第16話 調査2―蒼の涙―
「蘇芳様?」
蘇芳はクコ皇国の皇子であり、心葉堂の常連客の一人でもある。継承権が高位でないこともあり、行動がそれほど制限されていない彼は、昔から市井との関わりを持つことが多かった。
紺樹の幼い頃からの友人でもある。紺樹自身は、ただの腐れ縁とつっけんどんに言うことが多いが。ともかく、蒼にとっても身近な人物だ。
「一回出てきて、また戻ったから」
蒼の腕を掴んだまま、真赭がささやいた。ひどく硬い声で。
「皇子殿の姿を街中で見かけるのは久しいのう」
白の指が顎髭をひと撫でする。白が、真赭の上から顔を覗かせながら大きく頷いた。
心葉堂の常連でもある蘇芳。そして、紺樹の親友。そんな彼は、蒼のこともとても可愛がってくれているのだが……。白の言うように、最近はあまり店どころか街に顔を出すことがなかった。街でも、主に女性たちが「寂しい」と言っていたのが思い出される。
「魔道府から政の場へと移られて、忙しかったみたいじゃからのう。自由な風紀の魔道府と違って、あちらは何かと動きにくいのじゃろう」
「そっか、蘇芳様、数ヶ月前から変わったんだっけ」
蒼は小さく掌を打った。それを見て、もう一度白が頷く。わざとらしい仕草に見えるが、いつもほど軽さを感じなかったのは、声の調子のせいだろうか。
蒼にとって政は未知の世界だ。けれど、紺樹や紅、それに客の話を聞いただけでも、複雑な人間関係や思惑が絡み合っており、暗黙の規律の存在というものが、嫌でも垣間見えてくる。
「体調崩してるのかなって心配してたけど、元気そうだね」
「えぇ。顔色はいつもとお変わりないわね」
曇り空の下でも美しい色をみせる長い黄檗色髪。それをなびかせている蘇芳は、紺樹に引けをとらない長身だ。金よりも薄い色をした長い前髪をかき上げると、周りの女性陣から、ほぅと、うっとりとした息が毀れる。切れ長の瞳は水色よりも更に薄い白花色。透き通ってしまうような瞳と同様、肌は女性のそれのように滑らかで白い。
詰襟の前を開き簡素な羽織を纏った軽装をしているあたり、仕事ではないようだ。
予想もしなかった人物の登場に、少しばかり驚きはしたが。人との関わりを好み、見た目と反して子どものように好奇心旺盛な彼の性格を考えると、話題になっている華憐堂へ足を運ばないほうが不思議だ。
「それにしても、真赭が緊張したから、私、てっきり――」
てっきり、誰が出てくると思って、それが嫌だと思ったのか。
蒼は自分の口から出かけた言葉に、目を見開いた。
そもそも、街へはアゥマの調査に来たのだ。蘇芳が出てきたことに関しても、何かしらの可能性と理由を考慮すべきなのだ。であるのに、蒼は、今、自分の胸を撫で下ろした。
言葉を切り沈黙してしまった自分を、頭上の二人が不思議そうに見下ろしているのがわかった。真赭の手が、蒼の背に触れてくる。
「蒼? どうしたの?」
「あっ、ごめん。なんでもない」
しゃがんだまま、蒼は頭を振った。自分の未熟さに肩を落している場合ではない。隠居の身である白までひっぱってきたのだ。何かしらの情報を持ってでないと、紅が待つ店へは帰れない。
ぐっと、蒼は己の拳を強く握る。眉間に力が入っている。きっと、今の自分の表情は歪んでいるのだろう。そう自覚しながら、蒼は顔をあげた。
もう一度、壁から控えめに顔を覗かせると、くるりと蘇芳が扉へと向き直り、誰かを手招きした。見えたのは、純白に青の刺繍がほどこされた裾。魔道府の制服である、外套。
「おーい、お前らー帰るぞー」
