第19話 街角2―清めの場―
「えっと。あとは華香札買って帰ろうかな」
「オゥ。じゃあ、浅葱の店に寄って行こうかのう」
走り書きの紙を指差しで確認していた蒼の言葉に、白が笑顔で応えた。
心葉堂の定休日である本日。それを利用して、蒼と紅それに白の3人は、日用品や店内の装飾品などの買出しに街へと足を運んでいた。
広い街を歩き回っていると、軽く汗ばんでくる。流れた汗を攫うように吹いてくる柔らかい風が、肌を撫でてくる。とても、心地よい。久しぶりの感覚だった。青が眩しい。
蒼は、自分は溜まりに篭るからと、紅と白の二人に買出しを頼むつもりだった。けれど、二人に口を揃えて「これ以上外に出ないと、頭にかびが生えてしまう」と言われ、半ば強引に連れ出されてしまったのだ。
引き止めてくれると思っていた麒淵にも背中を押されてしまい、蒼は鬱々《うつうつ》とした気分のまま、中心街へと足を踏み入れた。
先日、溜まりで睡眠をとり、アゥマに浸ったのが良かったのか。少しだが、頭の中がすっきりとした。気がした。
それから、常連客の雄黄が語っていた内容にも、耳を傾けられるようになった。記憶の中で、何度も反芻してみた。まだ、全てをという姿勢にはなれなかったが、幾分か向き合えるようになった。蒼の茶葉と、それを差し引いた茶葉。どちらの茶葉に価値を見出すべきかは迷っていたけれど、どちらも答えな気がしてきた。だからこそ、調子が上がってきている時に、茶葉の浄練を進めておきたかったのに。蒼としては、そんな言い分があった。
「風が心地よい日だね」
けれど、街の中を歩いていると、思いの外、足取りも軽やかになってくる。
東屋で二胡を弾いて即興の唄を楽しんでいる老人や、細工屋の前で眉間に皺を寄せながら悩んでいる男性を嬉しそうに見ている女性。そんな人々を見ているだけでも、蒼の頬が自然と緩んできた。大通りを行き交う人々の声が混ざりあって喧騒となっているのにも、活気を感じられて、心が踊った。
「蒼は引きこもっていたから、特に久しぶりだろ」
「紅は一言多い!」
華憐堂の一件以来、蒼は街へと続く橋に、足をかけることはなくなっていた。
しかし、街中に出向く機会が減っているのは、蒼に限ったことではなかったらしい。不安定な天候によって、街に住む多くの人々の心に暗雲が垂れ込めているのだ。今日は、本当に久しぶりの快晴だ。
蒼の隣で、白が
「やはり、この街は賑やかであって欲しいものよ」
と、顎髭を撫でながら目を細めて笑う。ちょうど今のように、昼下がりの日溜まりの中にいるような、ぬくもりのある声だった。
「やはり人が溢れている中で見る、露店から立ち上る肉饅頭の蒸し湯気は、一層美味そうに感じられるのう」
「おじい、なに財布取り出そうとしてるんだ。さっき点心を食べたばかりじゃないか」
「いや、蒼の夜食用にと思うて」
白は子どものように、紅から視線を逸らした。
紅が咎めた通り、三人は一刻ほど前に、出来立ての点心頬張ったばかりだった。心葉堂の茶葉を飲茶に出している店のひとつである、幸好楼に立ち寄った三人。蒸籠に詰められた、食指を刺激してくる香りを含んだ湯気。それを纏っているぷりぷりとした海老餃子や、ふっくらとした甘栗の饅頭。円卓に広げられた料理を、蒼が瞳を輝かせて満面の笑みで食べるからと、白が片端から注文していくものだから。蒼と白の腹が膨満なのはもちろんのこと、残さないようにと、さりげなく一番の量を食してくれていた紅は、殊更だった。
「夜食どころか、夕飯さえ入らなくなるから、駄目だ」
「紅は厳しいのう」
きっと夜になっても、膨れ上がった腹は、そう簡単に空いてはくれないだろう。
藍色の短い木橋を渡るため、未だに肉饅頭の香りを吸い込んでいる白の腕を、紅がひいていく。両腕に荷物を抱えているというのに、随分と器用に白を引きずっていく紅。
数歩遅れて、蒼も後を追った。途中、人とぶつかりそうになったのを、何とか左右によけながら足を動かす。
やはり、食べすぎなのか。駆けようとすると、胃の中の物がずしりと存在を主張してきた。体が重い。食べた分は消費しないと、そのまま肉になりそうで怖い。
「帰ったら、おじいに拳法の稽古をつけてもらわなきゃ!」
