第116話 最後の願い3―おかあさん―
地面に叩きつけられた体を起こした紺樹。岩肌で擦ったであろう左頬には擦過傷が出来ている。すぐさま立ち上がり、血を飛ばす勢いで口元を拭った。そして、呼吸を荒くしている紅に真っすぐと向き直る。
紅は痛む拳をさらに握りしめる。血管を浮かび上がらせているソコは震えっぱなしだ。甘んじて拳を受けられた事実は、紅のさらなる怒り誘う。
「そうやって、甘んじて人の感情を受け止めるなよ! 無言を貫いて、相手に判断を委ねるのやめろよなっ!」
いくら紅が幼い頃から白龍に武術を叩きこまれているとはいえ、両親が亡くなってからは店の切り盛りに手一杯で朝夕の簡単な鍛錬のみだ。人も異形も相手にする現役の魔道府次席副長――しかも、武道府の人間にも負けない紺樹が紅の拳をまともに受けるなどあり得ない。
紅は理解しているから、やるせなくなる。
「紅の中で答えが出ているのであれば、確認をとる必要はありませんよ」
「なっ‼」
紅は呆然として、その数秒後に大きな歯ぎしりを鳴らした。
岩を砕いて踏みでた紅を、翡翠双子が両側から抱き留めた。それでも紺樹に殴りかかろうとする紅の前に進み出たのは、長官だった。
「紅が激怒するのも当然なのですよ。紺樹がわざと突き放すような言い方を選んでいるのも承知しています。けれど」
「長官、余計なことは言わないでください」
紺樹は地面に血を吐きながら、いつもの調子で上司を制した。それでも、童顔で飄々としている紺樹が惜しげもなく負の感情を放っているのは稀だ。
そんな紺樹に向かって長官はにこりと笑った。幼女の姿に似つかわしく、とても可憐に。
「うっせぇよ」
直後、血の気が引いた者が何人いただろうか。
「やかましい奴ら、全員黙れなのですぅ。私情は事件後にやれなのですよぉ。大事なのは蒼が『何を聞いた』か。それがわからないダメダメな子たちばかりなのですかねぇ」
子どもそのものの笑みはひどく愛らしいのに、声はやけにドスがきいて圧迫感が半端なかった。小さな体を包むだぼっとした外套も、両側で括られている桃色の髪も、ぱっちりとした瞳も、舌ったらずな甘い声もいつも通り。
それなのに、居合わせている全員が身震いするほどの圧迫感に一同の喉が鳴る。
長官は笑みを深めて、
「では、蒼。続きをお願いしますのですー」
と軽やかに飛び跳ねて白龍の隣に戻った。
戸惑ったのは蒼だ。蒼が理解しているのは、紅が自分のために怒って、紺樹が何かを誤魔化すためにわざと紅を怒らせる言い方をしたという事実。色々考えた挙句、蒼は両掌を打ち付けた。
「そうですね! 面倒くさい男二人は置いておきましょう!」
蒼が堂々と宣言すれば、その男二人は少なからずショックを受けたようだ。がんっと、人の耳には聞こえない音を鳴らして青ざめた。
紅もだが、日ごろ感情を隠すのに長けている紺樹までもが先ほどまでの仮面を外した。本来の性格がわずかに垣間見えた気がして、蒼は思わず「へへっ」と頬を緩めてしまう。
「紅と紺君。どっちも私を想ってくれた結果の行動なのはわかってる。だから、今はそれで充分だもの!」
「蒼……」
「だから、この件が終わったらいっぱい喧嘩しようね!」
「――うん?」
「その時は私も参戦して攻撃魔道ぶっぱなすからよろしく」
蒼は右拳を突き出し、しれっと笑った。あははっと笑い声をあげているが目は笑っていない。蒼にしては至極珍しい様子だ。
女性陣に弱い二人は両手をあげて頷いてしまう。けれど、紅はちゃっかり紺樹の脛を軽く蹴った。「オレとあんたは同級じゃないからな」と睨みながら。
「あはっ。っ、けほっ」
置いてけぼりにされたにも関わらず、萌黄は思わず噴き出してしまった。そして、思った。この人たちともっと早く出会えていたらと。それと同時に頭を振る自分がいることも、わかる。
