第17話 心葉堂9―蒼の茶葉―
あれから随分と色んなことを考えている。というよりは、ただ過去のことを思い出しているだけなのかもしれない。しかも、浮かんでくる思い出は、苦いものが多い。
「はぁ。だめだな」
蒼は、店内のたった一人の男性客に聞かれないように、小さく溜息を落とした。その拍子に、わずかだが、肩が下がってしまった。
数秒の間を挟んで、予想以上に大きい動作になってしまったことに気がついた蒼は、棚の下方にある瓶を手に取る振りをして、勢い良く屈み込んだ。
逆にその動作に驚いたのか。常連客の雄黄が、蒼の方を振り返った。
視線を背中に感じる。決して怪訝なモノではなかったが、それがより気まずさを強くした。
幾ら個人用浄練の診断を終えたばかりとはいえ、いつも以上に疲弊している身体に首を捻る。
(ううん。不思議なことはないか。新しい浄練方法に挑戦したからだ)
客の体調や纏うアゥマの量を見定め、予め溜りで浄練を終えた茶葉を、さらに客に合わせて浄練し、個人のものとして仕上げていく診断。
今回は、なかなかアゥマが制御できなかったのもあるが、それよりも、茶葉たちがアゥマの調合に馴染んでくれなかったことが、疲労の大きな要因だろう。
物事の変わり目はこんなものだ。蒼自身、茶葉に対して中途半端な納得をしようとする自分を「らしく」もないと思いはしたが。そんな考えを払拭するように、「よっこらせ」と大き目の掛け声を出し、背を伸ばした。商品棚に並んだ瓶が、一瞬、くらりと歪む。しかし、わずかな時間のことだったので、店内の中央にある円上の卓に並べられた商品を熱心に見ている雄黄や、櫃台の中で帳簿を確認している紅に気づかれることはなかった。
水晶の床の下の水が跳ねた音が、何故だか蒼の耳に残った。
「紅、ごめん。ちょっと裏に在庫見に行って来るね」
「あぁ。ちょうどよかった。白茶の棚にこれ戻しておいてくれ」
「うん、わかった」
立ち上がるのも億劫だと思えるほどの疲れは、身体を動かすと、やはり、無視できるものではなかった。
単純に診断を行うために体力と集中力を使ったからか、それとも、心の中で淀み渦巻いている出来事のせいなのか。どちらにしろ、店中で、しかも客がいる前で見せて良い様子ではない。
「よいしょっと」
ゆっくりと膝を伸ばした蒼を見た紅と雄黄が、心配の色を瞳に浮かべたのがわかり、口の端をあげてみせた。意志とは反対に、力のない笑いになってしまっていたかもしれない。
「じゃあ、雄黄さん、ゆっくりしていって下さいね」
もう一度、何時もの微笑みを浮かべなおす。
すると、雄黄も静かな笑みを浮かべたので、会釈をして暖簾をくぐった。
在庫を見るついでに、冷たい茶でも飲んで頭を冷やそう。蒼は小さく頭を振る。髪が揺れた瞬間、再びぐらりと視界がまわり、目の前が真っ白になった。倒れこそしなかったものの、壁に寄りかかった身体が、そのまま落ちていった。
(大丈夫。大きな音も声も出なかった)
店の方には聞こえていないはずだ。まだ店から住居へと抜ける途中にある休憩兼在庫置き場とはいえ、倒れ込んだわけではないから大した音は届いていないはずだ。
蒼は、しばらく座り込んだまま耳を澄ますが、紅がこちらへやってくる気配はない。そっと胸を撫で下ろした。
「寝不足かな」
呟いた声は想像以上に掠れ、吐息ほどだった。
確かに、ここ数日まともに睡眠をとっていなかった。けれど、それは浄錬を見直そうという気持ちから研究に没頭して溜まりに入り浸っていたからだ。今までだって、繰り返してきたこと。ここまで体調が崩れるのは珍しいことだけれども、少しばかり溜まりに篭る時間が、長すぎただけだろう。
濃密なアゥマが集まった溜まりは、太い龍脈の通り道でもある。いくら強い魂≪リンフ≫を持つ職人であっても、アゥマの負の影響は、少なからず受ける。もしかしたら、アゥマがより濃くなる時期なのかもしれない。
「アゥマの影響で弱った体には、おじいが浄練した茶の方が効くかな」
蒼は茶間へ目的地を変えた。
あそこには、白や蒼それに両親が浄練した多種の茶葉が、研究のためにいつでも使えるようにと用意された部屋だ。薬となる丹茶が幾ばくか減っていたとしても、誰も不信には思わないだろう。
