


 朱色の札を叩きつけられた懐中時計。わずかに身震いしたように見えたが、すぐに動かなくなった。抵抗らしき抵抗もない。もしかしたら、すでにアゥマの発動は解かれていたのかもしれない。

 そんな考えが顔に書いてあったのだろう。真赭はぴくりとも動かなくなった懐中時計を厳しい目つきで見ていたが、蒼の視線に気がつくと苦笑を浮かべた。


「あれが開いた時に、『鍵』は停止したようだけれど。念の為にね」


 そして、蒼の上半身を抱き起こし、書庫の奧の方を指さした。

 蒼の視線が、遠くを見つめた。立派な本棚が並ぶ空間で違和感を与えていた、あの質素な棚があった場所。その棚の後ろの壁が消失し、未だに絡繰り音を反響させているのだ。

 他の本棚から鳴っていた歯車が回るような音は、小さくなっては来ている。けれど、無くなった壁の奧からは、回転音が鳴り続けている。


「なんだか、あそこだけ違和感があるね」


 他の本棚はともかく、本当に普通の家庭にもあるような棚しか置かれていなかった場所だ。収められた本が封印の意味を持つこともあるが、雑然とした様子から、その可能性も考えにくい。

 これといった封印や仕掛け扉があるようには思えなかった分、とても気になる。気にはなるのだが、様子がわからない以上、下手に近づくことは出来ない。

 

「ありがと。体も楽になったよ」


 蒼は軽く肩を動かしてみせた。

 何故か、浅葱から戸惑い気味の声が出てきた。


「いやっ、えーと、それはボクたちじゃなくって」

「え?」


 不思議に思った蒼は、半分閉じかけていた瞼を完全に持ち上げた。二人は蒼の額に視線を集中させていた。浅葱は髪をかき、困惑の表情を浮かべている。蒼が動くより早く。真赭の指が、額へと触れてきた。

 その瞬間、眼前に光が溢れた。蒼は堪らず視界を細めた。瞳の中に広がったのは、七色の光。


「ここ。魔道陣が浮かび上がって、光っているわ」

「あっ。紺君がかけた治癒の魔道陣。なんの治癒術なのかとか、効果とかわからなかったんだけど」


 初めて華憐堂へ訪れた日に、蒼も気がつかないうちに紺樹が施した術。先日、問い詰めた際に、はぐらかされてしまったのだ。

 それ以来、蒼自身もすっかり忘れてしまっていた。


「身体の傷が治ってないってことは、体内損傷への治癒術ってことかなぁ。蒼の体力が戻ってるっていうか、動けるようになってるから、十中八九間違いはないだろうねぇ。そもそも、なんで紺兄が、蒼にこんな術かけてるのさ」


 浅葱の質問は、蒼自身も抱いている疑問だったので、なんとも答えようがない。むしろ、蒼の方が知りたい気持ちが強い。

 一方、指を離した真赭は、難しい面持ちで腕を組み、黙り込んでしまった。眉間に深い皺を寄せて。


「ちょっと前に、いつの間にか施されてたんだけど。理由は私にもさっぱりで」


 蒼は随分と楽になった体を、完全に起こす。肌に出来た傷は痛むが、胸や筋肉への負担はないように感じられた。腕も問題なく持ち上がった。不快感もない。中へ入り込んでいた、あの黒い陰が全て抜けていったのだろうか。先程までのつらさが嘘のようだ。

 蒼は瞼を閉じ、そっと額に触れてみた。どのような状態かは、蒼にわからなかったけれど。とても優しいアゥマの波動を感じる。まるで、紺樹に触れられているかのような――。


「あっ」


 深く息を吐き、瞼を開くと。蒼の前に座り込んでいたのは、思い切り口の端をあげた浅葱。膝一つだけ開けた場所で、頬杖をついている。至近距離で意味深な笑みを浮かべられ、蒼は咄嗟に身を引いてしまう。

 その下がった分だけ、浅葱は詰め寄ってきた。


「ふーん、紺兄がねぇ」

「あっ浅葱! なに、にやにやしてるの!」


 軽く睨んでみても、浅葱の口の端をさらにあげるだけだった。


「いやぁー別にぃー? 蒼こそ、なにうっとりしてるのかなぁってさ」

「してないっ!」


 蒼は、ぺたりと床に座った状態で姿勢を正し、抗議の声をあげる。鳴っている絡繰り音にも負けない大きさだ。あまりの勢いの良さで、伸ばした腕の傷が思い切り傷んだ。「ぐぉっ」という、全く女っけのない声が漏れる。

