番外編② 蒼の恋心と幼馴染の紺樹
恋心を自覚した蒼と割と素直な紺樹が書きたくて。
蒼が青龍門の屋敷を訪れて一刻が過ぎた頃、彼女は紺樹の私室にいた。
通常であれば、蒼のような年若く未婚の女性が一人で招き入れられてよい空間ではない。
紺樹は養子とは言え、クコ皇国の筆頭貴族である青龍門本家の長子であり、実力主義の魔道府で二十半ばの若さで次席副長になった男だ。十年前に青龍門本家の実子である次男が誕生してからは後継者の最有力候補からは外れたものの、容姿端麗・眉目秀麗な彼はただでさえモテる。各貴族や溜まりは紺樹の婿入りを狙って画策している、というのが現状だ。
当然のことながら、屋敷どころか魔道府にさえ見合いの写真が大量に届く日々。本人は全く興味がないながらも、内政や外交などのために一通り写真に目は通しているようだが。
話は戻る。
前述の事実があるとはいえ、二人の関係を知る屋敷中の住人にとっては、蒼が紺樹に手を引かれて私室に向かうのは日常の光景なのだ。むしろ、蒼が修行から戻ってきてから一切屋敷を訪れなかったことに、一同が肝を冷やしていたくらい。
「あらあらあらー。おばばは引退前に懐かしい光景に遭遇できて、感無量でございますわぁ」
「はいはい、えぇえぇ。わたくしも蒼ちゃんをこの廊下で見れるのが嬉しゅうございます」
すれ違う使用人に似たような呟きを零され、蒼は余計に居たたまれなくなってしまった。見守る使用人たちはニマニマと音がつきそうな微笑みを浮かべているのだから。
そして、それを気にしていたのは蒼だけだったのは、付け加える必要はないだろう。
「はぁぁ、もう紺君ってば! お屋敷に呼ばれただけでも冷や汗ものなのに、私室に呼ぶなんて寿命が二十年位は縮んだ気がするよぉ」
蒼は大きく息を吐いて長椅子に身を沈めた。ふわふわの毛で作られた長椅子は良い匂いがして、蒼から憂いを抜こうとする。
実際、金木犀の香りに蒼が棘を抜かれそうになった直後、紺樹の静かな声が零れた。
「随分と現実的な数字ですね」
ぐでーんと伸びる蒼の横に腰かけた紺樹。大きな手が、軽く蒼の髪を滑る。
蒼は軽く紺樹の手を避けながら、唇を尖らせる。
「言っておくけど、紺君に実感して欲しくて設定した年数だからね――って、紺君ってば、近いし」
「いつもと同じ距離だし、ここにそれを咎める人は誰もいないが? まぁ口を出してくる奴がいたら、許さないけど」
紺樹は今の距離感を肯定する。というか、己の行動を全肯定であるし、さいげなく物騒だ。
蒼にとってはそれだけでも心臓が飛び出そうになるのに、紺樹は気にも留めずに顔を覗き込んでくるではないか。
堪らず蒼は口元を覆って、顔を背ける。そして、長い溜息どころか瞼も落ちてしまう。女として扱われていないのだと思って、つい拗ねてしまうのだ。
(本来ならまた昔と同じ関係に戻れたって感謝しなきゃなのに)
蒼は厄介だと思わざるを得ない。恋心なんて、と。こんなものを自覚しなければ、普通の蒼でいられたのだ。
自分を責めても消える気持ちでないのもわかっているので、蒼は極めて冷静に紺樹の額を弾いた。
「あのねぇ。ただでさえ紺君の私室にいるって重大性を分かってない訳ありませんよね? 適切な距離感を保ってくださいな。十歳年上の紺兄ちゃん」
蒼が腰を後ろに引いても、紺樹がさりげなく距離を詰めてくる。蒼の『兄ちゃん』発言に眉を下げるものだから、蒼はぐぬっと唸ってしまうのだ。
しかも、いつもの腹黒い微笑みはなりをひそめ、普通の笑顔なのだから殊更だ。
(うぅ! めちゃくちゃ貴重な、紺君のふつーなかっこいい笑顔っ! 副長として笑ってるのも嫌いじゃなくても、やっぱり最初に好きになった紺君の笑顔は、ぎゅうってなる!)