待ちくたびれ様子で、蘇芳が大きな声を出した。呼びかけに引かれるように姿を現したのは、長身の見慣れた男性。
「待ってくださいな、蘇芳様。ほんま、もうちーと行動に間をいれるってことを覚えてください」
「何事も素早さが肝心なんだぞ! 陰翡! お前だって、休憩時間が終わってしまうだろう?」
「言い方変えますわ。落ち着きもってくださいな。ただでさえ目立つ容姿なんやから」
独特な訛りのある軽い口調で蘇芳を諌めたのは、紅の親友である陰翡だった。蘇芳からやや距離をとり、呆れたように笑っている。
「やっぱり髪は縛ってくるべきだったか?」
と唇を尖らせた蘇芳に、
「意味が違いますわ。ほんま陽翠に代わってもろたら良かったわ」
と陰翡が律儀に突っ込みをいれた。
突っ込み気質な、双子の陽翠と一緒にいる時は、自分がぼける側の陰翡。慣れないことに本気で疲れたのか、店の中にいる人物に助けを求めるように向きを変えた。彼が顔を向けた方向から、男女の笑い声が、わずかにだが聞こえてきた。
遠目からでも予想できた。できて、しまった。彼が向ける視線の色――その向こうにいるであろう、人物が。
「え――?」
真赭が勢い良く、白の袖を引っ張った。そのまま白を揺さぶった。平素の彼女ならありえない行動だ。それだけで。それだけでも、蒼の予想があっている可能性を高めてくる。
蒼の掌には汗が湧き出てくる。熱い。痛い。心臓の音が耳に響いて、でも蒼の真ん中から飛び出そうでもあって、気持ちが悪い。
「白様、あれ陰翡さんです」
「おー」
「おーって白様!」
落ち着いた真赭が声を荒げるなんて珍しい。蒼はどこか遠くでふっと笑った。
白は少し困った顔で、真赭の肩を柔らかく叩いた。彼女にしては珍しく、動揺しているようだ。
蒼は膝の砂を払いながら立ち上がった。
「まぁ、真赭。そう声を荒げるでない」
先程よりは声の大きさを落した真赭が、しかし、慌てた様子はそのままに白の服を掴み「だって、陰翡さんはっ! それに――」と顔を青白くしていく。
ちらりと蒼を見る真赭の瞳には、気遣いの色が濃い。蒼の視界を遮るように、白と真赭が通りの際に立った。
「まぁ、私的とは言え皇子殿が足を運んだようであれば、今日は大人しく心葉堂に戻った方が良いのう」
「……そう、ですね。蒼、早くここ離れよう」
真赭に小道の奥へと促されるが、足が地面に縫い付けられて全く動かない。それでもと、蒼を動かそうと触れた真赭の白い指がわずかに震えていた。蒼は、自分の雪洞状の袖を掴む指を目で見て初めて、そのことに気がついた。自分の身体がそれ以上に、震えていたから。
二人の表情を見て、蒼は先程から考えていた『可能性』をはっきりと自覚してしまっていた。
人好きの蘇芳とは言え、彼は無警戒な人物ではない。私的な行動でも、いや、私的な行動だからこそ、傍に置く者は選ぶ。それに、耳に届いた笑い声。中音程の心地よい声を聞き間違える筈は、ない。
「だって、あれは」
蒼は弾かれたように、白の顔を勢い良く見上げる。白は腕を組んだまま深く息をつき
「蒼、今見ていることが全てとは限らない。心を乱すでないよ」
と意味深な言葉を吐き出した。
白が厳しい言葉を口にする時はその裏に、目に見えていない事実を含むことが多い。それは今の蒼には、止めを刺されたのと同じ意味を持つ。溢れてきそうな不安をぐっと飲み込み、一歩踏み出した。白の方へと。が――。
「今日は騒がしい人間を連れてきてしまい、失礼しました」
「いえ。どうぞ、また蘇芳様もご一緒にいらしてくださいまし」
