第8話② 華憐堂の黄茶は、甘い香りとわずかな刺激がある。
「香りだけでもわかります。これほどの精度の黄茶を大量に店頭に並ばせられるとはーーさすが、あの《《後見人》》がつくだけはありますね」
紺樹の言葉の静かな声が空気を揺らした。紺樹とて――いや、明日にはクコ皇国の殆どのものが抱くだろう驚き。
静かな空気と黄茶の香りに眠気を誘われ、一瞬うとっとしかけた蒼は瞼を擦りながら顔をあげた。
「それはお褒めの言葉として受け取って良いのかしら?」
萌黄はふんわりと微笑んだ。妙な迫がある、と蒼は思った。
茶葉に限らないが、この世界は古代文明では個であった風習・文化が交じり合っている。滅んでしまったものもあれば、形を変え息づいているものもあるし、形を崩さずに残っているものも存在する。
茶葉に関して言えば、古代文明の形態がほぼそのまま受け継がれていると言えるが、やはり作り上げる過程には、未だにアゥマを注ぐ『浄錬』が不可欠となる。
そして、同じくアゥマを含んだ(極限まで薄められてはいるが)湯を使用する。いわば『二重の浄錬』を経ることが必要なのだ。
薬となる丹茶は、さらにこの後、本人のアゥマを解析しながら個人に合わせて浄練しなければならない。
「茶葉を直接口に出来るほどまでに練るのは、相当なアゥマの制御と繊細な技術が欠かせない。いや、職人の能力だけではないですね。いかに純度の高い溜まりと守霊も万能ではない」
語調は温順で、事実だけを述べているように見える紺樹。いつもとなんら変わりない、物腰やわらかな様子。
ただ、その内容が言わんとしていること、それは誰もが当然考えることだったが、萌黄にとって、いや、華憐堂にとっては気持ちのよい言葉ではないだろう。
「おっしゃっている意味が良くわかりませんわ。事実を返すのであれば、ただ、わが店では《《この国》》の『常識』を覆す浄錬方法を実践できております」
「こっ紺君?」
確かに紺樹が口にしたことは、間違いなく蒼の中にもあった疑念だ。
けれど、単純に萌黄の言うように『常識を覆す方法』があるのかもしれないのだ。
「ほら、今まで見つからなかった街中の溜まりだしね。考えようによっては、建国時に要を担っていた溜まりが時代と共に忘れられたとも想像できちゃったり!」
蒼とて本気でその発想を語っているつもりもないし、紺樹にしても相手の領域でこんなにも敵意を向けるなど彼らしくもない。ただ、己の驚愕など羽根をつけて勢いよく遠くへ飛んで行ってしまった。
蒼が紺樹の腕をひっぱると、当の本人はけろりとして、
「あぁ、すみません。勘違いさせてしまったようで」
と頭を掻いてみせた。蒼の全身から力が抜けていく。
「はいっ?」
素っ頓狂な声が部屋に響いた。やけに、間抜けに木霊している気さえした。萌黄も、蒼に負けない間抜けな表情で唖然としている。
そんな二人を余所に、紺樹は涼やかな笑顔で手を左右へ振っている。
「お二人が思っているような意味ではありませんよ。いやはや。実はあわよくばと思いまして」
何があわよくば、なのだろう。実はとんでもなく空気が読めないんじゃないだろうか、この完璧に見える幼馴染みは。
気抜けしてしまった蒼は、冷めた目で隣の幼馴染を睨み据えた。心配した自分が馬鹿みたいじゃないか。蒼は掴んでいた指に力を込めた。紺樹が口元をひきつらせる。
「痛い、痛い。蒼、ちょっと本気で抓っていませんか?」
「本気もほんき、大マジな上に全身全霊の力をこめてます。っていうか、千切れてしまえ!」
「すみません。いやぁ、誤解されやすい性質で困ったものです」
「紺君、魔道陣、魔錬まれんしてもいい?」
脳内の血管が大騒ぎしているのを必死におさめようと、努力しているのに。なぜ神経を逆撫でする台詞を吐くのか。わざととしか思えない。
「つまり……」
蒼が紺樹をつねり続けている様子を、口を開けて見ていた萌黄がぽつりと声を零す。