恋心を自覚した蒼にとっては、前のように落ち着く要素ではなくなってしまった、純粋な紺樹としての笑顔。安心よりも苦しい動悸を誘う、良くわからないもの。
『好き』の分類が変わるだけで、ここまで感じる熱が変わるのかと混乱してしまう蒼。
されとて、告白するなんて発想を持たない蒼にできるのは、甘い幼馴染の紺樹にいつも通り苦言を呈する蒼になることだけだ。
「だから、何が言いたいかって言うと、つまり! 歳の離れた幼馴染の言葉は意外に的を射ているんだからねっ! 紺く――」
蒼が目を瞑って抗議で腕をあげた直後、
「あの事件について」
紺樹が先ほどまでの笑顔を引っ込めて重い調子で口を開いた。
瞼をあげた先にいた紺樹があまりにも弱々しい眼差しをしていたので、蒼は大人しく姿勢を正してしまう。珍しく、紺樹はそんな蒼をからかうことなく頭を下げた。
「まだ色々消化しきれていない気持ちもあるでしょうに……。そんな中、両親の対応をしてくださりありがとうございました。あと――」
言葉を切って頭を上げた紺樹。
蒼の心臓が跳ねあがる。そこにいたのは蒼が修行に出る前の、素を見せてくれていた『紺君』であり、事件を通して向き合いなおれた大人の『紺樹』だったから。
「個人的にもすまなかった。事件を解決するために、蒼を傷つけることも口にした」
気遣いより申し訳なさが勝った紺樹の声に、思わず蒼は目を見開いていた。
「うっ、えっっと、ううーん! 確かに全く動揺が残っていないかと言うと嘘になるけど! 紺君が真っすぐ向き合わせてくれたから、私も目を逸らしてきた想いを自覚して行動できたもの! 後悔だけは絶対にしてない! だから大丈夫!」
蒼はまるで踊るように手や体を動かす。声だって変な音程だ。
「蒼がそう言ってくれるのを知っていて、俺は行動した。つまり、俺は任務のためにそれまでの蒼と……心葉堂のみんなと積み重ねてきた時間を利用したんだ」
平素の紺樹なら、蒼の面白い挙動に甘い言葉を混ぜて和む雰囲気に持っていく。
けれど、今は両手を躍らせ続ける蒼の前で、紺樹は微動だにせず腰を折ったままだ。
蒼はなんとなく、嫌だと思った。まるで、修行から戻って再会した時の紺樹のようで、また距離をとられるのではないかと怖くなったのかもしれない。
「紺君、お願いだから体を起こしてよ。有効だったってことは、つまり、私たちと紺君との間に確かに積み重ねられてきた時間があるってことだよね? って、紺君がそう言ってたね!」
混乱のまま、蒼は紺樹の頭を抱きかかえたり背を叩いたりした。
それでも――いくら抱きしめても紺樹は蒼に頭を垂れたままだ。いつもなら『ご褒美をありがとう』とでも笑って背中ごと抱きしめてきそうなものを。
ふと思い立って、蒼は少し体を引いて紺樹の頬に手を当ててみた。すると不思議なことに紺樹は顔をあげてくれたのだ。
「あっ、あのね。私、久しぶりに、お二人にお茶が淹れられて楽しかった。だから、それでちゃらね」
ややあって、静かに零したのは蒼だ。
「――蒼の物事に対する価値観の付け方を疑った方が良いのかな?」
「いやいや。自分が納得している体験なんだから、むしろ私的にはちゃらにする要因として持ってくるのも違うって思ってるんだけども? 逆にごめん的な?」
とは言ったが、蒼は「でも、そうなのかな」とか「私って、世間の常識とずれてるお茶バカだし」など、紺樹の頬を揉みながら悩み始めてしまう。
うんうんと唸りながら、それでも紺樹の肌をいじりたおす蒼はまるで出会ったばかりの六歳児に戻ったようで、紺樹はふっと息を吹いてしまった。
「蒼、なんで君が謝る方向になってるんだよ」
「だって、いや、ううん」
蒼があまりに大きく頭を振るものだから、くらりときてしまったようだ。
それを紺樹がさりげなく受け止める。
「うん、俺もおかげで冷静というか通常運転に戻れたよ」
