第110話 願いの果て3―母親になりたかった女の果て―
「蒼さん。わたくしに屠られる前に、貴女には真実を知る権利がありますわね」
萌黄が光悦に零した。己を後ろから包み込むサンシシにうっそりと擦り夜。白く細い指がサンシシの頬を撫でる。その存在を確かめるように、何度も。
萌黄の反応に満足したのだろう。サンシシは深い口づけを交わして、視線を溜まりへを向けた。
「元の君に戻ったなら大丈夫だね。僕は溜まりの方を見に行くよ」
言葉の通り、サンシシは元竜胆であるゴーレムに歩み寄っていく。
サンシシが蒼たちを警戒している様子は全くない。麒淵たちを一瞥することもない。すると、そのまま溜まりに足を踏み入れたではないか。
「うそっ。いくらアゥマ使いとはいえ、守霊の力も借りずに生身の人間が溜まりに浸かれるなんてあり得ないよっ! 特に此処には守霊が存在もしないのに!」
蒼は自分の目が信じられずに声を荒げてしまった。
紅などは絶句してしまう。薄氷色の瞳にはあり得ないほどの純度を持ったアゥマがサンシシに纏わりつく、否、吸収されているのが可視化されているからだ。ただの人間が堪えうる状況ではない。
「あやつが反魂の術の軸じゃったか。可能性としては一番高かったが、まさかクコ皇国の守霊の目を誤魔化すほどの術を使役しとったとは」
麒淵の舌打ちが大きく鳴る。そして、すぐさま岩肌の天井を睨み上げた。
宙に浮いている白色と桃色の魔道玉は依然として暗いままだ。
(白龍にホーラよ、まだか……! 我がゴーレムをただ消すことも、萌黄からただ心を奪うこともさして手間ではない。しかしっ!)
麒淵は成人男性サイズの手をきつく握りしめる。温度がひどく冷えているようで、わずかな軋みを感じた。はっとなり蒼と紅に視線を向けるが、彼らが凍えている様子はない。正確には感じる余裕がないのだろう。
本来の守霊の姿に戻っており感情が薄らいではいるとはいえ、蒼や紅が常々からかうほどには、麒淵は人間臭いという感情を知ってしまっている。そして、強制的な祓いをした後に彼らが傷を持つことも想像に難くない。
(我は聖樹が生み出したアゥマと溜まりが一番大事じゃ。けれど――蒼たちの心も、守りたいと願ってしまうのだよ。だから、ただ光を奪う解決法は望まぬ。それゆえに、不安定な情勢の中で白龍と黒龍をかの地に向かわせたのだぞ。早う、持ってこぬか!)
麒淵は開いた掌を地面に打ち付ける。放たれた雷のような光が溜まりを囲むが、ソレ以上は進まない。少しだけ振り返ったサンシシ。その唇は笑みを乗せている。
(ここがアゥマたちよ。なぜ、そやつを庇うような真似をするのだ!)
麒淵の心の叫びにも溜まりは黙秘を続ける。聖樹に近いクコ皇国弐の溜まりの守霊である麒淵には沈黙の理由なんて、わかりきっている。理解しながらも、問わずにはいられない。
人ならざる存在でありながら人に近い心を持った、弐の溜まりの守霊である麒淵。
荒い岩肌に麒淵が両膝をついたのと同時、蒼が
「ねぇっ! 麒淵ってば!」
と声をあげた。十七になろうというのに、いつまでたっても甘さを含む花蜜のような音。麒淵が愛しくて堪らない導の声だと膝を伸ばした。
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「ねぇ、麒淵ってば! 萌黄さんがおかしいのっ!」
我に返った蒼が叫んだ。蒼が飛びださなかったのは、目があった萌黄がひどく優しい目をしていたからだ。彼女は狂人などではないと、蒼は確信する。
蒼も紅も良く知っている、その眼差し。暖かくって、仕方がない苦笑しながら、怒って、甘やかしてくれる人。自分の存在を受け止めてくれる人。叱咤しながら、最後には結局味方になってくれる――そんな存在を知っている。
「お、かあ、さん。おかあさん」
蒼と紅の口からぽろりと落ちた言葉。
萌黄と二人の母は全く似ていない。それであっても、呟かずにはいられなかった。記憶の中にいる大切な人と重なったから。
「えぇ。はい」
戸惑う二人を余所に、萌黄は実に表情豊かになった。
微笑みを浮かべた直後に、意味不明だとぽかんと口を開けて、挙動不審に視線を彷徨わせ、深呼吸を繰り返した。目じりを下げたり、眉間に皺を寄せたり。最後は真っ青な両頬を軽く何度か叩いて、強張った頬を抓った。
「わくしは、そう。わたくしはっ」