(今が『この時期』『こんな出会い方』『こんな終わり』だからこそ、わたくし自身がそう思えたのよね。だって――きっと薄れた記憶の中にもいた。この方たちまでとは言わなくとも、程度は違っても、わたくしたちに心を寄せてくださった人たちは)
咳き込みながらも優しい笑みを零す萌黄。穏やかな笑みには、確かに後悔も滲んでいた。
萌黄の前で膝をついた蒼は、彼女の心ごと射抜くような眼を光らせた。
「私は確信があるの。萌黄さん、私はこの子の心がはっきりと聞こえている」
「心ですの?」
「うん。この子はずっと萌黄さんに向かって呼びかけ続けている。私にだけなら、いくらアゥマ馬鹿な私でもいつもなら幻聴かなって考えたと思うの。でも、違う。この子はずっとずっと萌黄さんに目に見えない手を伸ばしているんだもの」
蒼が、ふよふよとまるで迷子のように彷徨っている光を両手で包み込む。その手を萌黄の前にそっと差し出す。
「おかあさん、おかあさんって」
蒼に「こっちね」と正面を向かせてもらうと、光は『見つけた! はなれないでよ!』と言わんばかりにぴょんと跳ねて萌黄の頬にぶつかりだした。
下から頬をぐいぐいとあげる手のようだと、蒼は思った。
「最初はあまりに声が小さくて気のせいかなって思ったんだ。今は涙声みたいってのもわかるくらい、はっきりと届いているの」
萌黄は、何度も交互の頬にぶつかってくる感触に覚えがあった。飛び込んだのは原型である萌黄の記憶の海。記憶の道を駆けるように、ある記憶へと辿り着く。
滲み込んでくるみたいな温度の記憶が集まる、静かで目立たない場所。
(わたくしが――妊娠中に萌黄が健康で優秀な後継ぎを生めるだろうかと滅入っている時に、サンシシが両手で頬をぐいぐいとあげてきて)
萌黄が外側へ意識を向けると、途端に瞳が燃えだしそうな熱を感じた。
「うん。たぶん萌黄さんが考えている通りだよ。『おかあさん、笑って。ボクがねむってた、おなかにいるときみたいにさっ!』って、萌黄さんに話しかけてる」
萌黄は言葉を失った。
蹲る前に見えた土気色の顔に、絶望感は塗りたくられていない。萌黄が浮かべているのは、驚きと本人さえ得たいがしれないと感じる喜び。加えて、ほんのわずかな戸惑い。
静かに丸まっていく華奢な背中に、蒼はおずっと掌を重ねることしかできない。萌黄の手から抜けてきた光は、蒼の手の甲で激しく跳ねる。
「えっと。『おかあさん、おどろかせちゃった。ごめんねっ』だって。『おねえちゃんの、手、あったかいもんね。しみしみになれー!』、って私の手を押してるよ? しみしみって可愛いね」
背中沁み込んでくる二重の温度に、萌黄はかつて同じように触れてくれた手を思い出す。
――不安もあるだろうけれど……。お母さんが笑ってるのが腹の子のためになると、僕は思うな? だから、この子のために重圧を感じるのではなく、この子の希望に満ちた明日のために笑ってよ――
怯えるように震えだした萌黄。すると、光は頭の上で跳ね始める。
叩くという調子よりは、小さな手が不器用に撫でていると思えるから不思議だ。そう、誰ともなく考えていた。
「あっあぁぁ、あぁっ、あぁぁぁっ」
萌黄は空になった指で砂利を握る。どうして今になって思い出したのか。あの時、サンシシはどんなつもりで『明日のため』などと口に出来たのか。色んなものが全部、望んだ『刻』と再現するため。どうせ贄でしかなかったのに、と萌黄はサンシシに砂利を投げつけたくて堪らない。
(身代わりのアゥマとしては憎らしいのに、それでも、萌黄としての自分はここまで来ても愛しさが込み上げてきてどうすれば良いのか――!)