紺樹の顔にはいつもの笑顔が貼り付けられている。
蒼はなんとなく「だから、近いんだってば」と両手を伸ばして、また距離をとってしまった。
「どっちの俺でも嫌がられるなんて悲しいなぁ。いや、悲しいですか? の方が、私らしいですかね?」
紺樹のわざとらしさは感じていたが、蒼は勢いよく立ち上がる。
「えっと! これは拒否の姿勢ではなく!」
「わかってるよ。まぁ、距離をとられたのは寂しいのは事実だけどな」
「きょっ距離をとったのは紺君が悪いわけじゃなくって、私の問題で」
おずっと顔をあげた先にいたのは、やたらと甘い笑みを浮かべた紺樹だった。
「うん。知っている」
拒否の姿勢で傷つけたのではと後ろめたさがある蒼とは別に、紺樹はわずかに瞳を潤ませて笑っている。
視線があまりにも蕩けているものだから、蒼は余計に居たたまれなくなってしまう。両腕を愉快な調子で躍らせた数秒後、紺樹とは反対側に蹲ることで呼吸を整えられた。
「蒼、悪かったよ。俺が悪ふざけをしすぎた。こっちを向いてくれ」
砕けた口調の紺樹は、正直なところ逆効果だ。蒼はそう思いながらも深呼吸をして、長椅子にかけなおした。それでも、顔をあわせられないのが現実だ。
せめて紺樹が髪を撫でるのを止めてくれればと思うのだけれど、あまりの心地よさに蒼が申し出ることは敵わない。紺樹の手が蒼の髪を滑る度、彼女の顔は沈んでいく。
「おじさまもおばさまも」
蒼はそう零すと、紺樹がようやく蒼に触れることを止めた。
紺樹が居住まいをただして向き合ってくれたのだと、蒼も気配で感じることができた。
「前と同じように接してくださって嬉しかった。えっと、ありがとう」
「うん。こちらこそ、ありがとうと思うよ」
紺樹の言葉に、蒼はすぐさま音を立てて顔をあげる。
「えっとね、深い意味は――はなくはないけど」
言い訳を口にしようとして、紺樹に偽りは通じないと自分で気が付いたのか。蒼の声は尻すぼみになっていった。
華憐堂の事件以降、心葉堂も蒼も決して営業妨害や嫌がらせを受けているわけではない。
冷たい態度、それに実名が明らかになっていないにしても攻撃的な貼り紙や噂話を信じたと、当時のことを謝ってきてくれた人も多い。
ただ事実として、蒼が事件解決の中心人物であり、事件後に丹茶浄錬の能力が戻ったということはある。
それだけで、新たな噂が広がり、興味本位だけではなく畏怖の目が向けられるのは想像に難くない。
「『私』も当事者ですから、状況は理解していますよ。それでなくとも、紅から細心の注意を払えと釘を刺されていますから」
紺樹の口調から、魔道府側の人間として話しているのだと蒼は理解して、居住まいを正す。
紺樹を見上げる蒼の目に縋る色はない。
紺樹にはわかっている。彼女が心配しているのは自分についてではなく、紅に危惧させてしまったのと紺樹への申し訳なさだ。
「蒼は、本当に芯が通っているな」
蒼は決して自分をないがしろにしているのではない。ただ、自分より優先する人たちを決めているだけ。人を優先したうえで、その人たちが悲しまないように自分にも気を回す。
それでも。理解していても、紺樹としては縋るまではいかなくとも寄りかかってくれる位はして欲しいと思わざるを得ない。
「けれども。負担をかけているなんて思われていたら、心外だからな?」
蒼は堪らず身を竦めて「うっうぇい!」と愉快な声を上げた。
というのも、横に座る紺樹が蒼に遠慮なしに寄りかかってきたのに加え、髪に顔を埋めて息を吐いたからだ。そして、蒼の薫りを吸い込むように胸を膨らませた。
蒼としては、ひっきりなしに杯に口をつけることで、動揺を誤魔化そうとする。ほんのわずかに、紺樹に寄りかかった状態で。
(あまりにも――こんなにも可愛い反応をされると、踏み込めない)
とは、紺樹の心情である。
