第10話② 世界のことわり
「で、治癒の中のどんな術なのかな?」
蒼は両手を重ねて可愛くこてんと首を傾げてみた。ちまたでおねだりの仕草と呼ばれるものだと、幼馴染たちから教わった方法だ。
だが、六歳からの付き合いである相棒には全く効果がなかったようだ。麒淵は蒼の仕草に誤魔化されることなく、ふんと鼻を鳴らした。
「害のあるものでもないしのう。自分でわかるまで、つけておけ」
「えー! 前言撤回! 麒淵、意地悪!」
蒼としても大して効果があるとは考えていなかったので、すぐさま用意していた文句が飛び出た。
ぐでっと円卓に突っ伏すと、麒淵が楽し気に頭を叩いてくる。
「相方の愛情じゃ。ありがたく思えよ」
効果の不明な術をいつまでも身に施しておくのは、いくら紺樹がかけたものでも気持ちが良いものではない。しかし、本人に直接訪ねるのもなんだか癪に障る。
低く唸る蒼。
しかし、麒淵は本当に教えてくれる気がないようだ。
「そいで、華憐堂とやらはどうじゃった?」
と既に会話を変えてしまった。
こうなってしまえばもう、麒淵が答えをくれることがないのは昔から変わらない。ので、蒼は素直にそれを受け入れるしかない。
蒼は唇を尖らせたが、すぐ諦め気持ちを切り替えた。
「さっき言った通り、美味しかったよ? でも……」
「でも?」
口に出して良いものかと迷いが生じたが、麒淵相手に変な気を使って取り繕う必要もないと思い直す。
唇を横にひいた蒼を急かす事もなく、麒淵は静かに、言葉がこぼれるのを待つ。
同じ溜まりを管理する家の者でも、守霊は感情が薄いとか人とかけ離れているなど言う者は決して少なくはない。
「でも、なんていうか」
けれど、蒼は温かさに溢れた麒淵が大好きだ。他の溜まりの守霊のことなんて知らない。
蒼は麒淵に様々な意味で絶対的な信頼を置いている。
時には守霊として、時には親のような存在として接してくれる麒淵。蒼は深く考えることをやめた。言葉に表現し辛いことを含めて率直伝えよう。
「うんとね、うまくいえなくて、でも、ちょっと思ったのはね」
蒼は、自分の中でも整理し切れていない思考の中から、手探りで言葉を拾っていく。
麒淵は柔なく頷く。茶化すのでもなく、せかすのでもなく。けれど、聞いてくれていると思える相槌を受けて、蒼は口を開く。時折、言いにくそうに唇をつまんで。
「あのね。浄錬の量が尋常じゃないのと、黄茶や花茶みたいに、葉を体に入れるような淹れ方できる位までに、大量に仕上げられるなんてこと、出来るのかなって思ったの」
「ふむ、黄茶や花茶をのう」
顎に手をあて、宙を漂う麒淵。浮かびながら胡坐など組んで、器用だ。蒼は椅子にかけなおし、麒淵の反応を見守った。
しばらく待って見るが、麒淵は溜まりを睨んだまま、言葉を発することはない。
蒼が痺れを切らして、「きーえーんー」と、足の間に両手をついて間延びした声を出すと。律儀に「こら、行儀の悪い」と注意だけはしてきた。
そんなところにだけ、反応しないで頂きたい。
「で? 茶の味はどうだった?」
ややあって、唐突に麒淵が訪ねてきた。
「味? そうだね、今までにちょっと飲んだことがない感じで、一口目はぴりっと刺激があって舌が痺れるんだけど、二口目はそれがすぐ気にならなくなる。逆に『あれ?』って驚くと、三口目で喉の奥に甘味が出てきて、それが鼻腔へ広がるの。あれは細かい葉が歯に触れた時に出たのかな? 癖になる味だなって直感的に思った」
「刺激、のう」
基本的に守霊には五感がない。よって普段味覚を感じることもない。
身体の衰弱は溜まりの変化に左右され、味覚は相方との感覚を共有することで『情報』として脳で変換される。ただ、己の溜りで浄錬されたモノに対してだけは、その理に縛られることがない。
蒼は身を乗り出した。円卓に肘をつくと、ひんやりとして心地が良い。
「気になるようだったら、買ってきて、感覚繋げて飲むよ?」
「いや、それには及ばぬよ」
やけに即答されてしまったので、蒼は面食らって「そっか」と呟くだけに終わってしまった。