 急激にあがっていく顔の熱。安堵こそすれ、『うっとり』などしてはいない。決して。

 それが浅葱を喜ばせる要因になってしまったのか。浅葱の笑みは、より深まった。


「紺兄ってばさぁ、過保護っていうよりは、俺のもの的な印を付けてる感じ。飄々として見えて、蒼への独占欲は強いからねぇ」

「どうして、そういう発想になるの! 魔道陣だよ? 治癒術だよ? それに過保護は紅だけで充分です、紺君の独占欲なんて感じたことありません!」


 前へ突き出した蒼の腕が、勢いよく空気を裂く。もはや、傷の痛みよりも羞恥心の方が遥かに大きくなってしまっている。近くに本棚がなくてよかった。この状況では、八つ当で強く叩いてしまうところだった。

 本も棚も叩いては可哀想だが、何よりも真赭を怒らせてしまうのが怖い。そうして、その八つ当たりを紺樹にして、のせられて会話の内容まで話してしまうのだろう。墓穴を掘ってしまう自分を容易に想像出来てしまうのが、悲しい。

 そんな心中を読んでか否か。浅葱は、大げさに両手を肩の上にあげてみせた。まいったなとでも言い出しそうな仕草だ。


「紅が過保護なのは否定しないよぉーでも、紺兄の独占欲が蒼に伝わってないのは由々しき問題だよねぇ。今まで以上に触れて、かまって、周りの虫に焼入れないとダメだって伝えておくねぇ」

「焼きってなに。っていうか、紺君が私に気軽に触れてくるのは、子ども扱いしてるからだよ。幼馴染なお兄ちゃんとして、見守ってくれてるんでしょ」


 蒼は、めいいっぱい頬に空気を含む。それを見た真赭が咳き込んだ。膨れたままの顔を真赭へ向けると、あからさまに体ごと背けられてしまった。ふるふると小さく肩が震えている。

 笑われているのも気になったが、それよりも、自分で言った事が胸の中で引っかかってしまった。


(そうだ。紺君が見せてくれる微笑みは、どちらかというと『微笑ましい』という意味の笑みだもの。からかってくる男性客を止めてくれるのだって、私が茶師として仕事をしやすいように、さり気無く助けてくれているから)


 誰に言われたわけでもなく、自分で考えたことなのに、無性に切なくなってしまう。けれど、蒼にはその心の底にふつふつと湧いてきた感情の正体は、わからなかった。きゅっと、裾を掴んだ手に力が入った。

 そんな様子の蒼を見て、浅葱が頭を撫でてきた。まだ拗ねているのだと思ったのだろう。浅葱の着ている直垂の裾が、すっとずり落ちた。


「ほうほう。蒼にはそう思えるんだねぇ。端から見てると、恥ずかしくなるくらいなんだけどぉ。まっ! 紺兄にはもっと愛情表現を頑張ってもらうとして、蒼もたまには紺兄にご褒美でもあげてみたらどうだい?」

「感謝はしてるけど、ご褒美って――お茶をいれてあげるとか?」

「蒼って、どこまでもお茶中心だねぇ。そうじゃなくって、頬にでもちゅっとしてあげるとか。そのおっきい胸を当てながら」

「なっ!! なんで、それが、お礼?!」


 蒼が首まで赤くする。葱のにやけた視線が、下に落とされた。その先には十分に育った蒼の胸。蒼は咄嗟に胸元を腕で隠した。

 そんな蒼の様子を見て。それまで黙っていた真赭の手が、浅葱の後頭部を思い切り叩いた。いささか強すぎるのではと思える程の力が込められている気がした。だだっ広い空間に、いたく小気味よい音が反響していく。