そうして、萌黄は顔を上げた。目が覚めたような眼は光に満ちている。それまで彷徨っていた瞳に、今は迷いはない。
萌黄は己の胸を力強く叩いた。
「わたくしは、母親です! いえ、母親になりたかった女の果ての姿なのです。そして、あの人は、父親になりたかった人の成れの果て」
「麒淵っ!」
萌黄の囁きを遮るように響き渡ったのは空間を裂く叫びだった。
蒼たちが声のした方を見上げると、空間にぽっかりと穴が開いていた。現代では空間魔法を使役するのは不可能に近い。蒼たち心葉堂の人間であっても、初代が施した術が前提で移動するだけだ。
「紺君っ――!」
空間の下に幾重にも現れた魔道陣が、蒼の視界をたゆたわせる。零れそうになった変な音を飲み込むために、蒼は両手で口を覆う。それでも、むぐっという変な音が零れた。
助けて欲しかったわけじゃない。
自分ができることをするために、自分で選択してここにきた。それでも、どこかで絶対に信じていた。大好きな年上の幼馴染は、此処に来ると。
蒼はむぐっという声を飲み込んで背を丸める。
(私のためにじゃない。そうだったらすごく嬉しいけれど、それよりも、わかるもの)
紺樹の纏う大きくて真っ白な魔道府外套が、まるで空間を清めるように舞う。まるで空間を鎮めるように
華麗に地面に落ちたち、すくりと立ち上がった紺樹。
彼と目をあわせて、蒼は確信を得て両手を握りしめた。彼の表情は魔道府副長のものだ。ただ、蒼にはわかった。それが立場を突き付けるものであるはずがないと。
(紺君は私を守るためじゃなくって、隣に立つために来てくれたっ!)
紺樹と言えば喜ぶ蒼を前に、少々複雑な感情を抱いたようで軽く頬を掻いた。
けれど、紅のナイフよりも鋭い視線を受けて、肩を竦めるしかなかった紺樹。彼は心の中で『責めは後でいかようにも』とごちりながら外套を脱ぎ去り、いつものように両袖をまくり上げた。
「蒼に紅。待たせたな。久しぶりに幼馴染三人で事件解決といこうか」
「終わりかけにきて、意気揚々としないで欲しいですね。大体、紺にい――副長は昔からオレと蒼に術を使わせてばかりだった」
紅もうっかり『紺兄』と口にしかけるほど、紺樹の口調も雰囲気もくだけていた。
蒼紅兄妹にも、それは紺樹がわざと仕掛けたことだとわかる。それでも、嬉しくて照れくさくて、悔しい。
「紺君ってば、遅いよ! 罰として、たっぷりお茶に付き合って貰うんだから! 麒淵も、おじいも、黒龍先生もっ! みんなっ!」
蒼がずびしっと紺樹を指さす。眉間がすごいことになっているので、兄も年上幼馴染も彼女の本気具合は身に感じている。
けれど、ぼろぼろの少女は、それでも嬉しそうに、すごく幸せそうに笑う。傷だらけで血まみれなのに、不可能さえ覆すと思える笑みを浮かべている。
「紺君っ!」
「っはい」
紺樹が肩を竦めて返事をすれば、元気で強気な姿勢だった蒼がへにゃりと涙を零した。
「ありがとっ。きてくれてぇ」
蒼の胸の内を語ればもっと言いたいことがあった。自分の背中を押してくれたこと、裏で動いていてくれたこと、あえて悪役になるようなことを言い放ったこと。
ここに来たのさえも、蒼を想ってだけじゃない。そんなのわかりきっている。
紺樹が心葉堂の人間をすごく大事に想っているのは重々承知だ。それでも、彼は国の重役に就いている。だからこそ、蒼にはわかる、紺樹が今どんな気持ちでここに降り立ったかは。
「蒼、仕事ですから、あまり刺激しないでください」
「うんっ。だから、それでも、ありがと!」
蒼は自分の胸にある想いを整理できずに、それでも込み上げた気持ちを告げる。
紺樹は苦笑するしかない。大きな手が蒼の頬を撫でる。何度も、感触を確かめるように。それは回復魔道だったようだ。光が満ちて蒼の傷が完全に消え去った。
「俺ができることなんて、精々この程度だ」
呟いた紺樹の後ろに現れたのは、蒼と紅の祖父である白龍と蒼の師匠である黒龍、それに魔道府長官、翡翠双子だ。皆、見事に空中から降り立ったとは思えない程、華麗に着地していく。双子は即座に口を覆って吐き気を押えた。
それまで静かに控えていた萌黄が「頃合いでしょう」と数歩進んで、微笑んだ。
「家族という繋がりを欲したがゆえに、他を犠牲にしてしまった人たちの話を聞いてくださりますか」
落ちた音は懇願ではなかった。