麒淵は建国当時からある溜まりの守霊にしては珍しく好奇心が旺盛らしいことは、蒼は聞き及んでいる。いや、麒淵個人を見ていても、新しい知識に貪欲で楽しんでいるのを知っている。
であるにも関わらず、
「しばらくは口にするな。あの店の茶は」
と釘をさされる始末だ。
「花茶も呑んでみたかったんだけどな」
勿論、麒淵の言うことであれば、素直に従うつもりだ。それでも、また呑んでみたいと思ったのも正直な気持ちで。蒼の喉がごくりと、唾を飲み込んだ。
それを見逃さなかった麒淵の眉がはねた。
「蒼、確認するが」
「はい。麒淵先生」
きたっ! と、蒼の背が勢いよく反った。
いつもの話が始まる。年寄りの長話が、麒淵のたまに傷な点だ。
「溜まりにいる守霊とは?」
「生命の樹、ヴェレ・ウェレル・ラウルスから生まれる浄化物質の粒子が溜まる場所を守る霊で、ひとつの溜まりに一霊が原則」
これは溜まりを守護する一族でなくとも知る、一般常識だ。学院に入る前から両親に教わる事実。
なぜなら、溜まりなくして人の営みはあり得ないからだ。
「溜まりを守る人間と守霊は契約を結び、その人間をアゥマ使いとして育て、共に溜まりを守る。また言語り―チュアンティオ―として過去の悲惨な世界の荒廃を語り聞かせてくれる存在でもある、のです」
「うむ。では、アゥマ使いの使命とは?」
麒淵は腕を組み、満足げに頷く。
一方、蒼はここからは己が背負う責についてだと背を伸ばした。
「アゥマ使いは国の鎮守の任を担い、国の原動力である溜まりの管理を行う者。現代においては、その能力を駆使し人々の生活と心を豊かにするため、各々が商いをしたり古代遺跡を研究したりしている。また、アゥマ使いでも特に力の強い者はフーシオと呼ばれ、貴族以上の身分と権利を与えられる。それと同時、国の一大事には……その身を呈し、知識・能力を用いて人々と国を守る責がある」
前半は言い慣れてしまっているため、書を諳んじるように言葉が流れてきた。けれど……最後の一文で蒼の声がしまった。
現在のフーシオは蒼の祖父。心葉堂の先々代である白龍だ。フーシオの家系の者は、当人だけではなく一族全員にその荷が課せられる。
「世情が落ち着いておる今、ほとんど形式的なものになりつつあるがのう」
蒼の顔に影がさしたからか。麒淵は、自身で言わせておきながら闊達に笑ってみせた。
確かに麒淵が言うとおりだ。言う通りだが、可能性がないという意味ではない。
蒼はここで自分が思い悩んでも仕方がないと息を吐き、元気よく腕をあげた。
「はい! つまり、麒淵先生がおっしゃりたいのは、商いにおいても、それだけアゥマ使いの責任は重いということですね」
「特に、穢れを刷り込まれておる食物、人々の体に影響を及ぼすものを扱う者はのう」
基本中の基本だ。しかし、麒淵は改めて確認するように、強い調子で発した。
蒼は麒淵が言わんとしている意味を図りかねて、蒼は首を傾げた。
まさか、おさらいだけをさせようとしているのではないだろう。不思議そうな瞳で見つめる蒼に、麒淵は暖かい微笑みを向けてきた。
「聖樹はアゥマを生み出すが、動植物がその恩恵に預かるには、アゥマを加工――浄錬し各々に最も適応した状態にする、リンフを持つ職人が必要じゃ。また、溜りを守る霊もアゥマ使いも、どちらが欠けても浄錬を行うことは出来ないのは知っておろう?」
麒淵が柔らかく問いかけてくる。
蒼は麒淵の言葉のひとつひとつを噛みしめ、意味をじっくりと味わい心の中で繰り返すと、ふと彼が自分に伝えたいことがわかった。
(世界の理ことわり)
恐らく、麒淵はそれが云いたいのだろう。
「万能なものはない。それぞれが出来ることには限りがある」
「そうじゃの。クコ皇国の宮殿地下にある溜りに次いだ濃密さを持つ此処じゃが、されとて、一日に浄錬出来る茶葉の数は限られておるし、薬となる丹茶となれば尚のことじゃ」
「でも、華憐堂さんは他の国から来たし、この国にはない技術があるのかもしれないし。実際、お茶も魅力的だった」
きゅっと固く結ばれる蒼の唇。
麒淵が蒼に伝えたいこと。それは華憐堂が理から外れているということなのか。それとも、腰の引けている蒼を慰めているのか。どちらなのだろう。
