第13話 心葉堂の日常―兄妹と祖父―
紅が捲り上げていた袖を下ろした所へ、店奥から白が戻ってきた。
「おじい、こっちの拭き掃除は終わったよ」
「おぅ。わしの方も一段落したわい」
紅が身につけている薄藍の袖は、綺麗に折られていたからか、皺がついた様子もなくすんなりと彼の腕を包んだ。すっと伸ばした腕に沿って裾が降りる。
逆に、白の袖はくしゃりと押し上げられていただけだったので、すっかり皺になってしまっている。
「って、おじい。また、そんな雑な折り方して――いいけどさ」
洗濯物を干す際、ついてしまった皺を伸ばすのが面倒だといつも紅が釘をさしている。
白は、それも「あまり口うるさいと、もてぬぞ?」と笑うだけだ。だから、掃除で疲弊してしまっている今日は、頭の中に浮かんだ続きを言葉にするのはやめておくことにした。
「なんじゃ、今日の紅は寛容じゃな」
「寛容じゃなくって、吐かれているだけだよ」
「ははっ、ご苦労さん。いや、しかし。客が少なかったせいか、いつもより念入りに掃除が出来てよかったわい」
白龍が愉快げに笑い声をあげた。
その声に嫌味など一切含まれていないのは紅にも十分理解できているのだが……紅はそんな白を軽く睨んだ。
「おじい、その台詞は間違っても蒼の前でいうなよ。それに全然よくない」
紅は不機嫌を隠しもせず、口元をひきつらせた。
心優しい孫の厳しい声色に、白龍は「悪い、悪い」とは言いながらも、全く悪びれた様子もない様子で手を振った。そのまま、櫃台近くに置いてある椅子へ腰掛ける。白龍は腰掛けて足を組むと、少し困った顔を浮かべた。
しかし、そんな表情の中にも、紅は何かしらの企みを感じてしまう。
「されとて、店が空いておるのは、蒼のせいではなかろうに。天候が崩れておることで、皆が外出を控えてきておる影響もあるのじゃから。アゥマの流れも微妙な変化を見せておるしのう」
「それでもだ! 事実とは関係ないんだよ、今のあいつには」
「そういうものかの。情報として現状を正確に判断することも大事だが」
白龍は納得いかないように頬杖をつくが、やはり、目じりには皺の波が刻まれている。切れ長の瞳が、悪戯な色を浮かべて細められる。
紅は、心配性な自分へのからかいの色が含まれていることを直ぐに察したが、疲れるので敢えてそれには触れず、ぶすりと表情にだけ不満を出した。腕を組み仁王立ちになってみせるが、当然のごとく、白龍は目を細めたまま――いや、さらに視界を狭めた。
「厳しいことを言うようじゃが。心の乱れは浄練を鈍らせる。それはさらに蒼を落ち込ませる原因になるじゃろう。ただでさえ、薬となる茶を作る丹錬できぬ、今」
「おじい、それはっ――」
紅が苦り切って、口を開きかける。
そんな反応も見越したかのように、白龍は一層ひやかしの色を濃くした。年の割りに豊かな己の髪に指を滑らせ、口の端をあげた。
「それに、気にしすぎると禿げるぞ、紅よ」
「おじい! 気に病んでいるのは――オ・レ・じゃ・な・い!」
白龍の発言を全力で否定する紅。白の最後の言葉を気にしたのか。心なしか、短く切られた自身の言葉尻には、力が入っていた。大きく息を吸い込んだせいか。音量も大きくなる。二人しかいない店の中に響き渡る声。
そんな紅の様子に、ついぞ白が腹を抱えて笑い出す。顔を赤くした紅は、
「もう好きにしてくれ」
と苦しそうにむせる祖父を、呆れた目で見るしかない。こうなってはどうにもならない。
と、紅の背後で扉が開き、店の中に外の清冷な空気が流れ込んできた。と同時に、
「ただいま!」
と高めの柔らかい声が店の中に響いて、思わず二人の頬が緩んだ。
ぽっと心をあたためてくれるような声。その声の主に、二人はそれぞれ出迎えの言葉をかける。
「おかえり」
紅と白の視線の先には、腕を擦っている蒼が寒さに頬を赤くして立っていた。
***************
店内は茶葉に合わせた温度を保っている。蒼はその差に反応した自分の鼻をつまみ、くしゃみをこらえた。
「こんな時期なのに、夕は冷えるね!」
「随分遅かったんだな」
「紅よ、野暮なこと言うものではない。蒼とて年頃じゃ。そんな日もあろう」
