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クコ皇国の新米茶師と、いにしえの禁術~心葉帖〜  作者: 笠岡もこ
― 第三章(最終章) クコ皇国の災厄 行き着くところ ―
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第107話 検め7―湯庵―

少しだけ痛い表現があります。

 床に額をつけた湯庵(ゆあん)は、おいおいと泣き出した。体は柱に縛られたままなので歪な姿勢だ。

 あまりの豹変ぶりに陰翡(いんひ)陽翠(ようすい)は口元を引きつらせる。


「なんや、急に同情でも引く作戦に変更したんか?」

「いえ、陰翡。これはあまりにも……」


 翡翠双子の言葉通り、湯庵は小細工とは呼べない空気を纏っている。

 湯庵から何層にも重なったアゥマが払われたのが見えている面々は、唇を噛むか視線を落とすかだ。本来は邪を祓う浄化物質であるゥマが人の『念』を含み、欲望を()()()()()として剥き出しにしてしまうなど、如何ほどの生き物が知っているだろうか。


「ホーラよ。随分と余計な祓いをしたものだな」


 黒龍(こくりゅう)が忌々しそうに舌打ちを鳴らす。そんな黒龍に、ホーラこと魔道府長官は滅多に見せない困り顔で小さく笑い返すだけ。そして、振り返っていた体をすぐに湯庵に向き直した。

 黒龍は向かう場所を失った感情を溜め息に混ぜて吐き出すしかない。


「祓うにしても時期タイミングがあるだろ。世論としても、今は悪役のままで捨て置けばよかったのだ」

「黒龍よ。心にもないことを吐き捨てるものではない。わしならともかく、誰よりもアゥマという物質を愛するおぬしには似つかわしくない言葉じゃ」


 白龍(はくろん)の言葉に、黒龍は殊更不機嫌になった。腕を組んで明後日の方向を睨む黒龍の肩を叩こうとした白龍の手を止めたのは、湯庵だった。


「そうだ。己は娘と孫の魂たちを、望んだのだ。だが、肉体への執着も確かだ」


 湯庵がぽつりと零す。

 一度落としてしまったら、止まらなかった。無様と思える様子で双眼から何かが落ちていく。ただの肌を滑る感覚から生ぬるいと不快感を頂くのに、そう時間はかからなかった。


(違う。己は純粋な欲望を叶えるために生きてきた。家族愛などという曖昧なまやかしのために、何百年を生きてきたわけがないのだ!)


 湯庵が大理石の床に映る己を睨んでも、溢れ出す熱は止まらない。

 数秒後にぎりっと歯が軋む音がして、湯庵が額を床に打ち付けた。そんな湯庵の周囲にはふわふわと優しい魔道光が漂っている。


 浄化物質アゥマは、アゥマ使いであれば能力の発動によって各自の投影方法である意味映像化できる物質だ。白龍や蒼の水準レベルともなれば、それこそ本来の姿――光――としての姿やまるで心があるような動きを認識できるが、通常はソコにあると感じたり己が認識しやすい姿をして具現化したりするのが一般的だ。紅はそういった次元を超えて、その瞳だけで意識せずとも本来の姿が見えるのだ。


 ともかく。魔道光とは、特殊技能職人でなくとも魔道が使役可能な人であれば視えるもの。とくに優れた魔道使いの翡翠双子に可視が出来る物質だ。

 そこでようやく、翡翠双子にも湯庵の挙動が演技からではないと確信が持てた。長官を守る体勢をわずかに緩めた。その様子を受けて、黒龍は紺樹を軽く睨んだ。意図を理解している紺樹は弁明しようと口を開くが、


「己はどうしても許せなかったっ! 最愛の妻の命を奪って生まれた弱々しい娘をっ! それを次に紡げなかった娘を! 紡ごうとしなかった娘を――!」


先に湯庵が喉を詰まらせながら叫びをあげた。

 湯庵が顔を振る度に飛び散る唾。けれど、長官は湯庵から目を逸らさない。湯庵が放つ敵意が他人ではなく彼自身に向いていると理解しているからだ。


「己は、あやつの面影が消えるのが何より恐ろしかった! 萌黄が死ねば、己は本当に独りになってしまう! 孫が出来ると聞いて、ようやく己は妻以外も愛せると思った!」


 湯庵の叫びに、白龍は瞼を伏せた。どんな話でも大抵は笑い飛ばせる白龍も、この話題だけは一番隠したい傷を抉ってくるからに他ならない。亡国の調査で黒龍に否定されたとはいえ。


 世界一浄化された空間である桃源郷という特殊な空間から出れば確実に短命となる女性を妻に迎えた白龍。妻の桃香は桃源郷で過ごせば確実に数百年は生きられた。その桃香自身が現世で生きるのを望んだ。彼女を現世に連れ出してきたことを、白龍自身は絶対に罪とは呼ばない。決してだ。

 それでも、妻の心を言い訳にして一緒にいたいと願ったのは、他の誰でもなく白龍の我が儘だったとは、思う。当時の白龍には師と仰ぐ存在たちはいたが、彼らは誰もが人間離れしていた。その中で、能力は飛びぬけて世間知らずなくせに、価値観はやけに俗世くさかった黒龍と桃香兄妹だけは本当に近い理解者だった。

 だから人離れした白龍にも、これだけはわかる。何があっても手放したくない存在を失う絶望。孫はもちろんのこと、旧知の友も慕ってくれる人々も大事だ。孫などは目に入れてもいたくないほど、本当に可愛くてしょうがない愛しい存在だ。ひたすらに守りたいと思える。性分でついからかってしまうが。

