第20話 街角3―対面―
「いい天気ですね」
曲がり角から姿を現した紺樹は、ゆっくりとした歩調で歩いてくる。葉が茂っている木々が並んでいるせいで、紺樹と萌黄の気配に全く気がつかなかった。
紺樹は、いつもと変わらず、にこやかな笑顔で近づいてくる。そんな彼を目の前にして、蒼の身体は硬く固まってしまった。白の大きな手が、微動にしない蒼の肩に柔らかくのる。
「紺樹も一緒だったのか。私服とは珍しいのう」
声を出せずにいる蒼の代わりにと。白は左手を軽くあげ、紺樹に声をかけた。
一方、紅が目を据わらせ、何事か口にしようしたのがわかった。が、いつもよりさらに気分の高揚している萌黄の相手で、精一杯らしく、それは叶わなかった。そうこうしているうちに、紺樹はすぐ近くにまで来ていた。
「師傅、ご無沙汰しております。それに蒼と紅も」
袖を合わせ、軽く頭を垂れる紺樹。
「うむ、魔道府も忙しそうじゃな」
白は紺樹を労いながら、肩を軽く叩いた。白の快活な笑い声が、静かな空間に良く通った。
「まぁ、色々と」と苦笑いを浮かべた紺樹は、短い言葉を言い終わらぬうちに、欠伸を噛み殺した。心なしか、いつもより瞼が落ちている気がした。木々に囲まれ、落ち着く雰囲気とはいえ、肌に感じるのはひんやりとした空気。どちらかというと、安らぐというよりは、身が引き締まる。そんな場所でも眠気を堪えられない程、疲れているのだろうか。
蒼の疑問を察してか、紺樹が苦笑を浮かべた。
「欠伸などしてしまい、失礼。実は、連日の徹夜明けでして。昼過ぎに自宅へ戻ったばかりで」
紺樹は、先程の欠伸の失礼を詫びる。しかし、言っている傍から口を大きく開いてしまう口元を覆う手からはみ出して見えるくらい、周りの空気を全部吸い込んでしまうような欠伸。細くなった目で、何とかという調子で、話しているようだ。
「それなら、出歩かずに大人しく家で寝ていれば良いんですよ」
「心配というより本気で煙たがられている気がするのですが? 紅」
「何当たり前なこと言ってるんですか。というか、予想するに、翡翠姉弟たちに、帰宅して寝るよう釘をさされたんじゃないんですか?」
紅の冷たい声が、少し大きめに響いた。言葉と同じく冷たい空気をまとって紺樹睨んでいる。
兄がそんな態度をとっている原因は、九割がた例の件で落ち込んだ自分のせいだと、蒼にも容易に想像がついて。蒼は、なんだか申し訳なくなった。どちらに対しても。
紺樹が悪いわけではない。いや、それは紅とて理解はしているだろう。妹に甘い兄は、理解が出来ていても、納得はし難いのかもしれない。
紺樹も、紅の険悪な雰囲気を感じ取ってはいるに違いない。けれど、そこには触れず
「えぇ、ですから半刻ほどは」
と、満面の笑みで肩をすくめただけだった。
それにしても、爽やかな表情と疲れた様子の仕草があっていない。
「しかし……こちらにも私のことを言えない人がいるようですが」
「――っ!」
ふっと。紺樹の視線が蒼に注がれた。それだけでも、心臓を鷲掴みにされたみたいに呼吸が止まりかけたのに。蒼が何事か言い訳を口にしようとすると、隙を与えず影が被さってくる。距離を縮めてきた紺樹の親指の腹が、すっと、蒼の涙袋を滑っていく。今しがた冷や汗の出る緊張で固くなった体が、今度は、別の意味で硬直してしまった。
滑った紺樹の指を追うように、蒼の肌が淡い桃に色づいていった。わずかにだが、紺樹の眉間、皺がよる。
「立派な隈が出来てますよ、蒼」
「そっそんな立派さは嬉しくないよ!」
正直、薄くなった隈に気がついた紺樹に驚いた。しかし、なんとかいつも通り、自分らしく言葉を返そうと試みるが、動揺の方が勝っているようで舌がもつれてしまう。
「っていうか、紺君、ちょっと、近いよっ」
蒼は両の手で紺樹の胸を軽く押し返す。しかし、紺樹は離れる様子を見せない。それどころか、蒼の頬に添えられるように触れている大きな掌は、密着度を高めていくではないか。じんわりと染みてくる温度が、とんでもなく恥しい。わずかに耳元に触れている指が、くすぐったい。
「そうかのう。いつもと変わらんように見えるが」