老人にしては随分と艶のある笑みを、意味深に浮かべたのは白龍だ。後姿にそれを受けた紅は、先程以上に複雑な表情の上で、口を歪めた。紅には、目にしなくとも、白龍がどんな表情で何をいわんとしているのかが、手に取るようにわかる。
(おじいは、私たちが子どものころから変らないなぁ)
紅と蒼の母親であり白龍の実娘である藍に呆れられ咎められながらも、彼は「彼らしい」発言を控えることはなかった、決して。
しかし、わかっていながらも、白龍のからかいを一々真面目に受け取る紅に、蒼は微笑する。これでは、どちらが保護者かわからない。
兄というよりは父親的な反応を示す紅にくすぐったくなったけれど、それを口にはせず。、
「魔道府への定例の報告、無事に終わりました。それで、真赭の古書店の片付けの手伝いしてきたの。おじいには言ってあったはずだけど」
と事実だけを言う。真赭とは蒼の赤ん坊の頃からの幼馴染みであり、由緒正しき古書堂の娘だ。真赭の祖母と白龍が、これまた幼馴染みでもある。
紅は「おじい」と厳しい声をだしながらも胸を撫で下ろし、白龍はつまらなそうに「寄り道なしかい」と欠伸交じりに呟いた。
「どっちが保護者なのか、わかんないね」
さすがにと、蒼から苦笑いとため息が漏れる。すると、白龍は肩をすくめ髭を撫で背を正した。
「そうだったのう。真赭のばぁさんもこの間亡くなったばかりじゃったの」
「うん。真赭たちが知らない場所にも本を保管してるみたいで、それを見つけるのがまず大変みたいだよ」
凝った肩をまわしながら言う蒼を、紅が年寄りみたいだと笑った。
普段気苦労が多い紅から言われると、微妙な気持ちになる。まぁその気苦労は主に蒼自身のせいなのだけれど。
「そういえば、陰翡お兄ちゃんと陽翠お姉ちゃんにあったよ」
「そっか。陰翡にはオレもこの間街中で会ったよ。元気そうだったろ?」
元気でいるのが当たり前のように、紅は笑った。
蒼の表情がほんの僅かに翳った。紅の瞳が懐かしそうに、蕩けたから。
兄の珍しい反応に、蒼の胸が痛む。紅が纏う空気はひどく優しいものであるはずなのに。
(紅は戻りたいと思っていないのかな。自分の目標に向かって、ただひたすらに頑張れていた日に)
今の紅の立場とは異なり、充実した執務にあたる彼らを取り巻く光の眩しさで、紅の目が細められたように思われたから。そして、そう感じさせているとしたら、それは蒼自身の力の足りなさからだから。
蒼は傲慢とは思いながら、つい眉尻を下げてしまう。
「さて、わしは茉莉花茶でも用意してくるかのう。それを飲んだら夕餉にするぞ」
蒼の様子を察してか否か。白は腰を伸ばしながら、すくりと立ち上がった。
「あっ、おじい。私が淹れるよ!」
「じじいは動かないと身体が固まるのだよ」
白龍は慌てる蒼の肩を軽く叩き、言葉とは反対のしなやか動きで足を滑らせ、店の奥へと入っていった。
どこが年寄りだと、兄妹の両方が肩を竦めた。
「じゃあ、オレは掃除道具片付けてくるか」
いつもの表情に戻った紅が、蒼に背を向ける。室内には、紅の手元から発せられるだけ音が、響いた。
しばらくは椅子に腰掛け、じっと紅の様子を見ていた蒼。静かに流れる時間の中、とても聞きにくいことが蒼の頭に浮かぶ。けれど、なぜだろう。今はその疑問がとても胸に引っかかっていて……。
「ねぇ、紅」
紅の答えを予想しながらも、口にせずにはいられなかった。
「うん? どうした、蒼」
「ねぇ、紅は――魔道府を辞めたこと、ほんとに後悔、してない?」
蒼が小さくちいさく呟いた。吐息とまざって消えてしまいそうなほどの、言葉。
きゅっと、蒼は服を両手で握り。掌がひどく熱くて、汗がじんわりと布へ染みていく気がした。
ただ、それよりも気になったのは、いつもは眠たそうに瞼を若干下げている紅が、目の前で満月以上に瞳を丸くしていることだった。
「蒼は、変なところを気にする」
しかし、蒼の不安は一瞬後、あっけなく払拭された。紅の大きな手が、蒼の頭を少々乱暴に撫でたのだ。
遠慮のない調子に、蒼はぐっと口を引く。そうしないと、込み上げてくる感情を抑えられなかったから。