「いっ!」

「怪我人捕まえて、遊ばない」

「ボクだって、怪我人なんですけどぉ」

「私は遊んでないわ。叱ったのですもの」


 しれっと、澄ました顔の真赭。つい先程まで、考え込んでいるように見えていたのだが。口を開いた彼女は、いたっていつもの調子だった。

 蒼は腕をおろし、真赭の顔を凝視してしまう。真赭は、その視線に柔らかく微笑み返してくれる。しかし、特に言葉を発することはなかった。


「あっ!」


 蒼の視線が二人の怪我にいく。途端、落ち着いた筈の心臓が、大きく跳ね上がった。蒼の表情は思い切り崩れていたのだろう。二人の目が、ぎょっと見開いたから。

 蒼はそんな二人の様子に構わず、すくりと立ち上がった。座り込んだ二人を見下ろす状態で、蒼は腕を突き出し、瞳を閉じた。


「蒼?」

「いいから、動かないでね」


 指を開いた状態の掌に意識を集中させる。

 蒼の中のアゥマが少なくなってしまっているからか。なかなか集まってこない。粒子があちらこちらへ飛び散っているようで、ひとつの箇所に纏まらない。

 仕方がないと、蒼はこれ以上アゥマを集めることを諦め、小さく言葉を紡ぎ始めた。祝詞のような、言の葉。

 すると、蒼と二人の間に、薄い水色の白藍しろあい色をした円形の魔道陣が現れた。月や芦など、様々な模様が、複雑な文字に絡み合っている。文字の一つひとつが力を持っている形をしている。白藍の光の帯びの間を埋めるように散りばめられいるそれらは、それぞれの色を放っている。


(やっぱりアゥマが足りていない)


 いつもなら、蒼の等身と同様の規模になる魔道陣が、今は肩幅ほどしかない。

 それでも、傷口を塞ぐ位は出来るだろうと、一瞬息を止めた後、蒼は短く言葉を発した。


かいっ!」

 

 魔道陣が淡く煌めき出し、光が真赭と浅葱を包み込む。裂けた皮膚を撫でるように、肌を滑っていく光彩。それが通り過ぎると、徐々に傷が薄くなっていった。服や肌にこびりついていた血も、細かく砕けたかと思うと、ふっと消えていった。

 己の役割を知っているかのように。二人の身体に傷が見当たらなくなると、魔道陣の姿は透けていき、消失した。

 蒼は腕をおろし、大きく息を吐き出した。そのまま、すとんと、音を立てて座り込む。


「ありがとぉー。それにしても、流石、蒼だなぁ。血まで消せる治癒術を使える人って、あんまりいないよぉ」

「蒼も大分アゥマを失ったのに……無理はしないで。でも、ありがとう」

「私は大丈夫だよ。それに、二人とも、私を庇って大怪我したんだもん。これくらいはさせて?」


 とは言ったものの。力ない笑顔が浮かんでしまう。床に手をついた状態では説得力がないだろうけれど。

 真赭と浅葱も同じような表情をしていた。三人で顔を見合わせると、皆、肺から空気を絞り出した大きなため息が落ちた。


「あー!! 良かったよぉー! とにかく、生きてる! っていうか、あの黒い陰は一体なんだったんだよー!」


 浅葱が、勢い良く後ろに倒れ込み、幼子のように手足をばたつかせる。わずかではあるが、ほこりが舞った。

 危うく蹴飛ばされそうになった蒼は、逃げるように立ち上がり、二歩ほど下がる。


「もう、煩いわよ。浅葱」

「でも、ほんと。まさか、この街の中で死にそうになるなんて思いもしなかったよ。外で異形のモノに襲われるなら、まだしも」


 蒼の視線が天井に向けられる。とてつもなく高い天井は、三人の声を反響させている。黒いものに襲われる前と変わらない。広い空間で魔道を使ってしまったので、少なからず書庫の破損を憂いはしたのだけれど。不要な心配だったようだ。

 真赭と言えば、非常に面倒くさそうに浅葱を見ている。


「そうだよ、そうだよ。真赭だって、すこぶる危ないって思っただろう? 大体さぁ、あの懐中時計の正体は何さぁ?」


 反動を付けて起き上がった浅葱が、組んだ足を掴み、唇を尖らせた。

 確かに。あの懐中時計が元凶なのは、間違いないのだろう。懐中時計というよりは、封印されていた原始のアゥマらしきものだが。直前の真赭の様子からして、彼女はある程度、あのアゥマの正体を知っていたと考えて間違いない。

