第22話 街角4―垣間見えたコト―
「遅い」
短く吐き出された言葉。それは、予想通りというよりは、お決まりというべき紅の反応だった。
厳しい声色を投げかけられた当の蒼は、一瞬吹き出しそうになってしまう。けれど、紅にとっても、そんな蒼の心情は予想に難くないものだったのだろう。腕を組んで仁王立ちした紅が、無言で目を細めた。
彼らがいるのは、鬱蒼とした木々に囲まれた店が、一軒だけ佇んでいる場所。近隣に住居や店などはない。ここに来るまでは、隣接している建物が多かったのだが。この界隈では珍しく、そういった様子がない。
黒ずんだ楠の木看板を掲げた店の前に立つと、荘厳な空気に身が引き締まる。店の構えだけ見ると、狭い入口からこぢんまりとした印象を受ける。けれど、札に香りを焚きしめているのであろう煙が、大分遠くから登っていることから、敷地の広さが伺えた。玄関口の両側には、見事な柳が植えられている。
風が吹く度、葉が擦れ合う音が響いた。心地よい薫風に混ざって届く、緑の香りが鼻腔をくすぐってきた。突風に煽られ抑えた髪にも、匂いがうつっているのではと思えるほど、この道の芳香は独特だ。
紺樹と繋いでいた手は、既に離されていた。目的の店に辿り着くには、直前に角を曲がってくる必要があった。そこに差し掛かる寸前、蒼から離したのだ。
満面の笑みを浮かべた紺樹からは、一向に手を離す気配はなく。むしろ彼は、蒼が繋がれていない方の手を添えて、手を剥がそうとするのを、楽しげに見つめていた。蒼は、歯を食いしばって体を反らしながら、ありったけの力を入れ続けた。息が切れてしまい、肩が大きく上下してしまうほど。
一頻り、そんな蒼の様子を見つめて満足したのか。数分後、紺樹がようやく手を離してくれた。すると、今度は逆に急に力が抜けたことで、姿勢を崩しかけた蒼。けれど、紺樹は、素早く蒼の左手を、柔らかく包んできた。両手を広げ、円になるように繋がっている間抜けな体勢で向き合った二人。子供がするように、繋がれた両手を楽しげに軽く上下に振ったのは紺樹だった。
自分を弄んでいる紺樹に、蒼は冷たい視線を向ける。しかし、それさえも彼を喜ばせる要因にしかならなかったようだ。愉悦に大きく開けられた、紺樹の口。それを見た蒼は「紺君は紅の生霊にとりつかれたい?」とため息混じりに呟いた。今日の紅は、いつも以上に疲れていそうだから、これ以上帰る時間が遅くなることは好まないだろう。
紺樹はその言葉を聞いて、やっとのことで手を離した。蒼は、離れても熱が去らない手を胸の前で握り締めながら丁字路を曲がった。そこで、先程の不機嫌極まりない声をかけられてしまったのだ。
「ごめん。っていうか、紅たちが早かったんだよ。っていうか、いうかさ。先に店に入ってくれてたら、良かったのに」
蒼は、浮かべた苦笑いの前で両手をあわせ、一応謝罪を口にする。けれど、謝りながらも、唇を尖らせた。蒼たちが遅れをとったことは事実だが、それ以上に紅たちの進む速度が早かったのだからと。
そこで、ふとした違和感に、蒼は周囲を見渡した。
「あれ?」
思わずこぼれた声と視線の動きに気がついたのか。わずかに視線をずらした紅が、後頭部を撫でる。そういえば、紅の隣には白だけが立っている。二人の後ろには目的の店があるが、萌黄だけが先にその中に入ったとも考えにくい。
蒼は体を傾け、店の奥を覗き込む。店内には簡素な木の台車が置かれており、色とりどりの札が並べられている。並べられている、というよりは浮いていると言ったほうが正確だろうか。台車の内側には、見事に夜光貝が敷き詰められており、そこに水――非常に濃いアゥマを含んだ――が張られている。紙で出来ている筈の札は、その水に溶けることもなく、浮いているのだ。見本として並べられているのと同時に、結界としての役割も担っている。
変な話、邪を払う道具を扱っている場所には、その清さを求めて、邪に憑かれた魂が寄ってくるらしい。この店の娘である浅葱から、そういった話をよく聞かされる。 とても興味深い話ばかりだが、周囲から見ると、聞かされるというよりは語られるといった調子かもしれない。はっきりとした口調がより早くなり、相槌しか打つ隙がなくなるのだ。
見渡していた顔を台車に向けると、濃いアゥマを湛えた清浄な水に、微細な波紋が出来ていた。