蒼は一人、深く頷いた。茶葉に心血を注いでいる蒼とて、十六才の少女だ。それなりに年頃の少女らしい思考もするのだ。
蒼は 人ごみを抜け出し、橋の近くで足を止めた。日差しを受けて、川の中にある格子状の水晶板が煌めく。心葉堂近くの川には色彩豊かな花弁が浮いている。けれど、目の前の川面には青々とした葉が流れている。かさかさと擦れ合う、木々の葉音が心を落ち着かせた。
「うーん! やっぱりこの空間は涼しいな」
蒼は空を見上げ思いっきり伸びをした。視界に広がる青天白日。肩にかけていた袋が落ちそうになり、慌ててかけ直した。少し先から紅が見ているのに気がつき、慌てて追いつく。
この一角になると、途端に人影もまばらになる。特殊な店が多いせいだろう。観光客や行商、一般の人間には近寄りがたい雰囲気がある。ただ、陰々滅々《いんいんめつめつ》としているわけではなく、反対に、清浄な空気が感じられる。
アゥマが凝縮された玉を抱えた灯籠が、等間隔で欄干に組み込まれた朱色の橋。そこを渡りきると、広い石畳の広場に、東屋がある。東屋の仕様は、街中にあるものと、ほとんど変わらない。異なる部分と言えば、軒下には穂をつけた刀のように鋭い菖蒲が刻まれているところだ。
さらに、もう一歩踏み出せば、菖蒲の邪気を祓うような爽やかな香りが、三人を包んでくる。他にも白檀などの香木が佇んでいて、神聖な雰囲気だ。土の香りと混ざり合って、心を落ち着かせる。
ここは、そういった『祓い』の意味を成す物や技術を扱っている店が多い場所だ。三人は、煙が昇っている方向へ進む。紅が、ふと思い出したように呟いた。
「そういえば。店先に貼ってある華香札、香りがなくなってきてたからか。きちんと、そういうところは点検してたんだな。落ち込んでる風でも」
「おっ落ち込んでなんかないし! ちゃんと確認してるもん!」
「怒るなよ。一応、褒めたんだから」
嫌味とも取れる言葉だが、紅が口にすると全く裏など感じられない。逆に、むず痒くなってしまう。
蒼としても、落ち込んでいるのは見て明らかなのは自覚があったし、反省もしなければと思っていた。それは何度も蒼自身、自分に言い聞かせている。
「褒めてないよ、それ!」
指摘するだけではない兄の天然さに、顔の温度があがってしまう。それが余計に蒼の羞恥を刺激してきて、思わず子どものような抗議の声が出てしまった。
蒼は思い切り口元を歪めた。照れているのか怒っているのかわからない様子で顔を赤くした蒼を、紅は小さく笑った。
「大体、今週の備品点検は紅の当番でしょ!」
呆れたような笑みを浮かべている紅を指さして、蒼は腕を大きく上下に振った。幸い、荷物をかけていた肩とは反対側だったので、地面へ落とさずにはすんだ。
少し先を歩く白は、そんな二人の様子を穏和な笑みで見つめている。ただ、視線はあくまで、横目に入れている程度。いつもなら、嬉々として二人の孫に絡んでくるのに。空を流れていく花びらを愛おしそうに見上げ指先を伸ばしている白に、蒼は首を傾げた。
声をかけようと一歩足を進めると、白は
「おや」
と妙な声をあげた。
ほぼ同時に後ろの紅からは
「うげっ」
と、蛙を潰したような声が絞り出された。
蒼が紅を振り返る。紅は額に汗を浮かべ、たった今、可笑しな声を出した口を掌で覆っている。気分でも悪いのだろうか。抱えている荷物が食後の身体へ負担をかけて、気分でも悪くし、汗でもかいてきたのだろうか。
蒼が踏み出そうとした瞬間、くんと、鼻の奥を刺激した香りに眉を顰める。店々の中庭にある香木が放っているものではない。アゥマから『感じる』匂いだ。アゥマは、浄練を行う使い込んだ道具や溜まりに長時間いる職人に染み込んで、独特の香りを持つようになることもある。力の強いアゥマ使いにしか認識できないものだが、決して不快なものではない。むしろアゥマ使いにとっては、一種の媚薬のようなものだ。
いや、しかし、これは。
それらが混合しているのだろうか。あまったるい香りに隠されているのは――。蒼はよろめいた体を、壁に手をついて支える。耳鳴りに混じって、誰かが土を蹴って走ってくる音がする。
「あら、紅さん! ご機嫌よう!」
足音は、高らかな声にかき消された。
