第14話 災いの予兆と一歩
「最近腰が痛くてねぇ」
店内に老婦の呟きが落ち、大きな身体がゆさりと揺れた。丈夫な筈の椅子は、ふわふわの毛皮に包まれた老婦の動きにあわせて悲鳴をあげる。けれど、腰で弾んでいる拳がとまることはない。
「水婆、楽になるのはわかるけど。あんまり叩かないほうが良いんじゃないか?」
紅は帳簿へ向けていた視線をあげた。倒れることはないとわかっていても、つい、店の中にある薬箪笥や博古櫃に目がいってしまう。
そのまま目線を移動させると、恰幅の良い水婆が複雑な顔でお茶を啜っている。
「人間ってのはね、頭では駄目だと理解していても、どうしてもやってしまうことってあるもんさ」
「わかっている体でぼやいてもだめだって。ほら、もう杜仲茶をもう一杯ごちそうするから、血行を良くして」
紅は傍らにあった茶器を持って、櫃台から出る。黙って茶杯をあげた水婆に苦笑を浮かべながらも、茶を注ぐ。
こぽこぽと愛らしい音を伴い湯気が立ち上る。すんと息を吸えば、香ばしさの中にほのかな甘みが鼻腔を満たしていった。
「はぁぁ、茶は美味しい気温だけどねぇ」
温かく心を満たしてくれるお茶の美味さと、身体を外から刺激してくる温度の差をどう表していいのか。水婆は困惑しているようだ。
「確かにこの時期に、この寒さは異常じゃのう」
水婆の正面に座している白が、顎をひと撫でしながら呟いた。
「この時期に天気が悪いってのも、珍しいよな。雨恵月にはまだ早いっていうのに」
紅は櫃台に戻りつつ、丸い枠に硝子がはめ込まれている窓へ視線をやる。
窓硝子にはアゥマを含んだ水が溜められている。いつもなら太陽の光を受けて、店内に鮮やかな光を注ぎ込んでいるのだが……。今は雨のせいで、中に浮いている結晶が放つ淡い光りだけが、床に映されている。
「ほい。水婆や、これでわしの十連勝かのう」
「ちょっと、白! 人が意識を逸らしている間にずるいじゃないかい!」
白龍と水婆の間には、木盤の上に置かれた木駒が佇んでいる。
白龍は名と同じ色の髭を撫でながら、じっと駒兵を見つめていると思っていたのだが……会話に参加しながら、ちゃっかりと勝負に勝ったらしい。
「勝負中に気を抜くお主が悪いのだ」
「あんたの老若男女に関わらず加減をしないところは嫌いじゃないけども、わざわざ腰が痛むような気温の日を選んで呼び出したんじゃないかって思えるタチの悪い性格はどうかと思わずにはいられないね」
水婆はうんざりとした様子で、近くの菓子に手を伸ばす。文句を口にする割に、すでに木盤には興味がないようだ。負けたという事実はすでに受け入れているからか、はたまた、現実から目を逸らしたいのかは不明だが。
一方、白龍は非常にご機嫌な表情を浮かべ木駒を箱へ戻している。
「なんとでも言うが良いよ。ともかく、勝負は勝負。例の件は頼んだぞ」
「はいよ。そもそも勝負なんぞしなくても、あたしらは動くのに」
「それでは興がそがれるというものよ」
老人二人の会話を聞いても、紅はとくに突っ込んで尋ねたりはしない。白龍や翁衆が事の大小に関わらず賭け事をするのは日常のことだ。それに、賭けの内容をはっきり口にしないということは、白龍のフーシオの地位に関係する内容だろうから。
「それよりも――」
逆に、紅が心配なのは蒼の方だ。
しっとりとした空気の中で交わされる会話に混じらないのは蒼。その焦点は定まっていない。いつもなら店の中を動き回っているか、客に茶葉の効能をわかりやすく伝えられるようにと思考を廻らせ手を動かしているのに。それでないにしても、人の話には律儀に反応は返してくる妹が、ぼんやりとしている。
「なぁ、蒼」
紅が呼びかけても、蒼は反応しない。
蒼は櫃台の中、両の手で頬を支え目の前にある砂時計をじっと見つめて心ここにあらずな状態だ。しかも、茶を蒸すちょうどよい頃合の印を、きらきらと光る砂はとっくに通り過ぎてしまっていた。
「これは相当苦くなりそうじゃ」
確か、白龍と水婆に温まる茶を淹れようと急須へ湯を注いだのは5分も前の話だ。
「蒼嬢に教えてあげないのかい? あんたも意地がわるい」
「ははっ。ここ数日、また忙しさが戻ったから、疲れておるのじゃろうて。氷砂糖でも用意してやるかのう。肌寒いし、甘味が出て良いだろう」
白龍が口にした通り、ここ何日かこの街は肌を刺す寒さに覆われていた。つい先日まで、色とりどりの花が咲き誇っていた景色を思い浮かべると、確かにおかしい。街中が灰色の空気と冷たい雨に凍えている。
そんな不安定な状況の中、一時は遠のいていた客足が安らぎを求めて戻ってきた。それはもちろん、喜ばしいことだ。
(でも、それってようは、買いだめに走っている常連客が、この数日間に集中しただけなんだよね)
根本的な問題が解決したわけではないのを、蒼は重々承知している。蒼が気がついているということは、白龍や紅が考え及んでいない訳がない。
その二人が日頃と変らない調子でいるのは、他ならぬ蒼への気遣いだ。