違和感の正体に気がつき、蒼が口を開こうとした瞬間。隣に立っていた紺樹が、先に言葉を発した。遠くまで見渡すように額に手を翳し、首を回しながら。
「そういえば、萌黄さんは何処に行かれたのですか?」
「それがのう。太陽のように輝かせておった表情が、店に着いた途端、固くなってな。忙しなく辺を見回したと思うたら、ほれ、北東に有名な桃があると聞いたとかで、そちらに行くと言い出してのう。いやはや、乙女心と秋の空、とは良く言ったものよ」
白は腰に当てていない右手を上げ、手首をくるりと回転させた。そうして、北東の方向を指さした。その指には、花びらが摘まれている。蒼たちを待っている間、手持ち無沙汰だったのだろうか。恐らく、舞っているものを捕まえたのだ。しかし、その花の色は、褪せ萎びていた。
退屈そうな仕草をする白だが、その表情に全くそんな雰囲気はない。けれど、そんな白を申し訳ないと思ったのか。紺樹は、白へ難しい顔を向け
「お手数をおかけしました」
と、少々的外れと思えるような謝罪の言葉を口にした。待たせた詫びにしては、可笑しくはないだろうか。
そんな紺樹と白のやりとりをじっと見ていた蒼だったが。思いの外、真剣な空気に何となく気まずくなってしまった。そんな気まずさから逃げるように、未だに仁王立ちしている紅の近くに寄った。蒼の顔には、思いっきり悪戯な笑みを浮かんでいる。
「紅は、ちょっと寂しくなっちゃったんじゃないの?」
蒼が紅の肩を突っつきながらへらず口を叩く。すると、思い切りしかめられた紅の眉。紅の不機嫌さが増してしまったのだろう。
「顔色が明るくなったと思ったら、そんな憎まれ口か」
「いっ! いしゃい、いしゃい! べふに、あきゃるく、なっちぇないほ」
蒼の柔らかい両頬が、思い切り引っ張られた。さほど痛くはなかったのだが、上手く言い訳ができない。暗に、紺樹と何かあったのかと勘ぐられたようで、蒼としては言い返したかったのだが。
白に「もういいじゃろう」と肩を軽く叩かれて、ようやく、紅が手を離した。そうして、再び腕を組み、仁王立ちになってしまった。
「可愛くない照れ隠し!」
蒼は解放された頬を撫で、唇を尖らせて抗議する。
が、再び、紅の体がぴくりと反応を示したのが目にはいり、慌てて紺樹の後ろに隠れた。今日の紅は変に殺気立っている。
蒼は、大きな背中から顔を覗かせ、舌を出した。
「おやおや。紅、蒼に八つ当たりとは感心しませんね」
「別に副長に感心してもらおうとも思ってませんけど」
紅は、ぶっきらぼうな口調で紺樹を突っぱねた。
「では、安心して下さい、と言い換えましょう。蒼に、何もしていませんよ。手を繋いできただけで」
しかし、それを受けた紺樹は、肩を竦めて「こちらに怒っているのでしょうか?」と余計な口をきく。それも、至極愉快そうに。
その発言で、蒼の口元が歪んでしまう。錆びた瓶の蓋を開けているような軋んだ動きで紅の方を見ると……。想像通り、紅は般若のような顔で紺樹を睨んでいた。吹いてくる風も、思いなしか、冷たさと勢いを増したような気さえする程の恐ろしさだ。
紅の顔には「人の不幸を楽しんだうえに、わざと怒らせるようなことを言いやがって」と書いてある。
「あのね、紅。繋いできたっていうより、引っ張られてきたっていうかさ。ゆっくり歩いて遅れてきたわけじゃないんだよ?」
紺樹の背後から出てきた蒼が、聞いて下さいと右手を上下させる。決して、萌黄に振り回されている紅の存在を忘れていたのではないと、主張するが。また鋭い瞳で睨みつけられ、大人しく紺樹の後へ体を引っ込めた。
蒼が顔を覗かせている間、軽く上げられていた紺樹の右腕がゆっくりと下ろされた。 目が合うと、お互いに微苦笑が浮かぶ。どうやら、今の紅には何を言っても許して貰えなさそうだ。
それならば、と蒼は諦め背を正した。萌黄が別行動している間に用事を済ませてしまおう。
「ほら、じゃあさ。早く用事を済ませて帰ろうよ。店に帰れば連れ回されることはなくなるんだから。ゆっくりお茶でも飲もうよ」
「そうじゃな。ほれ、わしは店先で萌黄殿を待っておるよ。紅と蒼は、華香札を購入してくると良い」
「それでは、私も師傅にお付き合い致しましょう。これ以上紅に睨まれては、視線で引き裂かれてしまいそうですから」
まだ何か不満があるのか。口を開きかけた紅。蒼はそんな彼の腕を引き、店の敷居を跨いだ。
(紅ってば、どうしてこんなにも紺君に敵意をむき出しにするんだろう)
