第26話 蛍雪堂4―発動―
「真赭」
蒼は、いつになく静かな声を出す。眼前で怯える親友の名を、出来るだけ柔らかく呼んだ。
真赭は、平素の彼女からは想像も出来ないほど、ひどく取り乱している。蒼の腕も、変わらずに握り締められているのだが。先程までは上げていた視線を、今は床に向けてしまっているので、はっきりとした様子はわからない。
「わ、私――!」
けれど、真赭の華奢な指は、力の込めすぎで青白くなり、なおかつ、小刻みに震えているのは確かだった。だから、蒼には真赭がどのような表情でいるのか、核心が持っていた。
病気がちな彼女は、普段から血色が良いほうではない。そんな顔色をさらに悪くし、苦しそうに眉間に皺を寄せているに違いない。
その尋常でない様子を呆然と見ていた浅葱だったが、蒼の声で我に帰ったのだろう。小さくなって怯えている真赭の手に己の手を重ね、幼子をあやすように軽く二・三回優しく叩いた。
「ね? 真赭、一度座ろう?」
「蒼の言うとおりだよぉ。ついでにほら、深呼吸しちゃおうかぁー」
浅葱が冗談めかして大きく両腕を広げる。
「浅葱は深呼吸しすぎだよ。それじゃ、真赭が吸う空気がなくなっちゃうよ」
体を動かせない蒼は、そんな浅葱に頭をぶつけて抗議をした。もちろん、どちらもおどけた調子で。
そんな軽口を叩きあっている間も、蒼の手は真赭の背を摩り続けた。あまり自由には動かせないので、不格好になってしまってはいるけれど。
真赭も幾分かは落ち着きを取り戻したのだろう。さすがに吹き出すとまではいかないものの、蒼の腕を握っている力を緩め、わずかに髪を揺らした。そうして、そのまま、崩れるように座り込んでしまった。
この少しの合間に、一体全体、彼女の中で何が起きてしまったのか。蒼は大理石状の冷たい床に片膝をつく。そうしながら、真赭の髪を撫でつつ、己の記憶を辿っていた。先程まで、真赭の様子に変わったところや、これほどまで深刻に思い悩んでいる様子などはなかった。
真赭は、あまり感情を明瞭に表現する性格ではない。しかし、生まれた頃からの付き合いである蒼には、機微を感じることが出来るのだと自負している。もちろん、浅葱も同様のことを思っているのだろう。
「とりあえず、ボク、下の机から水瓶とってくる」
蛙のような姿勢で腰を屈めていた浅葱が、思いついたように立ち上がった。
この書庫は、相当な階層にある。そのため、飲食物を持ってきていたのだ。蒼は、今更ながらに思い出した。
「そだね。ありがとう、浅葱」
「ついでにお菓子も持ってくるよぉー」
浅葱は、長い上着を翻し、足早に階段を降りていった。顎まである前髪から垣間見えた表情は思ったよりも硬いもので……。飄々として見える彼女も、冷静な真赭の取り乱しように動揺しているのだろう。
そうして、蒼が思う以上に早く、浅葱の足音は遠くなっていった。
どれくらい、沈黙が流れたのだろう。静かな空間には、相変わらず浅葱が鳴らす音しか響いていない。
とてつもなく広い書庫なうえ、天井も高い。今、蒼たちがいる最上段でさえ、地上の家屋の屋根を遥かに超えている。そんな場所で聞こえてくる音が浅葱の足音や茶器たちが擦れ合うものだけだと改めて考えると、奇妙な気持ちが湧いてきた。
大きく動いていた真赭の肩は、大分落ち着きを取り戻していた。変わらず、蒼の腕は掴まれたままだが、先程よりは大分痛みもひいている。帰ったら、少々冷やす必要があるかもしれない。
そう考えていた蒼に、小さい声が掛けられる。いつもの真赭の声で。
「……ごめん、なさい。腕が内出血して赤くなっているわ。それに、痣が出来るかもしれない」
「全然、平気だよ? 真赭の細い指がつけた痣なんて、すぐおじいが治してくれるよ! ちょちょいってね! それより、真赭の方が、息苦しくない?」
「えぇ……私は、大丈夫。頭が少しくらくらするだけ。胸は苦しくはないわ」