「つまり、華憐堂さんには魔道府や宮のお偉いさん方も出入りしているとのことでしたので。今後とも宜しくして頂ければと」
紺樹の言葉で険悪な雰囲気が払拭されたことに胸を撫で下ろすのと同時、入れ替わりに場を取り巻いた空気に、蒼は居心地が悪くなっていった。
反対に萌黄の顔は、ぱぁっと音を立てて輝いた。
「わたくし、てっきり紺樹さんが弊店の茶師と溜りに疑惑をお持ちになっているかとばかり。早とちりでお恥ずかしいですわ」
「まさか。仮にも宮のお墨付きの溜りにけちをつけるなど。私のような若輩者には」
一見和やかに見える場に満ちているのは、皮一枚めくると火傷してしまいそうな感情。
それに……。
(それに、紺君、変)
紺樹は異例とも言えるほど若くして魔道府副長の立場にあるが、飛びぬけて野心家というわけでもない。今の地位に就いているのは、とある事件でとんでもない功績をあげた結果だ。
むしろ目をつけられないようにと、のらりくらいと仕事をするようになってしまった位だ。裏ではきちんと仕事をこなしていることを、周囲の人間は知っているが。
そんな彼が上との繋がりを持ちたいので宜しくね、などと言うだろうか。
(それとも、私が紺君のそういう所を知らないだけ? でも、さっき心葉堂では華憐堂さんのやり方に怒ってたのに)
わからない。
思わぬ落ち込み要素を発見してしまい、途端に蒼は憂鬱に覆われてしまった。
なるべく表に出さないようにと、溢れてきそうな感情を飲み込むため、飲み頃になった黄茶の硝子杯に手を伸ばす。
「おや、どうしました? 蒼、顔が暗いですよ」
紺樹が顔を覗き込んできたのが気配でわかる。前髪が瞳にかかってそう見えていると思ったのか、前髪にふわりと彼の指が触れた。一瞬だけ、触れた額が熱を持った気がした。
「暗いんじゃなくて、紺君のすっとぼけ具合に呆れてるの!」
「それは良かったです」
「もう! お茶が冷めるから頂こうよ」
浮いている葉に一息吹きかけると、大人しく沈んでいく。小さな葉の欠片が残り、迷子のように水面を踊った。
正直、これを口に含むのは勇気がいる。
(華憐堂の浄錬の技術を疑っているわけじゃないけど、幾らこの時代でも葉を体内に入れることには抵抗があるなぁ。心葉堂のなら全然試し噛みもできるけど)
アゥマの純度が高ければ高いほど茶は旨味を増す。それと同意義に、純度の高いものを直接口にすることはアゥマ使いとて危険なことには変わりない。
「どうされました?」
蒼がためらっていると、不思議そうな萌黄の声が耳に届いた。
急かしているものではなく、躊躇ったことに怒っているのでもない。純粋に疑問を持っているという声だ。
「うん、綺麗だなって思って。香りも素敵だし。呑むのが勿体ないかも」
「あら、まだまだありますのよ?」
「ありがとう、頂きます」
こくん、と。
呑んだ瞬間、鼻腔に甘い香りが抜けた。と、ふいにぴりりと喉と額が痛む。しかし、それも茶が喉を通り過ぎる頃にはなくなった。二口目では額の痛みはなく、喉への刺激のみだった。それも、甘い香りとわずかな刺激が合わさって、妙に癖になるようで。
「すっごく美味しい!」
「茶師の方にそうおっしゃって頂くと、明日からの販売の自信になりますわ」
「蒼は若くても腕のいい職人ですからね」
蒼の様子に頬を緩ませていた紺樹も、硝子杯を口元へと運んだ。「本当に、癖になりそうですね」と目を細める紺樹。
ふと、蒼は萌黄の前には杯が置かれていないことに気がつく。
「萌黄さんは飲まないの?」
蒼の疑問を受け、萌黄は少し困ったように笑った。垂れてきた顔横の髪を耳にかけながら。
「わたくしは商品に手をつけられませんわ。といいますか、実はまだ絶賛浄錬中ですので、今日は特別に拝借してきましたの」
「そうなの? これ一緒に飲まない?」
「お気持ちだけ。わたくしはお2人に喜んで頂けるほうが嬉しいので」
「そうですか。ではお言葉に甘えて、と言いたい所ですが」
蒼が三口目を口にしたところで、紺樹の手が椅子にかけられた。