 蒼の頭に、あの不可思議な映像が蘇ってくる。二人に話すべきなのだろうけれど、今の状況で上手く説明出来る自信もなかった。


「真赭はあれを『鍵』って言ってたでしょう? この状況から考えると、あれを開く為の物だったって、予想するんだけど」

「えぇ、ごめんなさい。私も核心が持てていなかったから、触れなかったのよ」

「それって……かっぴらいたアソコのことかい?」


 相変わらず、骨組みを変化させているような音を発している壁の奧。その壁を取り払う『鍵』だということは、明らかだ。

 真赭と浅葱も立ち上がり、蒼の両隣に並び、音のする方向に顔を向けた。


「あの黒い陰がなんだったのか。それは私もわからない。おばあ様が使っていたのは、あの壁を開ける『鍵』としてだったから。おばあ様が使用していたのをこっそり見てはいたのだけれど、あんな恐ろしいモノが出てきたことなど無かったわ」

「懐中時計の下から、あのアゥマが晒されたことが、異例だったってことだね」


 三人の視線が床に転がったままの懐中時計へと注がれる。今は蓋がしっかりと締まっている。


「そうね。少なくとも、私は初めて目にしたし、おばあ様が鍵を使う度、あんな恐ろしいことに遭遇していたとも考え難いわ。ただ、おばあ様は細心の注意を払っていたから。仕組み自体は知っていたのかもしれないけれど」

「そんな危ないものを孫に託さないで欲しいなぁ。説明もなく」


 浅葱が大げさな仕草で手を左右へ振りながら、文句を口にした。

蒼はてっきり、真赭が何事か言い返すと思っていたのだが。隣からは何も反論も聞こえてこない。

 頭をかしげた蒼が、真赭の顔を覗き込んだ。すると、真赭は視線をずらし、苦い顔をしているではないか。彼女にしては珍しい。


「まさか、真赭――」


 はっと息を飲んで。蒼は真赭の腕を掴んだ。いや、真面目な彼女からは考えにくいことなのだが。真赭の祖母が用途の伝授もなく危険なものを渡したり、真赭自身だって受け取ったりする筈がない。

 蒼と真赭の目があった瞬間。重い金属がぶつかりあう音が、三人の鼓膜を揺らした。静かになりつつあった書庫に響きわたった音は、かなり大きく。くらりと、よろめく意識。

 蒼は、やまびこ状態で続く音を振り払い、再び真赭へと顔を向けた。そこには、気まずそうに眉を寄せた真赭が、いた。


「蒼が予想している通りよ」

「えっ? 音が頭の中で鳴り響いてて、ボク、良く聞こえないんだけどさぁ」

「あれはね、本当は、おばぁ様の棺へ入れるように言われていたものなの」


 蒼は驚愕きょうがくで、目を見開いた。

 真赭が祖母の言い付けを破ったことなど、幼いことから無かったからだ。少なくとも、蒼が知る範囲では。それを、真赭が守らなかった。しかも、遺言と呼べる類のものを、だ。

 驚かずにはいられない。

 そもそも、あの懐中時計の存在を、真赭の祖母と真赭以外、誰も知らなかったのだろうか。無くなって、誰も探さなかったのだろうか。疑問は次々に浮かんでくる。

 この事実に驚いたのは、浅葱も同じだったようだ。間抜けな顔で、口をぽかんと開けている。


「でっでも。その懐中時計を真赭が持ってるってことは、深い事情があるんでしょ? それを話そうとしてくれてたんだよね。なのに、私が不用意に蓋の中を触っちゃったから。二人ともごめんね」

「蒼……うぅん、蒼のせいじゃないわ。私の危機感が足りなかったのよ」


 浅葱は蒼と真赭の間に割り込み、ため息混じりで肩に腕を回した。


「終わったことは仕方がないしねぇーどっちも。で、結局、真赭が持ち出した理由は?」


 もっともな意見だ。誰に責任があることでもない。それを謝罪しあっても不毛なのだ。それにしても、浅葱が言うと、嫌味にならないから不思議だ。

 蒼と浅葱の視線を受け、真赭は小さく頷いた。そうして、一歩、開いた空間へと足を踏み出した。強い視線でそこを見つめたあと、振り返り――


「あの奥に、その答えがあるの」


 いたく硬い声で、そう、ささやいた。





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