そうはいうものの。真赭の肌は青白いままだ。けれど、いつもと同じ穏やかな口調には戻っている。どうやら、呼吸の方は本当になんともないようだ。ただ、唇がひどく乾いているようで、珍しく、そこを窄めて湿らせている。
「真赭、大丈夫だよ」
まだ緊張しているのだろうか。蒼は、小さく名を呼んだあと、強く抱きしめた。
すると、真赭の体から、力が抜けていくのを感じられた。
蒼が口を開こうとした瞬間。いつの間に戻ってきていたのだろうか。浅葱の元気な足音と声が、蒼を遮った。
「ほーい! 真赭、蒼の茶葉で煎れたお茶だよぉー蒼がいれるほど上手くないけどさぁ」
浅葱があまりにも勢い良く階段を上がってきたので、折角煎れたお茶が溢れてしまっていないかと心配になる。
しかし、一瞬後、この場で飲むならと密閉度が高い茶器を持ってきたことを思い出した。
「浅葱、ありがとね。ほら、真赭。お茶飲もう」
水をいれたあと、小さな袋に煎れた茶葉を急須に止め、味を出す形のものだ。瓶の蓋 のように、きっちりと口を塞ぐことが出来る。動いて暑くなるだろうからと、今回は水出し用の茶葉を、持ってきていたのだ。
それはともかく。東屋で休息を楽しむように、床に千鳥模様の布を広げ、その上に茶器や菓子を広げた浅葱。手際よくお茶の準備をしていく浅葱に、思わず蒼の顔に笑みが浮かんだ。幼い頃、珍しく三人で喧嘩をすると、いつもは我が道をゆく浅葱が率先してお茶の用意をしたものだ。
浅葱は、陽気な雰囲気で手を進める。そうして、時折、真赭への気遣いを瞳に浮かべた。
「真赭。大丈夫。怖いことなんて、何もないよ。だって、浅葱も私もここにいるよ?」
「蒼……」
蒼は、小さく震える真赭の体を抱きしめる。そのまま、子どもをあやすように、真赭の背中を軽く叩いた。
彼女が何に対して、こんなにも怯えているのかはわからない。ともすれば、悩みに潰されそうになる程、自分の中に抱えてしまう親友。けれど、自分たちが傍にいることを忘れないで。そんな気持ちを込めて、蒼はもう一度、真赭を抱く腕に力をいれた。
すると、真赭は長い溜息を吐き出した。それと一緒に、真赭を縛り付けていた恐怖も出ていったのか。ゆっくりとだが、顔に血の気も戻ってきた。
「蒼、ありがとう。もう、大丈夫」
「そう? 私の胸ならいつでも貸すから!」
「……それは普通、男の人が言う台詞だと思うわ」
すっかり肩の力を抜いた真赭が、いつものように、呆れた表情を浮かべた。
どうやら、調子を取り戻したらしい。蒼は膝で立った状態で、腰に手をあてて胸をはった。
「頼ってくれて良いんだよ!」
いつもは自分が頼りっぱなしなのだ。たまには、蒼も真赭の支えになりたい。もちろん、可能であれば、いつもそうではなりたいのだけれど。
「ほら、二人の世界に入ってないでさぁ。お茶の準備が整いましたよぉー」
「あっ、うん。ありがと! さ、真赭、一休みしよう」
「えぇ……」
蒼が「よいしょっ」という掛け声を出しながら立ち上がった。何事か、真赭が言いたげな表情で見上げてきたが、それには敢えて触れないでおく。
蒼は誤魔化すように満面の笑みで手を差し出した。すると、真赭が今度は微笑みを浮かべて、それをとった。ぐいっと力強く上へひいてやると、細身の真赭は思いの外、いとも簡単に浮いてしまった。
「真赭、もっと食べたほうが良いんじゃ――」
「あっ」
そう言いかけた蒼の声に、鈍い金属音が重なった。大理石のような床と重みのある金属が喧嘩したような、耳に痛い音。
真赭の手を握ったまま、蒼の視線が音の元を探す。そうして、それは容易に見つけられた。続いて、からんからんと、まるで抗議の声をあげるように弧を描いているソレ自体を認識する。
「おばあ様の懐中時計――鍵」
慌てた様子の真赭が、再びしゃがみかけるが。立ち眩でもしたのだろう。ぺたりと床に座り込み、掌で顔を覆ってしまった。
「真赭、無理しないで。私が拾うよ」
代わりにと、蒼が懐中時計を拾い上げる。
落ちた衝撃からか。蒼が手にとった瞬間、時計の蓋が勢い良く開いてしまった。 鍵となる物体が、その中身を曝け出すことは、皆無と言って良いほど、有り得ない。術者から、解除の干渉すらしていないのに、だ。