蒼が一番という姿勢は変わらなくとも、それなりに人生経験がある紺樹だ。一気に詰め寄りたいと思いつつ、ある程度は冷静に状況を見ることができる分、どうしても抑止がかかってしまう。
「話は変わるが」
紺樹の一言に、蒼が体を起こす。
紺樹は残念に思いながらも、自分も背を正す。それでも大きな瞳を真っすぐ向けてくる蒼が愛しくて、額を突いていた。
「うちの両親は昔から蒼が大好きだからな。弟が帰ってきたら、丹茶の浄錬依頼どころか訪問依頼が増えそうで今から頭が痛い」
「それは任せてよ! いくらでも頑張っちゃう! 世間の目より、大事な人の健康の方が大事だもん!」
「それじゃあ、ご褒美に淹れようと思っていたココアを準備しようか」
「やった!」
蒼の即答にふはっと噴き出してしまう紺樹。
それは愛らしいという気持ちからだったのだが、笑われた蒼は子どもっぽかったという自覚があるので、そっぽを向いてしまう。
それでも、紺樹が立ちあがり手際よく手を動かすうちに空気に漂う甘さに心が浮きだってしまうのだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう! お茶とは違ったもったりとした甘さがすでに美味しい!」
蒼がくんっと鼻を鳴らす。
ココアと呼ばれる異国の飲み物が差し出され、蒼は素直に杯を受け取った。手元から鼻腔に広がる甘さに頬が緩む。
「はぁー、甘さがしみるぅ。お菓子を飲んでるみたいだ」
蕩けた笑みで身体を揺らす蒼。それはアゥマと接している時と同じものだから、紺樹はココアより甘い微笑みを浮かべてしまう。
蒼がココアを堪能する中、己の顔の緩みを自覚した紺樹が口を押えた。ココアに夢中な蒼は一切気が付いていないものの、とんでもなくうっとりしていたのはわかった。
(これ以上はまずいな。俺の身がもたない)
そうして紺樹は六秒間黙った後、
「ともかく。これに懲りずにまた屋敷に来てくれ。蒼としても茶師としても」
蒼のこめかみを撫でた。
蒼は満面の笑みを紺樹に向ける。
「もちろんだよ。蒼としても心葉堂としても大歓迎!」
「ありがたいよ。お茶はもちろんのこと、二人とも蒼と話すのが楽しいようだから」
とは言っても、しゃべっていたのはほとんど紺樹と彼の母だ。寡黙な紺樹の父が零した言葉は『元気そうだな』とか『相変わらず、茶がうまい』、『あれ以来――その、なにか困ったことはないか?』といった短文の数回だけだった。
端的な代わりに、時折零すとても優しい微笑みや雰囲気は言葉よりも彼の心情を雄弁に語っていたのだが。最後など、袖を合わせてソワソワと『次はいつ来られるのか決めておきたい。こちらの予定もあるからな』などと確約をとろうとしていた。
「実の娘になってくれたら、もっと嬉しいと思うが?」
紺樹が、蒼に微笑みかけてくる。蒼は思わず、一気に流れ込んだココアの熱で喉をやけどしそうになる。
紺樹はからかいの色を浮かべているので、蒼にもただの冗談だとはわかった。けれど、最近、一部屋を埋め尽くすほど送られてくるお見合い写真のせいもあって、つい真剣に「あのねぇ」などと溜息を吐いてしまうのだ。
「私は心葉堂の茶師だから、青龍門には入れないのは知ってるでしょうに」
「おや、蒼にしては随分と遠回しな断り方だな。『お嫁さん』と直接表現すべきだったかな?」
蒼は頬がぼんっと熱を持つのを自覚しつつ、せめてもの抵抗と瞼を落とす。ぱくぱくと動く唇さえ、真っ赤に染めながら。
紺樹は楽し気に喉を鳴らした。
この後、盛大にむくれた蒼が「ごちそうさまでした!」と帰り支度をする横で、紺樹が至極満足げに「明日は俺が心葉堂に会いに行くよ」と腕を組むものだから。蒼は存分に唸った数秒後、「ご来店お待ちしております!」と頬を膨らませて身を翻したのだ。
当然、心葉堂まで紺樹のお見送り付きだったのは言うまでもない。
それが蒼と紺樹の日常。