第111話 願いの果て4―正史のほころび―
萌黄の語りです。
「思えば、わたくしたちの誰もが『家族』という繋がりに、憧れという幻想を抱いておりました」
萌黄の口調はひどく穏やかだ。
それでも眉尻を下げてしまった蒼を捉えて、萌黄は困ったように笑った。
「幻想が示すのは『実際には存在しない』という意味ではありませんわ。わたくしたちは形にだけ囚われて、憧れを追い求めたのです」
「萌黄さん、でもそれはっ!」
「蒼さんがおっしゃろうとしている内容は想像がつきますわ。わたくしたちは努めるべき方向を違えたのです。己が変わるのではなく、状況を改革するのでもない。わたくしたちは、『やり直し』と『周囲の変化』を求めたのです」
萌黄は静かに語り始めた。始まりの一族への思いと、家族になりたかった人たちの話を。
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皆さん、当然ご存じのお話ですけれどもね。現世界の歴史は、前世界の文明力のせいで星が汚染されたことから始まりました。崩壊からの稼働が、この世界の理。
それを救ったのは、突如として現れた世界樹でした。眩い光と鳴き声をあげて生まれた聖樹は、あらゆる大地に根を広げ、龍脈を作りました。そこに命の水を沸かせる溜まりを生み出した再生の母ですわ。浄化能力を強くもつ溜まりに生まれる守霊は、聖樹の子どもと呼ばれています。
「わたくしは、会ったこともない聖樹を焦がれる守霊たちを幾度哀れに思ったでしょうか。麒淵様、あなたとて例外ではありません。だって」
いえ、話が逸れましたわね。あぁ、蒼さんってば泣きそうにならないでくださいませ。そう言っても泣いてしまうのが貴女ですわね。わたくし、紅さんを見るついでに蒼さんのことも観察していましたもの。わかりますわ。
けれど……止めることはできません。今は鏡返しだと理解していますもの。わたくしは反対の立場ですけれども、胸を裂いた程には共感できてしまうのです。それに、『会っていなくても』焦がれる気持ち、と表現するにはあまりにも気取っているのでしょう。
「わたくしが言いたいのは、どんな歴史も正史はひとつでも、想いはいくつも疑いなく存在するということです。ただ、それだけなのです。正当性が認められなくても良い。わたくしたちの思想は否定されても良い。けれど、確かにわたくしたちはあったと覚えておいて欲しい。消さないで欲しい」
顔を覆って膝をついたわたくしを誰も責めない。
「でなければ、生まれることすら叶わなかったあの子は――」
悪役としても記録に残らなければ、生れ落ちることすら叶わなかった子どもは誰にも知ってもらえない。わかっているのです。そんな子はごまんと存在することなど。
それでも、わたくしは望んでしまったのです。
「いえ、話が逸れました。戻しましょう、一族の話でしたわね」
聖樹の代理として世界を浄化した聖樹の矜持を守る一族が、いわゆる『始まりの一族』と呼ばれる人々。穢れを払う真意が薄れた近代でも、桃源郷と呼ばれる未踏の地に生きていると聞きますわ。そこにいらっしゃる、蒼さんのお師匠様である黒龍様のように。
さてさて。死に怯えた命が恐怖から解放される手段を得てからしばらくして、救世主である始まりの一族から切り離された人々がおりました。
彼らが迫害された理由は明らかでした。始まりの一族は世界を浄化した聖樹の矜持を守る一族ですわ。彼らは世界を汚染から救うことを信念としていたのですから、浄化の力を私利私欲のために利用するなど万死に値する。正しい形式にのっとり、気高い祈りを捧げ、平等に術を教える。非常に正しい正義ですわね。
わたくしに私見を述べる許可を――いえ、勝手に語っているのですから、許可も何もありませんわね。だから愚痴を零させていただきますと、彼らは真に平等だったのです。規模も状況も関係なく、等しい術を広めたのです。
実に、滑稽な程、荒唐無稽な理屈だと思いませんか? だって、地域によって汚染状態は異なりました。より強い術式が必要な場所だってあったのです。であるにも関わらず、彼らは平等という言葉の元に救った後の未来を考えなかった。自己満足に他ならないと思いませんか?