(何かがおかしいのは感じているのに。茶師として薬膳茶を丹錬することも、アゥマ使いとして原因を解明することも出来ないなんて)
蒼はそんな自己嫌悪に沈んでいた。はぁと大きな溜息が毀れる。
今日だけで何度目だろうかと、余計に気持ちが暗くなってしまうのだが、どうにも止まらなかった。ようやく砂時計の砂が動きをとめていることに気がつき、慌てて茶杯に移す。
「わわっ! すっごい香りになっちゃってるよ!」
思わず、鼻に流れ込んできた匂いで眉間に皺が寄ってしまった。
けれど、茶葉を無駄にして捨てることは出来ない。
蒼は一気に茶を煽った。そうして予想した以上の苦味に耐え切れず、勢い良く櫃台へ突っ伏す。わずかに額を打つが、全く痛みなど気にならない位には渋い。
「ぶわぁぁ」
「そんなに気になってるなら、調べてみるか?」
頭上から紅の声が降り注いできた。
いつの間に正面に来ていたのか。蒼が櫃台に突っ伏していた顔をあげると、苦笑を浮かべている紅がいた。しかし、彼が纏う雰囲気はいたって柔らかい。
「へっ?」
目を瞬かせた数秒後。蒼は顔を輝かせる。顔をあげると、紅の奥にいる白龍たちも、同じような表情で蒼を見つめていたではないか。
この空間にいる全員に視線を向けられていたにも関わらず、全く気配を感じ取れないほど思考が飛んでいたのか。蒼の口元がわずかにひきつった。
「でも、紅ってばいいの? 面倒ごとは避けたいんじゃないの?」
「天気と同じように、じめじめしてられると、店の中の茶葉まで萎しなびそうだからな」
「私のじめじめで萎びちゃうくらいだったら、とっくの昔に紅の出すぎてる胃液でとけちゃってるよ」
蒼は嬉しさのあまり思わず腰をあげかけて、我に帰ったところで恥ずかしさと居た堪れなさのあまり、憎まれ口を叩いた蒼。
案の定、紅が大げさに突っ込みを入れてくる。
「どんな理屈だ!」
「それはお互い様じゃろ。似たもの兄妹め」
そんな紅を、白龍と水婆がさらにからかいの目で見つめているのがわかった。白龍にいたっては、思い切り目じりが下がっている。
自分以外に視線が向けられ、蒼はほっと胸を撫で下ろした。そんな蒼の心の中が想像ついたのだろう。紅は肩を落とす。
「おじい、オレと蒼を一緒にしないでくれ。って、そうじゃないだろ。行くのか行かないのか、どっちにするんだよ?」
ぽこんと。紅に帳簿――閻魔帳で軽く頭頂部を叩かれ、蒼の頬が思い切り膨れる。けれど、閻魔帳の影から見えた紅は、どうやら笑っているらしかったので、よしとした。
蒼は考える振りをして、勢い良く椅子に座りなおす。背もたれで、腰帯の後ろについている結目が潰れるのがわかったが、今はそんなこと気にしている暇はない。一刻も早く行動に移したかった。だが、一つ懸念事項がある。
「羅針盤で怪しい浄化物質アゥマの流れを辿ってみたけど、華憐堂さんの近く、だよ?」
紅をちらりと上目で伺うと、予想通りの反応が顔に浮かぶ。しかも、とてもいい笑顔で肩を叩かれた。いつになく力が篭っている気がした。ふっくらと雪洞状ぼんぼりじょうに膨らんだ袖の形が崩れる。
「やっぱりか。オレはうちで麒淵とアゥマの流れを読む。外の調査はおじいと蒼に任せた」
あまりに良い笑顔を向けられ、蒼の口が三角になってしまった。ジト目もおまけに付けてみるが、紅の輝きは増すばかりだ。
アゥマの流れを読み解くのは紅の方が得意なのだ。わかっていなかった筈がない。
「だが、くれぐれも無茶はするな、余計な動きはするな、華憐堂と絡むなよ」
紅が肩をがっしりと掴んだまま、ずいと顔が近づけてきた。
蒼の口からはひどく面倒くさそうな溜息が落ちる。寒い空間にふわりと真っ白な綿毛が作られた。
「ついて来ないくせに、注文が多いなぁ」
蒼のぼやきを聞いた瞬間、紅の瞼がすっと落ちた。
「うるさい。文句言うなら今夜はにんにく揚げの大盛り食わせるぞ」
「はい、すみません気をつけてね、おじい」
悪いと思いながらも、白龍を話しに巻き込む。
「そうよね、蒼嬢より白のじい様の方が心配よね」
水婆は本気で心配そうな声を出した。当人はそ知らぬ顔で、
「さて、ひげでも整えてくるかの」
と既に店の奥に踵を返してしまったのだが。
「蒼。お前は昔から暴走しがちだ。ただ、今の蒼は『心葉堂』の茶師なんだからな。ちゃんと自覚しろよ?」
紅から放たれる重い空気を受けて、蒼のしゃきんと伸びた背に汗が走る。
この雨にも負けない、じめじめとした空気が放たれている気がした。誰でもない、兄に言われて。
「では、半刻後に裏門に集合じゃな」
去っていく白の背中を見ながら、水婆が頬に手を当て呆れた声を出す。
「あの人は昔から何をしでかすかわからなかったからねぇ」
「そのあたりは蒼が似たんだな」
「そのままそっくり返すよ、紅に」
「張り合わなくても、どっちもどっちさね」
それはそうだけどと。どこかで聞いたようなやりとりだと思いながらも。
二人して不服そうに子どものようにそっぽを向いた兄妹を、水婆が声をあげて笑った。