蒼は、ちくりと痛んだ額を押さえる。顔をあげると、建物の角から知った顔が覗いていた。ふっと。不快だったものが祓われたように、消えていく。再び溢れた冷涼な空気に、汗がひいていった。
蒼が振り返ると。頬を赤くした、萌黄がいた。平素は血の気がほとんどないような肌をしているにも関わらず、今日は先程の蒼よりも血色が良い。両の手を胸の前で合わせ、瞳を星のごとく輝かせている。晴れた天気と花舞う風景に、とてもお似合いだ。お似合いなのだが……蒼の後ろにいる紅からは重々しい空気が発せられている。加えて、思い出された華憐堂での紺樹と萌黄のやりとりにとで、笑った筈の口の端が、乾いて引きつってしまった。
紅は咳払いをして、背を伸ばした。
「……どうも」
「はい、紅さん! それに、蒼さんと――」
紅のそっけない言葉にも、萌黄は満面の笑みで応えた。
苦々しい反応を見せながらも、律儀に片手を上げて挨拶を返した紅は、さすがだ。この兄が全身で拒絶する人を、今のところ、蒼は一人しか知らない。
浮かんできた顔を消すように、蒼は激しく頭を振った。折角、紅と白が元気付けてくれたのに、ここで暗い顔をするわけにはいかない。蒼は大きく深呼吸をする。その周りだけ空気が薄くなった気がするほど。
「萌黄さん、こんにちは。こっちは前に話した、私と紅の祖父の白龍だよ」
「以前、ワシは一方的にお見かけはしておったがのう。お初にお目にかかる、萌黄殿。白龍と申します。ワシのことはどうぞ、白とお呼び下さい」
「はい。では、白様、とお呼びしてよろしいでしょうか? わたくしも魔道府へ溜まり管理の挨拶へ伺った際、お見かけしておりました」
「今後ともよろしゅう」
白に穏やかな笑が浮かんだ。白に恭しく挨拶をされた萌黄は、声を小さくしおどおどとしながらも、綺麗に微笑んだ。人見知りする(と街の者からの話を聞いていて思った)萌黄にしては、友好的な雰囲気だ。白がさらに微笑み返えすと、萌黄は薄っすら染めた目元を両袖で隠した。紅に似ているからだろうか。蒼は、少し前に東屋で交わした言葉を思い出して、一人頷いた。
それにしても、愛らしい彼女を見ていると、紅が何故あれ程までに倦厭するのか、理由が全く見当たらない。一度、白と紅が酒を飲んでいる時にでも、どさくさに紛れて聞いてみようかと、蒼は頭の隅で考えた。
「はい。ぜひ、よしなに。紅さんのおじい様ですもの」
萌黄の様子に、白の口元に皺が増えた。孫にするように萌黄の髪を撫でるが、すぐ「これは失礼」と己の行動に肩を竦めた。そんな茶目っ気のある白に、萌黄も眉を跳ねあげたりはせず、わずかに後ろへ身体を引いただけだった。そして、気にするように横目で紅を見るが、当の紅は、萌黄の後ろを鋭く睨んでいる。明らかに、敵意を含んだ視線だ。
もしやと思い、不機嫌さを顔に出している紅の視線の先を追うと。
「萌黄さん、意外に歩くのが早いですね」
短い髪を困ったように掻きながらも、全く急ぐ素振りもない悠長な様子の紺樹が現れた。
今日は魔道府の制服を纏ってはいない。私服だろう。腰紐を使用せず、ゆったりとした長袍を身に着けている。灰色に近い、灰青色の絹だ。
出会った頃から、紺樹は魔道学院や魔道府など、何処かの制服を着ていることが多かった。だからと言って、幼い頃からの付き合いなのだから、特別、私服が目新しいわけではない。
(紺君が私服を着て女性と歩いているなんて、近頃にしては珍しい)
どうしてだか、蒼の胸がずくんと痛んだ。
一方、萌黄は紺樹の言葉でらに頬を染める。
「あら、嫌ですわ。紅さんの気配を感じたものですから。つい」
「いやぁ、恋する女性には不思議な力が宿るものですね」
「まぁ! 紺樹様ったら!」
萌黄の舞い上がった声が、静かな空間に響いていく。
「姿が見えた」じゃなくて「気配を感じた」のですかと。蒼は、軽く心の中で突っ込みをいれる。が、当の本人である紅は冗談で流せなかったようで、鳥肌を立てている。もちろん、言っている当人も冗談ではないだろうけれど。
しかし、蒼の心を乱したのは、そんな萌黄の発言ではない。いつもと変わらない調子で
「おや、お揃いで」
と軽い調子で笑いかけてくる、紺樹の存在の方だった。