「うむ、また寄らせてもらうぞ。また萌黄が淹れてくれ」
今度は明瞭に、実にはっきりと蒼の頭の真ん中へ響いてきた声。想像していた姿が思い浮かび、心臓が激しく鳴るのを全身で感じた。なのに、血は激しく全身にめぐっていくのを感じるのに。矛盾するように、頭から血の気がひいていくのがわかった。思わず道へ飛び出しそうになったところを、白の腕に遮られる。蒼は伸ばされた腕にしがみつきながら、かろうじて様子が伺える程度にだけ、顔を覗かせた。
「紺……くん」
擦れた声が、霜風にかき消されていく。
ただ、苦しかった。萌黄と並んで出てきた紺樹の姿が。談笑している顔に浮かんでいるのは、作り物の微笑みではなかった。いや、そんなことが悲しいのではない。もやもやと言い様のない気持ちが渦巻いたのは事実だが、そんな焼きもちで心を激しく揺さぶられるほど自分はもう子どもではないと、蒼は頭を振る。
「あれ、は」
自分の視界を濁らせたのは、彼の手へ渡された艶やかな袋。華憐堂の家紋が大きく刻まれたそれを、紺樹が大事そうに抱える仕草が、呼吸を乱す。紺樹へ渡される直前に、そこへ仕舞われた瓶を見て、中身がなんなのか、蒼にはわかってしまった。
萌黄が、明るくはっきりとした口調で礼を述べたのが、聞こえた。
「また丹茶が必要な時は、いつでもおっしゃってくださいましね。魔道府の御用達となれば、父も自信がつきますわ。あっ、今回は紺樹様と蘇芳様が私的にいらっしゃったのに。いやですわ、わたくしったら。すっかり商売人になってしまって」
「いえ、とても助かりました。これで母の体調が戻ることでしょうし、感謝します。すぐには無理でも、今度は仕事でもお邪魔することになると思います」
「嬉しいですわ」
寒々しい空気とは正反対、紺樹の木漏れ日のようにあたたかい眼差しと柔らかい感謝の言葉を受けて、萌黄はわずかに頬を紅潮させた。それは色恋の香りではなく、自信という高揚感を感じさせる色。
萌黄は、紺樹の腕に抱えられた己の店の家紋を確認するように陶酔気味に見つめた後、我に帰ったのか、袖をあわせ軽く頭を垂れた。
興奮した萌黄の声は、道を挟んだ場所にいる蒼たちにも十分届くほどの音量だった。それは、残酷なほど。
「わっわたし」
「うむ」
きっと。白が支えていなければ、蒼の身体はその場へ崩れていただろう。ぽろぽろと、水晶の玉のように毀れ落ちていく涙が地面へと染みていく。蒼はそれをとめることはしなかった。むしろ。今、目の前にある全てが見えなくなってしまえば良いのにと願いながら、望んで視界を滲ませていく。
「お仕事なら、仕方がないって」
「うむ」
両親が亡くなってから泣かないと決めていたのに。
脆過ぎる涙腺を、自分の意思を悔しく思いつつも、自分の中で絡み合いながら蠢いている感情の正体にはっきりと名前をつけられず。その恐ろしさから逃れるように、蒼は子どもの如くただ泣く。
蒼自身、沸きあがる感情の正体はわからない。ただ、気持ちが溢れてきて止まらない。
「丹茶は必要なものだし、あれ以来、作れない私が悪いんだし。お客さんが離れても、お茶自体を飲みたいって思ってもらえるように頑張るって。私も職人として、努力するべきだからって。でもっ」
いつの間にか、蒼は白の腕の中に包み込まれていた。こうして祖父に抱きしめられるのは、あの日以来だと。蒼は夢中で思いを吐き出しながら、自分の一部を切り離してしまったように頭の片隅で、そう考えた。