「あれ? この時計」
「どうしたのさぁ。中の硝子にひびでもはいった?」
蒼は、手の中のものを凝視したまま固まってしまった。装飾された美しい蓋と一緒に、文字盤も浮いてしまったのだ。その下にあったものは、月長石。光を受けると、青白く見える不思議な石が、極薄に加工され、はられている。そして、さらに石の下でゆらりと揺れたものに、蒼は釘付けになってしまった。
一向に動かない蒼と真赭に痺れを切らしたのか。浅葱が蒼の手元を覗き込んできた。すると、彼女も同じように固まってしまう。そうして、蒼と浅葱は、目を合わせた。
「真赭、これ、もしかしてアゥマ?」
「……えぇ」
「えぇってさぁー! こんなアゥマ、見たことないんだけど?!」
閉じ込められているのは、極わずかな水状のアゥマ。よくよく見れば、月長石のなかにも僅かな粒が混ざっている。このような意匠を凝らしている装飾品自体は珍しくはない。いや、しばしば見かけるものと言っても良いだろう。贈り物として、またお守りとしても人気のある作りだ。
しかし、この懐中時計で問題なのは、その『質』だ。
真赭も、二人がいわんとしていることは十分に察しているのだろう。深く長いながい、今日一番の溜息を落とした。
「私、こんなに濃いアゥマ、溜りでさえ触れたことないよ。うぅん、守護石を通り越してでも感じる。純度っていう話じゃない。これは『そのもの』みたい……!」
こうして手に持っているのが恐ろしいと思うくらい、濃密にアゥマを感じられる。ひどく震える、蒼の右手。けれど、懐中時計を離すことも振り払うことも出来ない。吸い付いているという話ではない。まるで掌に時計が根をはってしまったようだ。
顔中の筋肉が引きつっていくのが自分でもわかった。アゥマに恐怖を感じたのは、幼い頃に川で溺れた以来だろうか。いや、あの時はアゥマというよりは足を引きずられた何かに畏怖したのだ。アゥマ自体には初めてかもしれない。
蒼の全身が痺れていく。呼吸が乱れ荒くなり、それに伴って胸が爆発しそうに暴れ始めていた。
「くる……し……い」
ふっと。海中時に意識を引き込まれたように、足の力が抜けた。蒼はそのまま、崩れるように、床に座り込んでしまった。
左手を前につき、なんとか倒れ込むことは避けられた。体中から汗が噴き出し、額や腕からほとばしっていく。体が、とてつもなく重い。蒼はついに倒れ込んでしまう。
「蒼! 共鳴を解いて!」
「ちょっと無理やりだけど、剥がすよぉー!」
遠くなる意識の向こうから、真赭が叫んでいるのが微かに聞こえてくる。
けれど、蒼は自分から感応をはかってなどいなかった。アゥマの方から強烈に働きかけてくるのだ。
通常、アゥマから人間に直接意識に影響してくることは、ほとんどないと言われている。あったとしても至って柔らかい信号を送ってくるくらいだ。
蒼は己の溜りや茶葉に含まれるアゥマから同調を受けることはあるけれど、彼らが決して無理矢理入り込んでくることはない。蒼に対してとても友好的であり、限りなく優しい。だから、こんなにも痛烈で強引に刺激を送ってくるアゥマなど、初めてだった。
圧倒的な力が凄まじい勢いで流れ込んでくる。どうにか切り離そうとするが、まったく叶わない。それに混ざって、真赭と浅葱のアゥマを感じるが、すぐに大きな流れに取り込まれてしまう。
「真赭、これ一体なんなんだよぉー! 蒼、起きろー!」
「だから、鍵だって説明したはずよ! さっき、蒼がわずかに共鳴しただけで、起動してしまっていたんだわ! いえ、もしかしたら、ここに来た時から、ずっと……?!」
「あー! もう! 真赭まで、興奮しないでくれよぉー! っていうか、ボクじゃ干渉をぶった切るの、無理なんだけどー!」
遠のく意識の中、ぼんやりと思ったのは、自身を乗っ取られてしまいそうだ、ということ。
そう感じた瞬間、蒼の中で何かが弾けた。