白のからかいの視線と紅の不機嫌な気配が、蒼の羞恥心をより刺激してきた。
けれど、不思議なもので。先刻まで蒼の中にあった絡まった気持ちや考えは、逆に解けていくようだ。ただ、動揺がそれらに勝ってしまっているだけかもしれなかったのだが。
ふいに、紺樹のぬくもりが離れるのと同時、紅の背中が見える。
「で、副長が、なんで、ここにいるんですか?」
いつの間に萌黄から逃れてきたのか。両腕に荷物を持っている紅が、器用にも肘をはって蒼と紺樹の間に割って入った。紅の背中で視界を覆われ、蒼は内心ほっと胸をなで下ろした。ひとまず、紺樹の体温と真っ直ぐな視線からは逃れられた。
紅の表情は見えないが、ぶっきらぼうな声から、どんな様子かは容易に想像出来た。ちらりと上目に視線を上げれば、紺樹が相変わらずの笑顔で頭を掻いている。短い髪が風に揺れる。いつもとなんら変わらない、やりとり。と、蒼が安心を覚えた瞬間。
「ん?」
今後は背中を刺してくる、痛いほどの視線を感じた。恨めしさを含んだ視線を受け、反射的に振り返る。見れば、肩布で口元を隠した萌黄が、じっと三人の様子を眺めていた。
紅を取られてしまったことに、気を悪くしたのだろうか。それにしても、今までに見たことがないような、鋭い目つきだった。美人は怒ると、迫力が増す。
紺樹からも見えている筈だが、彼はさして気に留めた様子もない。それどころか、萌黄に和やかに微笑みかけた。そのまま首を傾け、蒼を覗きこむと口の端をひき、さらに深い笑みを浮かべた。
「心葉堂で蒼に茶を淹れてもらおうと思いまして。その途中で萌黄さんにお会いしたので、一緒に」
「でっ! 心葉堂に向かったはずの副長が、なんで、ここにいるんですか? っていうか、今日は休業日なんですが!」
「休業日だから、ゆっくり出来るかと思って足を運んだのですよ。で、店を覗き込んだ時に、店頭の華香札の効果が切れていることに気がつきまして。恐らく浅葱の店に寄るか寄っている最中かと考えたわけです」
これはどちらの意味にとれば良いのだろうかと、蒼は考える。『客』として行く価値がないという意味にもとってしまえるし、単純に『幼馴染』として来てくれているともとれる。
いや、前者は明らかに、蒼の深読みしすぎなのだろうけれど。
「紺君、至極丁寧な説明、ありがとう……」
「蒼のことなら、任せて下さい」
紺樹が子どものように胸を叩いた。
蒼は小さく頭を振った。誰かの、特に大切な人の安らぎの場になれることは、とても嬉しいことだ。それが自分の望んでいる、あり方でなくとも。
紅に対して素直に気持ちを表している萌黄を見たせいか。紺樹の声で聞いたせいか。少しだけ、蒼に前向きな思考が戻る。微妙に自虐的というか、無理やり言い聞かせたような気もするが。
それよりも、『恋』という気持ちではないけれど、と誰にするわけでもない言い訳の方が重要だった。自分の世界に入りかけた蒼は、紅の大声で我に帰る。
「任せられますかっ!」
「いやぁ、道のりは険しいですね」
紅の嫌味にいちいち真面目に答えては、さらに、彼の不機嫌さを増幅させている紺樹を見上げる。ふと、目が合った。それまでに浮かべていた悪戯な笑顔が、ふわりと柔らかいものに変わった。優しいはずなのに。蒼の胸は締め付けられた。呼吸が苦しい。
話から置いていかれていた萌黄が、咳払いをしながら近づいてくる。
「お話を戻しますけれど。わたくしが華香札というものを良く知らないと申しましたところ、紺樹様が此処へ連れてきて下さったのですわ。紅さんもいらっしゃるだろうと」
「はぁ、さようで……」
あまりに気のない返事をした紅。蒼は萌黄に見えないように、きゅっと腰あたりを捻ってやる。
紅にも自覚はあったのだろう。別段、文句を言われることはなかった。少しだけ恨めしそうな視線を投げられただけで。
「華香札はその香りの効果で家屋の虫を退けるだけでなく、アゥマを動力として、魔や邪を払う役割もありますからね。ぜひ、萌黄さんにも知っておいて頂こうかと」
「ご親切なことで。さすが魔道府の副長さ――」