えぇ、そうですね。魔道府長官さんがおっしゃる通り、彼からは伝術を躊躇わなかった。だって、それは隠さずに教えられる範囲の術だったからですわ。加えて、後世に強すぎると判断した術を彼らは禁術としていったのです。時期はそれぞれですけれど。強い副作用があると流布して。
「あぁ、その図星の顔。衝撃を受けているのは蒼さんだけですわね。わたくしが言いたいのは、正史への嫌味ではございませんわ。責めるのであれば、権力者も民主も同罪」
確かに正統な一族の信念に縋っていたのは、救われた民衆も同じでしたわ。ただ、彼らには利用価値を見出す者はやはりいるのです。どんな状況でも、利益を優先した後、自分たちには損害が降りかからないよう裏工作を企む者たちは。
ようは商人のように己の益と取引相手の多少の益を――打算というのでしょうね、あの一族からすれば。彼らなりの正義を持って強い術を隠さず、出せる利の範囲として術を提供した一族は、ある時から迫害を受けだしたのです。彼らは聖樹よりも民衆の声に耳を傾け、彼らの中に入り、生きる命の声を聴いたのに……どの国も政情が落ち着いたら、あっさりと協力者を捨てた。
つまりは、始まりの一族よりも真に民衆に寄り添った一族は、国の指導者には良いように使い捨てられ、聖樹信仰者には蔑まれたのです。人として国に根付こうと彼を迫害したのです。
「彼らは何度捨てられても、人になることを望んだのです。だから、人から離れた自分たちの国を作らず、人が作る国に入ることに憧れたのです」
そうして、何十年か彼らは惨めな生活をしてきたものの、情勢がある程度落ち着くと大国に重宝され始めました。人間とは苦難を乗り越えると自国の(その当時は集落と呼べる集団だった)利益を最優先して動くようになる。あるいは信じる心を盾にとって国の指針とするのです。
「この中に、無償の愛を知る方がどれだけいますでしょうか?」
「萌黄さん、無償の愛なんてそう簡単に存在するもんじゃない! ここにいるのは、ソレをわかっている人たちです! それでも、オレは思います。貴女がソレを求めていることも、与えてくれる人を……守りたいからこそ、語ってくれているのも!」
あぁ、紅さん。貴方の言葉はいつだって真っすぐでわたくしの心を突く。嘘がなくって、そっけない。冷たいのに、凍えない。わたくしを無視しない貴方は、いつだってわたくしにほのかな熱をくださるのね。出会った頃から、貴方は曖昧な感覚をくれた。
ひどい人――いや、人たちだと思う。救ってくれないのに、見捨てもしない。
わずかに俯いた顔を伝った雫。自覚してしまえば、もう止まらない。自分が知る事実を語ろうと思っていた。私情を挟むなと。それでも、やっぱりわたくしはあの人を手放したくないのです。
「わたくしは、あの方を残していきたくないのですっ――!」
サンシシ様が生を受けたのは、始まりの一族の能力を利用して爵位を得ていた家だったと聞きます。ただサンシシ様は妾の子だったのです。非常に優秀だったにも関わらず、妾腹というだけで冷遇され続けた。屈辱的な仕打ちも受けた。唯一縋れる存在であるお母さまは壊れた人形のごとく、儀式にだけ呼ばれたらしいのです。
いくらサンシシ様がお母さまの膝に擦り寄っても、一方通行。彼の頭を撫でてくれる手も、荒れた小さな手を摩って慰めてくれる大きな感触も、彼は貰ったことがなかったと聞きます。ただの一度、彼が抱き着いたのを突き飛ばされたのが唯一だと。
「彼はわたくしが触れる度、それがどんなに軽くても強張って、それからわたくしと目を合わせた後、ふっと息を零して笑うのです。わたくしも同じでした。サンシシ様と会うまでは、触れてもらえることが当たり前ではありませんでしたから」
無意識で、かつて触れられた頬を柔らかく撫でていた。撫でていると気が付いたのは、顎にかさぶたのようなひっかかりを覚えたからだ。何度が爪を引っ掛けると、あっけなくめくれた。血は、滲んでこない。
自分には何の液体も溢れてこないのを良いことに、目の間で大粒の涙を転がす蒼さんに
「同情ですか?」
と嫌味を投げ告げてしまった。苦々しさがたっぷり詰め込められていたにも関わらず、彼女は、
「わかりません! わからなくって、込み上げる感情が止まらないんです! それでも、萌黄さんが不思議で不可解なら頑張って止めますっ! 見ていて気持ちが良くないってのか、わかるもの!」
と目を擦った。不思議で不可解、とは言い得て妙だと思ったのです。確かに、わたくしにとって蒼さんの態度は不可解なのです。なぜ、ここにきてまでわたくしに寄り添うのか。
それでも、過去が変わるわけではありません。だって、サンシシ様が唯一身に受ける熱は、鞭がもたらす摩擦だけでした。皮をめくられる痛みだけが、自分は幽霊ではなく存在する人間なのだと教えてくれた。
そうなのです。どうして、わたくしが彼の過去を知るか。わたくしは理解してしまいました。萌黄も理解したようです。
「蒼さん。それに他の方たちも、わたくしたちにとっては『不可解』極まりない存在なのです」
「それじゃあ、訳が分からくっても理解したくない訳じゃないよね!」
蒼さんの言葉に息が止まりました。かつて、そこまで踏み込んでくれた人がいたでしょうか。わたくしたちに。
蒼さんが多少回復しても傷がある体を引きずって歩み寄ってくださる。
「私だって、正直、最初は萌黄さんのこと苦手だった! 紅に執着しているし!」
引き下がった私の手を強引に掴みあげて、蒼さんは肩口に額をぶつけてきた。
熱くて、偽物の体が焼けるかと思った。逃げたくなったけれど、蒼さんの両手が肩を掴んで――痛いくらいに掴むから動けなかったのです。
「それでもさ、人はいくらでも変われるもの! 変わる自分を受け入れて、変わる自分を受け入れてくれる人がいれば!」
蒼のさんの想いはすごく嬉しいのです。
そっと彼女の両腕に触れると、彼女は枯らした声を絞り出したのです。本当に優しい子だと思う。これだけで私の心が伝染するのだから。
なおかつ彼女は「でもさ」と顔をあげる。暖かい牡丹色の瞳を滲ませて。
「最初はあわないなぁって思っても、嫌いだった人も! 感情を重ね合って、経験を一緒にするから! 逆もあるかもだけれど、それでも、私は大好きになるのを知っているよ!」
蒼の叫びは空間に響くだけだった。