項垂れた蒼を見て、麒淵は「やれやれ、すっかり自信をなくしおって」と微苦笑をつけて、柔らかく呟いた。
「蒼。可能性を考えることは、思わぬ発見や発想を生み、大変生産的ではある。それと同じく、人を信じることも、人の営みの真髄である。それが蒼の長所じゃしのう」
「……うん」
「じゃがのう、蒼。わしは守霊、人ならざぬ者。そのわしに『理』は人以上に重い意味を持つ。溜りの理の崩れは国の、ひいては世界の崩壊にも繋がる」
麒淵は己の信条を押し付けようとしているのではない。ただ、アゥマ使いは守霊と非常に近い理の中に生きる者。生きる必要が、ある。
(その人間が、目の前の事実から逃げちゃいけない。それはわかるけれど。華憐堂の理を否定出来るだけの実力と知識は私には――)
完全に下を向いてしまった蒼。
今、心にあるのは華憐堂への疑念ではなく、ただただ痛感する己の未熟さへの悲傷。
「ほれ、そんなしけた顔をするでないよ。茶葉たちも憂いておるよ」
言われて、顔をわずかにあげれば。至る所に置かれた、螺鈿の長机に並べられている硝子瓶たちに色が走っていた。
麒淵の笑みが深くなる。
「わしは、蒼が浄錬する茶葉を好いておる。自信など場数を踏めば自然とつくものよ」
麒淵とここにあるもの全てのおかげで、蒼の気持ちが軽くなっていく。蒼は思い切り頬を叩いた。
「そうだね! 誠心誠意、浄錬するだけだもんね! みんな、ありがとう!」
意思がないはずの茶葉たちも、淡く身を光らせ蒼の言葉に答えたかのようだ。
蒼は袖を捲くり、大げさに腕を回して見せた。勢いが良すぎて、危うく麒淵を吹き飛ばしそうになったのはご愛嬌。
麒淵もただ呆れたように、頬を緩ませただけで、特に抗議の声もあげない。
が、ふぃに思い出したように。麒淵が手を打った。
「さて。魔道府提出の溜りの状況報告書は書けたのかのう?」
「あっ……」
気が緩んだところだったからか。思わず、馬鹿正直な声が出てしまい、ちらともなく、思い切り顔の筋肉がひきつっていく。
「蒼、あれ程日ごろの積み重ねの観察が大事じゃと言っておろうに!」
麒淵は、今しがたまで己が腰掛けていたアゥマの測定器を猛烈な勢いで叩きだした。皿上の置時計に似たそれは、麒淵が衝撃を与える度に身を大きく揺らした。
アゥマを集めやすいようにとあしらわれている鉱石に掌があたり痛くないのか。
あまりに激しい腕の振りように、蒼は麒淵に痛覚がないのも忘れ、慌てて計測器をとりあげた。
「纏め上げてないだけで、ちゃんと詳細に帖に書いてるもん!情報が多すぎて、どう纏めるか迷ってるだけ!」
「えーい!これからは、店が終わり次第、帖を持って必ず来るのじゃぞ! 晩飯前に!」
「ぎゃふん」
「なんじゃ、そりゃ。ただ情報をあまたに収集するだけではなく、それを有効なものに纏め上げるのも仕事ぞ」
「はい、麒淵先生。重々承知しております」
それが難しいのだ。
特にここ最近、アゥマも溜りも複雑な動きを見せている。果たしてそれが一過性のものなのかは、過去の文献を読み、照らし合わせなければならない。その作業がまだ途中なのだ。
麒淵が深い溜息をつく。
「蒼の作業が終わらぬと、わしが手を入れることも出来ぬであろう」
「はーい。っていうか、麒淵の記憶を辿って貰った方が、手間が省けるし正確なのではないかと」
「……人の記憶と同様じゃ。覚えておれん、いちいち」
守霊というのは、変なところで人間に近いものだと、蒼は心の中で笑った。顔に出すと麒淵が照れ隠しにお説教を始めかねない。
そもそも、勝手に人たちが溜まりを自分たちにとって有効に使えるようにと管理するようになっただ。本来であれば守霊自身に頼ることではない。協力的なだけありがたいことだ。
「わしらは母なる樹の意思に赴くまま従うだけじゃしのう、元来」
「さっき先生がおっしゃっていた事と矛盾している気がしますが」
「やかましい。あれは人と縁を持つようになってからじゃ! わしが云うのはもっともーっと、遡ってのことじゃよ!」
無駄に言い方が可愛いと思ったことは内緒にしておこう。蒼はそう思いつつも、今度は堪えられず、お腹を抱えた。弾んだ声が溜まりに響き渡った。