一緒に飲み込んだ葉で感じた甘い痺れ。それが強くなる。
不思議なことに、こくんと喉から落ちていく葉が体の中をどう流れていくかが手に取るようにわかった。
「蒼」
ぼうっとした蒼の額を、とんと突いてきたのは紺樹だった。节奏に何度か指が跳ねて、ようやく蒼の焦点が紺樹を捉えた。
「ん? 何、紺君」
「お茶が美味しくてうっとりとしてしまう気持ちはわかりますが……そろそろお使いに行かないと、また紅の雷が落ちるかもしれませんね」
「わわっ! そうだった!」
すっかり忘れていた。蒼は茶葉のこととなると周囲が見えなくなってしまう。気をつけようとしていても、なおらない癖だ。
紅の眉間の皺を容易に想像でき、顔が青ざめていくのが蒼自身わかった。紺樹が腰元からあげて見せた懐中時計の針の位置に、嫌な汗が背中を流れていった。
「今日はただでさえ苛立ってたのに!」
机を揺らす勢いで立ち上がった拍子に、硝子杯が倒れそうになり、慌てて両の手で包み込んだ。零してしまったら、お茶が可愛そう。
行儀が悪いとは思いながら、残すよりはと一気に飲み干すと、紺樹が呆れ顔で「行儀が悪いですよ」と人さし指を立てたが、そ知らぬ顔で萌黄に顔を向けた。
言い訳をする時間さえ、紅の堪忍袋を膨らませている錯覚に陥るのだ。
「萌黄さん、ご馳走様でした! すっごく素敵なお茶淹れくれてありがとう! 慌しくてごめんなさい、お邪魔しました」
「あら、もう行ってしまわれるのですか? 残念ですが、今度はぜひ心葉堂さんへお邪魔させて下さいましね?」
萌黄は心底残念だと言わんばかりに肩を落とす。
そんな萌黄の様子を受けて、蒼は大きく頷いた。その拍子に両側のお団子から流れている長い髪が弾んだ。
「うん! また、どうぞ! 紺君もまたね」
「はい。急ぎすぎて転ばないようにして下さいね。そうなった時の方が、何をしていたか紅に言及されかねませんから」
紺樹の言葉は、決して大げさなものではない。
過保護な兄は、以前雨の日に足を滑らせた蒼が、茶瓶をかばって盛大に崖から落ち、擦り傷どころかざっくりと膝を切った際、職人根性を出した蒼を褒めるどころか叱ってきたことがあった。
蒼としては至極当然の行動だったのだが……「紅は茶瓶が大切だと思わない? これってば、浄丹茶だし」と拗ねると「お前の方が大事に決まってんだろ!」と恥ずかしげもなく、言ってのけた。
「さすが紅さん。家族思いでいらっしゃるのね」
「ははっ。妹思いというか、過保護というか」
父方の家とは疎遠ーーそもそも親類誰一人とも会ったことがない。それどころか詳細も教えて貰ったことがないのだ。
だからだろう。両親が亡くなってから、紅は保護者代わりの意識がより強くなっり、特に心配性の度合いが増している。祖父よりも保護者らしい兄が腕を組んで仁王立ちしている姿が容易に想像出来て、蒼の頬は強ばっていった。
「気をつけます」
ともかく、普段穏やかな人間ほど本気で怒ると怖い。紅は間違いなくソノ部類の人間だ。
身震いをひとつして。蒼は足を喧騒のある方へと向けた。すると、萌黄の声が背中に掛けられた。
「蒼さん」
「はい?」
振り返ると、綺麗に微笑んでいる萌黄がいた。やはり、妙な迫力がある笑顔だと、蒼には感じられた。
「紅さんにどうか今日わたくしが茶葉をお届けに行かれなかった理由、ご説明くださいましね」
紅のことを考えているからだろうか。上気して赤みを帯びている萌黄の頬。
「あっ、はい。カシコマリマシタ」
その愛らしい頬が、麗しい形を保ったままずれてどこか悲しげに歪んだように見えたのは……きっと。そう、きっと。焦りからの見間違いだったのだろう。急に立ち上がったからか、くらりとめまいが起きた。
(変だな。上質な浄練を施された茶を飲んだのに。強すぎたのかな。最後の調整が残っているのかもしれない)
店内の賑やかな声が、考えをまるごと押し流してくれるように願って。蒼は、ただ前を見て歩いた。