萌黄の嘆きと元竜胆の鳴き声が重なり、まるで唄となる。
痛烈なだけだった元竜胆の叫びが色彩豊かな和声に変化していくのに、大した時間はかからなかった。
「あっ、光が行ってしまうで⁉」
陰翡が叫んで光に飛びかかるが、するりと避けた光はきゃっきゃと笑っているようだ。そのまま、麒淵が魔道陣内に留めている元竜胆の方へと飛んでいく。
陰翡は足を滑らせるものの、しっかりと受け身を取った。
「陰翡お兄ちゃん、大丈夫だよ」
蒼は少しべそをかいて肩を竦めた。光と何か会話を交わしたのだろう。何度か目元を拭って、口元を引き締めた。
萌黄も蒼に支えられながら体を起こして、光を見送っている。
「だれよりも竜胆様に寄り添える子だもの。ねぇ、麒淵!」
「あぁ、任せろ」
麒淵は元竜胆に向けていた両手を下ろし、光を受け止める。そうして彼は、蒼や紅はむろんのこと、付き合いの長い白龍さえも見たことがないような色を浮かべた。顔色が伺える距離でなくとも、わかる。
麒淵は幾度も口を動かし、最後に「おぬしは、ほんに優しい魂じゃな」と苦笑した。若い姿に目元の皺など存在しないが、白龍にはどうしてか己と同じものを麒淵が刻んでいるきがした。
*****
「そういや。おじいと黒龍先生は、あの子が萌黄さんのお腹の中にいた赤ちゃんだって知っていて連れて帰ってきたんじゃないの?」
蹲ったままの萌黄の背中や腕を撫でながら尋ねたのは蒼だった。
倒壊しかけている岩肌に防御魔道をかけていた二人は気まずそうに腕を組んだ。いや、気まずそうだったのは黒龍だけ。
「そうだな。遺跡などに残る古いアゥマが、己を使役できる人間について来ようとするのは割とある。それに、場所が場所だけにただのアゥマとは考えていなかった。しかしながら、まさかここまでの存在とはな」
「……黒龍先生、おじいは違うみたい」
顎を撫でる黒龍の隣でわざとらしく口笛を吹いた祖父に、蒼はじとっとした視線を投げつける。蒼と紅のえぐってくるような睨みを受けた白龍は、「てへっ」と舌を出した。
打ち震えたのは、白龍を尊敬する陽翠双子ではなかった。この場で誰よりも白龍を深く知る黒龍だった。長官は「相変わらずなのですねぇ。ふぅー」と珍しく深い溜息を零している。
「わしは『時欠け』の能力で、反魂の術を最後まで体験したからのぅ」
「どこまで体験できるものなの?」
「さすが蒼じゃな! いい質問だ!」
白龍の満面の笑みに、黒龍が一歩踏みでた。重い一歩だ。
さすがにやばいと感じたのか、白龍はそそくさと蒼に近づいて肩を抱いた。
「わしは亡国の偽溜まりにわずかに残っていたアゥマに共鳴して術を発動した」
「おじい。それってつまりは、そこに現存するアゥマが体験した事実は全部知り得るって意味か?」
言葉を発したのは紅だった。すっかり冷静に戻った彼は当然のごとく可能性を提示した。
一方、あんぐりと口を開いたのは翡翠双子と萌黄。加えると、蒼も自分から話を振っておいて驚いてはいる。
「常人には度し難い事実ですけれども」
紺樹が彼らの慄きを代弁する。すかさず紅がきっと睨むが、蒼も紺樹も律義だなと考えるだけ。二人の生温い空気を察した紅は、苦々しくも咳払いをするしかなかった。
一方、内容自体はとんでもない能力を暴露したのに、白龍は「わしじゃからのう!」などと至極軽く片目を閉じる有様だ。
「えーと、まとめると、おじいはあの子が萌黄さんの赤ちゃんがアゥマになった姿って理解して、連れてきたってのであってる?」