壁を背に、白は強く蒼を抱きしめてくれた。それが、余計に蒼の心を乱すことを知っているのだろうに。
「思うままに、言うてもよいのだ」
白の靴先が地を半円に滑った。落ちていた花びらたちがわずかに舞い上がると、白の口から囁かれた言葉に運ばれるように陣を描いた。と、白の右手が小さく動いたのが、蒼の身体から離れた温度でわかる。
裾から出された小瓶からアゥマの水がまかれたのが、肌で感じられたことで、3人がいる場所だけが外界と切り離されたのだと予想できた。
それが合図となり、蒼の中で糸が切れてしまった。ひゅっと。吸い込んだ乾いた空気は、喉を切りつける。
「やっぱり、大切な人がっ、蘇芳様やっ。応援してるよって言ってくれた陰翡お兄ちゃんがっ……あぁやって、自分の気持ちでっていうのが嫌だって思って! そんな風に思った自分がもっと嫌で!」
「蒼、職人とて人間ぞ」
結界がはられたのが合図となり、蒼の声が激しく空気を揺らした。
蒼は全てを歪ませる一掬の涙でも足りず、白の胸へと顔埋め、自らの瞼で闇を作る。瞳が焼けるように熱い。頭がひどく痛んできた。
そして、蒼は、修行半ばで店を継いだ自分が今まで背を伸ばしていられたのは、一重に自分の周りにいた人々のおかげなのだと改めて知った。再認識することが出来た。
きっと彼らは、蒼が浄錬した茶葉よりも、蒼自身を見ていたのだろう。職人失格だと自覚しながらも、それは蒼という人間が浄錬する茶葉という意味をくれていた。だから、そんな人たちに、客に美味しいお茶をと頑張ってこれた。
けれど、どうしてだろう。
「私の、お茶が、大好きだって、一番大好きだって。他のお茶は飲めないくらいだって。もちろん、それが全部実際のことじゃないってわかってる。けど、紺君の気持ちは、いっぱい伝わってきたから。だから、修行途中でも、中途半端でお店継ぐことになっても、今出来ること、頑張ろうって。丹茶を作れなくなった自分の弱さが、嫌になっても!」
大切な人たちを失ったと知った、あの日。蒼は己の道を見失った。一番、喜んでほしかった。大好きな両親に、自分の茶を飲んでもらって、職人としても肩を並べて。そんな日がくることを希望に修行に励んでいた。
であるはずなのに。修行に出ていたせいで、尊敬して、大好きな人たちの死に目に立ち会えなかった後悔が、立ち直った今でも、いまだに人を救う丹茶の浄練を阻む。
「わしも、紅も、麒淵も。皆わかっておるよ。それに」
「私だって、ちゃんと見てる」
真赭の細い指が、蒼の肩を強く掴んだ。
そう、誰も蒼を責めない。誰よりも両親を尊敬して慕っていた蒼が、蒼だけが両親の死目に会えなかった。見送れなかった。そのことを知っているから。
けれど、蒼にとっては、その優しさが痛かった。だから苦い優しさから逃れるように、いや、甘さに溺れて肝心な部分から目を逸らした。
「私は。私は……全部、自分のいたらなさのせいだって、自覚はあるんだよ」
結果、自分勝手なわがままで勝手に傷ついている。全て、蒼が勝手に心をぐちゃぐちゃに乱しているだけ。
だけどと、蒼は白の背中をきつく握りしめた。白が皺の刻まれた手で何度も蒼の頭を撫でてくれる。蒼の瞳に焼きついた光景を消すかのように。
「それでも、それでもね。紺君があんな顔で、他の人から茶葉を丹茶を受け取ってるのが、すごく、苦しいのっ」
口にするのが愚かなことだと自覚はしていても、どうしても止める事が出来なかった。
擦れた声が、熱い息で消えてしまえばいいのにと祈りながら、蒼は睫を震わせるばかりだった。