いつの間にか溢れてきていた汗を、手の甲で荒く拭う。足に力を入れるが、まだ上手く立ち上がれない。蒼は、しばらく大人しく壁に背を預けることにした。
「はい、雄黄さんこれで最後です」
「うん、これでいいかな」
と、店先から紅と雄黄の会話が耳に入ってきた。
雄黄は紅よりも二つ三つほどだけ年上だが、のんびりとした話し方のせいか、それ以上に落ち着いた印象を受ける。
そう言えば、個人的に診断を行って進める茶葉とは別に、香りの茶が欲しいと言っていた気がする。蒼の代わりに紅が要望を聞いてくれていたのだろう。気に入ったものが見つかったようで、雄黄の声には喜びが滲んでいる。
「ありがとう、助かったよ。これで、彼女がいつ隣街から来ても大丈夫だ」
「あの彼女ですか? 蒼が店を継いで間もなく、一緒に来て下さった方ですよね?」
「そうなんだよ。あれから彼女、すごく蒼茶師の茶葉と茶瓶が気に入ったみたいでね。せがまれて、香りの茶だけは送ってはいたんだ。今度また一緒に来るからさ。よろしくね」
雄黄の声が弾んだ。
雄黄の恋人。柔らかい雰囲気だが、意志のある強い瞳をしていて、艷めいた黒髪が白い肌に映えた、とても美しい女性だった。そわそわと茶葉を選びながら、色んな質問をしてくれたので、特に印象深かった。彼女を優しい表情で見つめていた雄黄との関係も、素敵だと思った覚えもある。
雄黄の嬉しそうな声で、蒼の心に灯がともった気がした。が、ふと間が空いて。雄黄が遠慮がちに、紅に尋ねる。
「ただ……蒼茶師、どうかしたのかい?」
急に音量が下がったのが、余計に蒼の耳に、雄黄の言葉を響かせた。
「診断中、何かありましたか? 最近あいつ、新しい調合に夢中なのか、ぼうっとしていて。それともいつも通り、暑苦しく語っていましたか?」
雄黄の言葉を受けた紅は、あくまで平静な声で対応している。いや、語調はあくまで穏やかだか、普段より軽めの言い方をしているあたり、動揺はしていて、心の中では蒼の頭を叩いているのかもしれない。
蒼は、紺樹を華憐堂で見かけてからずっと、自分が浄練する茶葉の欠点について考えている。欠点を補おうと試行錯誤中なのは、紅も知っている。ただし、蒼も紅に事細かには伝えてはいない。だから、紅が心配するのも、仕方がないのだが。
紅の調子に安心したのか、雄黄は口篭りながらも続ける。
「先ほど、診断中に茶を飲んだのだけど。いつも違うというか。美味しいことには変わりないのだけど……」
「と、言いますと?」
いつもと違う。それ自体は、蒼にとって前向きな単語だ。華憐堂のように、新しくて癖になる味が出せるように研究中なのだから。
これを知ったら、間違いなく紅は怒るだろう。麒淵だって良い顔をしない。しかし、未熟な蒼にとって、店を守るためには必要なことだと思われた。今までの心葉堂の味に慣れ親しんでくれた客たちには、蒼の茶葉は物足りないと感じられているのではないか。ならば、違う特徴を出さなければいけない。
迷いに迷って、方向は定まった筈なのに。なのに、どうしてだろう。蒼の心は、ずっと曇ったままだ。だから、雄黄が何を口にしようとしているのか想像して、心臓が大きく跳ねた。鈍い鼓動が眩暈を誘った。
しかし、蒼の様子を知る筈のない雄黄が、櫃台を強く叩く音が響く。
「僕は蒼茶師の茶が好きだから、言うよ! 何だか、蒼茶師の茶葉じゃなかったんだよね。茶葉の香りも淹れた後の味も。舌に染みてくる優しさも」
「蒼の、茶葉じゃない……」
深思の声で、紅が雄黄の言葉を繰り返した。きっと、顎に手を当てて、眉間に最大級の皺を寄せているのだろう。考え事をしている時、顎に手をあてるのは紅の癖だ。母親が必ずといって良いほど、思案するときには右頬に手をあてていたことが、思い出される。
言葉の内容から逃げるように、蒼は思考をずらす。今直ぐにでもこの場を去ってしまいたいのに。誰かが、二人の会話を最後まで聞けと、足を縛っているように力が入らない。金縛りにあっているみたいに、耳を塞ぐために手をあげることも出来ない。
紅の口調から、彼が怒っていると勘違いしたのか。雄黄が慌てた声で、蒼を庇う。
「勿論! 診断も浄練も、いつも通り凄く丁寧で。けど……あー! 僕の語彙力ではしっくりくるように言い表せないのだけども!」
「いえ、凄く良く伝わってきます」