蒼は額に指を添えて尋ねれば、白龍はからからと笑い声をあげた。元竜胆が一人で奏で続けている唄にとてもあう音だ。
蒼と紅は顔を合わせて半目になるしかない。この瞬間でさえ、白龍の目論見通りなのだろと。
納得いかないのは同行していた黒龍だ。実際、白龍の胸倉を掴み上げた。
「白よっ! おぬし、無理矢理という形で巻き込んだ俺を謀ったのか!」
「えぇ? わしってば、割と黒龍にはぶっちゃけておったじゃろー? おぬしなら、当然推測しておったと思ったのにぃ」
「おじい……黒龍先生が大好きなのはわかるけど、やりすぎ。どう考えても、おじいの説明不足なのは想像に容易いよ。先生が確証を得て初めて可能性を広げる人だってわかってるくせに、わざとやったんでしょ?」
蒼はむんと両腰に手を当てて
「私も怒るよ! 大事な先生をからかいすぎるなんて!」
と怒りを露わにしている。。
呆けたのは黒龍の方だった。鼻を膨らませ白龍を諫める蒼は、彼の最愛の妹であり悪友の妻であり、短い生を選んだ強気でどこまでも強情っぱりな桃香そのものだったから。
「蒼、もう良いわ。こやつの小悪さが加齢とともに薄らいでいると油断した俺が悪い」
「えぇー。私的には、もうは『もうっ!』って方だよ。何だかんだ言って、黒龍先生はおじいに甘い! まぁ……さっき長官が言ったように、私情を持ち込んじゃいけないのはさすがに理解しているけどさ」
場を収めるつもりの黒龍の発言は、蒼の機嫌を損ねるものだったらしい。とはいえ、蒼にも先ほどの長官の苦言が響いているので高らかな批判は控える。
それでも状況を把握しながら感情を殺すことはせず、へそを曲げつつ麒淵の方を気にかけてもなお頬を膨らませている蒼。
「つながっているのだな」
「そうじゃろ。命を繋ぐということは、血脈を残すなどという限られた意味なんぞではないとわしは思う。姪っ子なのに、蒼はわしの血なんぞよりも黒龍の方が濃いよ。ある意味では、紅もな。多面的な意味で」
白龍が岩肌に背を浸けて、ははっと笑った。黒龍は沈黙を落として、白龍に並ぶ。
「蒼なんぞは、たった一年半お前と暮らしただけなのに、お前が背後霊になっていると身震いする瞬間がある」
白龍は大げさに両腕を抱いて身を震わせた。
黒龍が取れた行動と言えば、ゆっくりと瞼を閉じて空間中のアゥマに共鳴するだけ。当たり前に傍にあって、それでいて本来は異質である彼らに寄り添うことでしか、黒龍は納得せざるを得ない。
「……本来、命はこうして引き継がれていくものなのだな」
「黒龍よ。命の紡ぎ方に正解などありえるか?」
黒龍は承知している。白龍が真摯にぶつけてくる言葉など。それでも返さずにはいられない。
「白龍よ。聞くな。個の命だけを長引かせる長寿血族の長家系に生まれ、その寿命を捨ててまで現世に踏み出した妹の死を受け入れられない俺に問うてくれるな」
黒龍の言葉は元竜胆の唄に掻き消された。それでも、白龍だけは応えた。
「黒龍。だれしもが無条件で愛する人の死を受け入れるのではないよ。受け入れざるを得ないから、現実を向き合っているだけなのだ。取り戻す術がないから、悲しみを捨てるか消化するしかないのだ」
本編に入れるか迷って削除した部分を、どうしても表に出したくて活動報告にあげます。ご興味があれば覗いてくださいませ。
ちなみに、某こそこそ話ならぬ、心葉ないしょ話。蒼の母親である藍の花名はラテン語の桃を語源としているそうです。祖母が桃源郷出身の桃香ですが、実は全くの偶然でした(笑)