「紺樹様に他意はございませんのよ! わが店をクコ皇国の一員として認めて下さっているということで! わたくしは、その、紅さんに手取り足取り教えて頂きたいとは思ったのですが」
萌黄の声が、勢い良く紅の言葉を遮った。
誰もそんなことは言っていませんよ、というか、効能を教えるのに手も足もとる必要はないでしょうに。と、紅の顔に書いてあるのがわかった。萌黄の言い分も理解出来ないが、紅の鈍さにも呆れてしまう。
どこまでも噛み合わない二人。萌黄は赤らんだ頬をおさえ
「いやだ。わたくしったら、はしたない」
と全く後悔などした様子もなく、舞い上がっている。
彼女が楽しげな声を出すのは、紅を前にしている時がほとんどだが、今日は一段と凄い。普段のお淑やかさが吹き飛び、酒がはいっているような雰囲気さえあった。
(以前、萌黄さんはアゥマを全く操ることが出来ないって言ってたけれど、影響は強く受ける体質なのかな)
だから、より神聖な浄練を行う職人が集まり、アゥマが濃厚に漂っているこの場の空気にあてられているのかもしれない。
蒼はそう考えた後、どこまでもアゥマ中心な自分の考えに溜息を落した。
どう考えても、十六の少女の思考回路ではない。もう少し素直になれば、柔軟な考えが出来るようになるだろうに。蒼はもう一度、小さく息をはいた。
下を向いた蒼の頭を、紅がぽんと叩く。
「手も足もとる必要はないと思うので、とりあえず、華香札の店に移動しませんかね。人通りが少ないとはいえ、十字路で立ち話はやめましょう」
「はい! ぜひ、ご一緒させて下さいまし!」
「では若人たちよ、ゆるりと参りましょうぞ」
白が、先を指差し、頬を緩めた。
萌黄の浮かれように若干引いている紅とはいえ、ここで「じゃあ、数刻後から来てください」とは、言えない。今の紅ならば、紺樹に対しては、そう言い捨てたかもしれないが。今日は萌黄が一緒だ。くどいようだが、温和な紅は、基本的に、余程の理由がない限り、人を毛嫌いすることはないのだ。
蒼と同じことを考えていたのか。それまで静かな様子で傍観していた白が、声を漏らしながら笑いをかみ殺した。紅に軽く睨まれて、逃げるように先頭を1人歩き出す白。紅の視線は、白の頬の皺をより一層深くするだけだった。
「じゃあ、行こうか。と、その前に。これ、持ってもらえますかね」
「おや、これは重そうな荷物ですね。寝不足で体力のない私に持てるかどうか」
「ひっついてくるつもりなら、働いてもらえますか」
紅は両腕に抱えていた紙袋の荷物のひとつを、手ぶらの紺樹に押し付ける。しかも、重量そうな方を。
困ったように眉毛を下げた紺樹だったが、それは表面上だけだったようで、すぐに素直に荷を受け取る。しかも、重そうだと言っていた割には、左腕だけで軽々と抱えてしまった。
紺樹の様子は、見た目の優男さに反して、武術も嗜んでいることを思い出させる。昔は心葉堂の庭先で、よく一緒に白に指南を受けていた。けれど、最近ではめったに鍛錬をしている姿を見なくなっていたからか、つい忘れがちになってしまうのだ。
彼の性格が、十代のころよりも大分緩んだ影響も、あるのだろう。
「蒼、お前もその肩に掛けている荷物、副長に持たせ――」
「紅さん、紅さん。あの家の軒下にある飾りはどういった物ですの?」
「わっ!もっ萌黄さん、ちょっと!腕をひっぱられると!」
紅が蒼の方を振り返った瞬間。やりとりをじっと見ていただけの萌黄が、好機会と言わんばかりに紅の空いた腕を、勢い良くひっぱった。
ふいを衝かれた紅は踏ん張ることも出来ず、ひっぱられていく。藍色の上着の袖に出来た皺を見る限り、結構な力だ。萌黄のあの白くて細い手のどこに、そんな力があるのかと思える程の。
「恋する乙女は色んな意味で強いんだね」
「その表現は少々的外れだと思いますが、蒼」
「この場合、そうでもないと思うんだけど……」
蒼が指差した先には、白を追い越していく紅と萌黄がいた。楽しそうな萌黄と、子どもの玩具のように、されるがままの紅。急に方向転換する萌黄に振り回されて、踊っているみたいに、くるりとまわって見せる紅が可笑しくて。蒼と紺樹は目をあわせ、思わず噴き出してしまった。