紅が、ひどく柔らかい声を出した。雄黄の真摯な想いに応えるのと同時、相手を落ち着かせる時に出す声だ。そんな紅の空気に感化されたのか、雄黄は声の大きさを、若干ではあるが落とし、深呼吸したのが空気から伝わってきた。
かちゃりと、瓶がぶつかった音がした。心葉堂の家紋が押印された紙袋から、茶瓶を出したのだろう。蒼には見えなくとも、音だけで、客が茶瓶を扱う仕草や表情が、想像できた。
幼い頃からずっと、この場所にいるのだ。幼い頃から、ずっと心葉堂が、蒼の居場所だった。そうであるべき、空間であり続けてきた。
(私と……家族の場所。守りたい、ところ。なのに、私は……無力だ)
ふと視線をあげると、幾日振りかに雲のない晴れた空が、店と反対側にある、開け放たれた扉から見えた。降り注ぐ木漏れ日も暖かく、水晶の床部分に反射しては煌いている。
「僕は、華憐堂さんの茶葉も買ってみたんだ。確かに、癖にはなる味がする。けど、こう、厳しいというか冷たいというか。それに、皆は力が出るっていうのだけど、僕は変に疲れちゃって。お茶って、大切な人と大切な時間に飲んだり、癒してくれるものだったり、初めての人を、心を込めて出迎える時の相棒だと思っているからさ、蒼茶師の優しいお茶が、凄く好きなんだ! だから、余計なお世話かもしれないけども。どうしたのかなって、ちょっと気になってしまって」
雄黄の熱弁が静かな店に響いた。店の奥、自宅へ続く廊下近くにある庭で、薬葉弄りをしている白にも届いたのかもしれないほどだった。勿論、蒼の耳にも痛いほど届いてくる。
最高の褒め言葉なはずなのに、全く心が踊らない。むしろ、喉がしまって息苦しかった。胸が締め付けられた。どこからも、どんな角度からも、どう頑張っても。四方上下全てから否定されているようで、今の蒼にとっては、ただ自分を刺す鋭い刃でしかなかった。
(どうすればいいのかも、どうしたいかさえも霧の中)
蒼は、喉の奥から湧き上がってくる嗚咽を、必死で抑える。不安を吹き飛ばすように行動を起こす元気はないのに、やるせなさを吐き出す力はあるのかと、自分の身体が恨めしくなった。
優しい音で聞こえる紅の苦笑さえも、蒼の心をえぐる。
「すみません。きっとあいつ、華憐堂さんの商人根性に驚いてるだけだと思います。駄目ですね、茶葉のことばっかり考えてきたものだから、今まで街にいなかった性質の店に、びびっちゃてるんでしょう。でも、今の言葉聞いたら、あいつ喜びますよ」
「そっか。そうだと良いね。蒼茶師はあぁ見えて繊細で、茶葉もそうだからね。街の皆も、新しいもの好きなだけだから、きっともう少ししたら、落ち着いてくるんじゃないかな」
「あっ、今の『あぁ見えて』っていうのには、怒るかもしれませんよ?」
「いや、それは怖いな……」
桃色の服が色を深めていく。染みていくのは、硬く閉じた瞳から毀れていく、大粒の雫。蒼をわかってくれている客がいるのだと、蒼の茶を好いていてくれる人間がいるのだと胸が熱くなる一方、ずっと悩んでいることが、心を埋め尽くす。
それは、客は蒼自身を見ているだけで、茶の味で選んでいるのではないのかもしれない、ということ。蒼が浄練する茶葉だから、そう感じられるのか。それとも、蒼が浄練したと知らなくとも、茶葉の味だけでも、雄黄が言う様な気持ちが湧いてくるのか。わからない。
前者であれば、どれだけ努力しようとも現状を変えることが出来ないと、蒼は思う。だからこそ、新しい風を取り入れようとした。けれど、きっと、蒼がしていることは……。
かつんと、人が動く音がした。靴と床がぶつかる、音。
「じゃあ、また来るよ」
「はい、ありがとうございます。またのご来店をお待ちしています。お気をつけてお帰り下さい」
しゃらん、と。
何時もと変わらない調子で、店の扉の鈴が透き通った音で鳴った。雄黄が店から出たのを知ると、急に体が軽くなった。
紅が、櫃台で台帳を開いたのだろう。紙の擦れる音が聞こえる。蒼は、這うように店から離れていく。
自宅へと繋がる水晶板の廊下へ出ると、無意識で走り出していた。茶葉たちが並んだ場所から逃げるように、足が動き続ける。一刻も早く、溜まりへ行きたかった。
珍しく晴れ渡っている空は、群青よりも深い色をした深縹。そんな空を背に舞い踊る桜の色が、庭園に溢れる緑と鮮やかに溶け合って。やけに綺麗だった。