「当たり前だろ、そんなの。オレは自分で決めて魔道府を辞めたし、店をきちんと管理するのがオレの使命だって、オレ自身が思ったわけだから、後悔なんてするはずない」
「でもっ!」
「お前だって一度決めたことは、がんとして聞かないだろ。オレだって同じだよ。兄妹なんだからわかってるだろ? あきらめろ」
思い切り、胸を張って満足げな顔で言われて――蒼はくしゃりと顔を崩した。
今、鏡を覗き込んだならきっと、猿のお尻のような色をした顔で涙を堪えている自分が映るんだろう。
蒼はそんな風に考えながら、白い袖で目を擦った。そこが余計に赤みが増すことを知りながらも。兄に涙を見せることへの意地と共に、こみ上げる感情に素直になっては、それがまた、彼の足枷になるのではと思ったから。
「紅は――おにいちゃんは、ずるい」
もしかしたら、優しい紅のことだから無理をしているのではないかと時々思ったりもした。蒼の夢を、おじいや両親が残してきた店を見捨てることが出来ず。
紅は昔から自己犠牲な面があって、蒼はそれがすごく嫌だった。だから、その嫌なことを自分がさせていると思うと、苦しくてたまらなかった。
「オレは蒼が考えているよりずっと、自分本位だよ」
「うそばっかり」
だから、こうして気分が落ち込んでいる時などは、不安が蒼の喉をぎゅっと締め呼吸を苦しくするのだ。
本当なら、今日だって疑問を口にする気なんて微塵もなかった。けれど、閑散とした店のことを考えると、どうしても聞かずにはいられなかった。
(紅は、私の真剣な質問に、決して嘘の答えを返さないから)
だからこそ、口に出来ない質問もあるけれど。
だけど、答えの内容がどうであれ、それは蒼が前へ進む原動力になる。
「紅もちゃんと人生設計してたんだね。よかった」
蒼は照れ隠しのつもりで、真面目な顔を作って頷いた。
偉そうに組まれた腕は、揺れた蒼自身の心を語るように、頷く動作に合わせて大げさに上下した。憎まれ口を叩いても、いまいち決まらない。
けれど、紅はいつもと同じように眉を下げ、思い切り口元を歪めてくれた。天然な兄のことだ。蒼の思惑など介していないのかもしれないし、無意識で感じているのかもしれない。
「なんだよ、それ?!」
であっても、なくてもどちらでも良い。蒼は、そう思う。
紅は心外だと言わんばかりに瞳を開いたから、蒼は甘えた笑みを浮かべてしまうのだ。
「いや、結構流されやすいからね。魔道府でだって期待の星で出世確実だって噂の君だったのに」
「さすがのオレでも人生まで漂流はしない。っていうか、誰が言ってたんだよ、そんなこと。オレは初耳だ。どうせ陰翡だけだろ」
苦々しく、全部を否定してみせた紅。
紅がいつだって信念を持って生きていることなんて、そんなことわかっている。だけども、その信念の根本にあるのが家族への愛情だから、心配になるのだ。
蒼は思う。それは、幼いあの日以来、鎖のように紅を縛っているのではないだろうか。紅は蒼が知っているとは思わないだろう、あの事実。《《繋がる血の真実》》。
(もし、紅が――お兄ちゃんが、昔の約束を引きずっているだけなのなら。守って欲しい約束が、紅を縛っている鎖になってしまっていたら。私――)
考え始めたらとまらなくなる。蒼は自分の『思ったら言わずにはいられない』という性格が恨めしくもなったが、それでも蒼は喉まであがってくる感情と言葉をとめられない。
蒼は紅の袖を掴み、潤む視線で紅を捉える。ひゅっと息が喉に流れてきた、が。
「紅も蒼も、本当にいじらしく健気に育ちおってからに! おじいは嬉しいぞい!」
紅と蒼は二人まとめて、戻ってきた白龍に勢い良く抱きしめられてしまった。
紅も蒼も小さいほうではないが、長身の白龍の腕に首をひっぱられて、逃れる術はなかった。もとより、振り払う気など毛頭ないが。
紅は呆れながら、蒼は頬を思い切り柔らかそうに緩めた。
「おじい。孫ばかっていうんだぞ、それ」
「ほんとに!」
月光を浴びて、淡く煌く色硝子の扉。その彩を飲み込むほどの暗い影が覆いかぶさっていることなど、気づくはずもなく家族は笑い声を響かせる。
扉一枚隔てた向こうに佇む闇は、ただ、ギギギッと硬く醜い音を絞り出す。
―第一章 日常編完―
引き続き、第二章にお付き合いください。