兄が心配症なのは知っているが。自分が修行半ばで帰り、店を継いでからというもの、度が増した気がする。特に、十年以上も付き合いがある、しかも家族同然の、紺樹に対してだ。
以前は紅だって紺樹を慕っていたし、尊敬すらしていた。それは紅が魔道府に入府してからも変わらなかった。紺樹の性格が昔よりかなり緩んだとは言え、紅が表面上だけで人を判断するのもあり得ない。
(私が修行にいっている間に、何かあったのかな)
今更ではあるが、蒼は首を傾げた。
疑問に思いながらも、紅の腕だけはきちんと掴み、狭い廊下へと足と踏み入れた。少しばかり強引に引いたからか。後ろから続いた紅が、少しばかり高くなっている敷居に足を取られそうになってしまう。石畳で頭を打っては惨事になると、蒼は掴んでいた紅の腕を離した。
「おじい、萌黄さんが戻ってきたら宜しくな」
「オゥ」
何とか姿勢を立て直した紅は、短くそれだけを言い残すと、先に店奧へと進んでしまった。蒼も続こうと、石の床を踏む。清涼な空気が頬を撫でた。
心葉堂と同じように、床の中央部分は水晶の道になっている。その水晶板の下には、やはり、アゥマを含んだ水が流れている。心葉堂と異なるのは、その流路に香の葉が閉じ込められた丸硝子が漂っていることだろうか。
「うん。いい香り」
一歩踏み出せば、店の中は優しい香の匂いに満ちていた。狭い入口と同じく、奥へと続く廊下もさほど大きさは変わらない。恰幅のよい大人は通れない幅しかない。両側には、硝子の箱をはめ込まれた檜の薄い棚が続いている。その硝子箱の中には、店頭に置かれていた物と同じ様に、アゥマの水に浮かべられている札があった。
紅や蒼が前を通ると、札が仄かな光を纏った。蒼にはそれが通行の許可を出されているように思われた。実際、邪を纏ったモノが通ると何かしらの術が発動する仕組みなのだ。
奥から店主とその娘――蒼の幼馴染でもある浅葱≪あさぎ≫の声が聞こえてくる。どうやら紅は既に札を選んでいるらしかった。
「また怒られちゃう」
蒼は自分の頬を軽くはたいた。
保守的なように見えて、実はとても行動力のある紅。気を抜くと、いつも先を行ってしまうのだ。逆に蒼は行動力があるように見えて、興味のあることに気を取られると、つい、自分の世界に入ってしまい動けなくなってしまう。昔から、紅によく叱られ、手を引かれていたことが思い出された。
「なんだか懐かしい思い出が浮かんじゃった」
ふっと、思い出された記憶。あの日だけは、後をついていく蒼の手を握らなかった、紅の背中。怒っているようであって、泣いているようでもあった。
「――ですね」
「まだ――いや、しかし」
後ろから白と紺樹の声が聞こえてきた。ちらりと後ろに視線を走らせてしまったのは。その声が押し殺されていたから。葉のざわめきも遮られた空間にいる蒼には、逆に、気になってしまう音量だった。
何となく。振り返るのが躊躇われてしまい、棚を見る振りをして首をわずかに回した。棚の硝子に指を這わすと、アゥマの水が震え波紋が起きる。実際、触れているわけでもないのだが、蒼の纏うアゥマに反応したのだろう。先程と変わらず、優しい色が硝子に反射した。
「花びら?」
垣間見えたのは、白の指に摘まれた花びら。先程と同じ花びらだろうか。その花びらは、やはり、鮮やかだったはずの色を失い茶色い。枯れてしまった花びらを見つめている、白と紺樹。いや、必ずしも話の内容と視線が合致しているわけではないだろうけれど。やけに気になってしまった。
ふわりと吹いた風に飛ばされたその花びらが、建物の中に迷い込んできた。二人が自分の方を向くのではと、蒼は慌てて前へ進む。流れる髪の間に見えたのは、塵になった花弁だった。廊下全体のアゥマが身を震わせ、きぃんと鳴った。耳が痛む。それはまるで負の感情。アゥマが怒りを露わにしているように感じられた。
散り散りになった花が落ちた水晶板が、鈍い光を放っていた。冷たいものが背を走り。蒼は小走りで、紅の元へと進む。その際、聞こえた会話が、さらに蒼の鼓動を早めた。
「取り越し苦労であればと、願っていたのだがのう」
「憂慮すべき状態ということでしょうか」
「その可能性は高いのう。しかし……酷な術を練り上げたものよ。過去の偉人も」
深い意味までは汲み取れなくとも、胸騒ぎを感じるには充分な単語。それが織り交ぜられていたから……。