 けれど、そうではないのだと白龍は拳を握る。唯一の全面的な理解者であり、唯一本当の意味で自分を甘やかす光の喪失感は。白龍は思った。きっと、湯庵もそういった部類の男だったと。


 湯庵は顔をあげて、全身を捻った。縄が食い込むのを痛がる様子はない。刻まれた皺に滲んでいるのは悲壮感だけだ。

 まるでたった今、最愛の妻がなくなったと思える嘆きを零す湯庵。不器用に愛しんだ娘をなくした父親のように狼狽える、湯庵。亡くしたものを探すように、湯庵の視線が揺れる。


「己は生まれた時から、ずっと孤独だった。最初の記憶は母らしき人物に首を絞められたものだ。己は生まれた瞬間から産み落とした奴にすら嫌悪されていた。ならば、何故生きる価値があるか。それでも己は負けたくなかった。己は復讐と憎悪を糧に生きてきた。それこそ地面を舐めながらみっともなく」


 翡翠双子は戸惑うしかなかった。

 捕縛直前の罪人が過去を語ることは少なくない。言い訳のように、自己弁護のように語る。これまでの湯庵を考えれば、他をやり玉に挙げるのは想像に難くない。

 それにも関わらず、目の前の男は淡々と過去を述べているのだから動揺の一つもしよう。


「それなのに。ノミだらけで泥水を啜って生き延びた己を、あいつは好いてくれたのだ。共に貪欲に生きていこうと手を取ってくれたのだ。それからは一族と呼べるほど、人が集まった。多くの者が己を長だと慕った。それでも、己はただ妻がいてくれれば良かった」


 湯庵はそこまで音を落とすと、静かに瞼を閉じた。がくんと体を折って、床に額を擦り付けた。縄はもう解かれている。


「流浪の民の責任者にとって、病弱な子どもという存在は一族全員を危険にさらす邪魔な要因でしかない。ましてや母親が死んでしまったからといって、長の己が病弱なあの子を最優先にすることなど許されぬ。どの子よりも厳しく接するのが、一族への示しだと思っていたのだ」


 湯庵の瞼の裏には当時の光景が映っているのだろう。詰まった声に混じって、嗚咽が落ちる。

 国を持てぬ流浪の民だった一族。湯庵には下賤の民と罵られた己を愛してくれた妻だけが唯一心を許せる存在だった。明日を生きるのがやっとだった民の長である湯庵は、産後の体調不良で亡くなった妻の死を悲しむ暇もなかった。むしろ、一族には何故もっと丈夫な妻を娶らなかったと責められた。人を心底から信じられない湯庵にとっては、腕に抱える愛する者が生んだ幼子だけが支えだった。

 だから、湯庵は娘が誰よりも正しく強くあるように厳しく育てた。少しでも可愛がれば、一族の者に甘やかすのかと責められたから、彼女のためにもひたすらに突き放した。


「なのに……己は娘の死期に気づかなかった。あの子が言えなかった空気を作っていたことに……。対外的に厳しくしていたが、親子なのだからいざという時は頼ってくると過信していたのだ」


 湯庵は吐息を零すように呟いた。もはや、涙に濡れた声はくぐもっただけの音だ。

 今の湯庵の声にかつての厭らしさは欠片もない。野望も皆無だ。華憐堂という異質な空間に響くのは、ただただ悲しい父親の気持ちだった。


「旅の途中で出会った山査子(さんしし)の好意に甘えて、あやつに萌黄を預け切っていた。今思えば、己は逃げていたのだろう。あやつのアゥマ使役術で、我らの一族は初めて固定の居住区を得た。いや、うん、山梔子か山査子か。呼び名は同じと言っていた。あぁ、あやつとは誰か。いや、うん、己の義息だ。いやいや、我が師か」


 湯庵が額を押えて考え込む。狂乱状態に戻ってはいないとはいえ、ひどく困惑した状態で自問自答を繰り返す。

 長官が湯庵の両肩を掴むと、問いかける視線に湯庵が「あぁ」と頷いた。


「さんししこそが、我が一族の導き手」


 紺樹(こじゅ)たちに緊張が走った。紺樹と白龍、それに長官は目配せをして地下への魔道を発動する。掌に持つ魔道球に念を注ぐ。けれど、地下と繋がっていたはずの魔道球はどれも反応しない。舌打ちが響く。

 長官が強く湯庵の肩を掴んだ。


「つまりは、あなたの最初の願いは純粋に萌黄と腹に宿った孫と過ごすことでしたか?」

「死んだ娘と、生まれるべきだった孫の命を。己たちが生き延びれば、きっと会えると信じていたのだ。己は変われると思った。孫の命を喜んだ時に、今度こそ家族を大切にできる人間にと。そして、いつまでたっても孫を生まない娘に苛立って、己はいつしか生にだけしがみついて……」


 はたと、湯庵が動きを止めた。


「そうだ。さんししが言ったのだ。いつも」


 湯庵が立ち上がり鏡へと手をついた。己の姿を嫌悪した様子はない。ただ項垂れた。床に膝をついて背を丸めた。


「己がここまで老いてしまっているとは。もう、娘や孫が死んでからどれだけ経っているのでしょうか。いや、それよりも、どうして己がここまで生きているのか」


 蹲る湯庵の記憶は混乱しているのだろう。これまでの所業を忘れ、術に蝕まれる前の湯庵に戻っているようだ。冷静と困惑が混じった湯庵に、誰もが戸惑うしかない。

 それでも長官は首を捻る。その背中を見て、紺樹は口を開いた。


「湯庵殿。貴方が正気に戻った今は、そう呼ばせて貰います」

「……魔道府で最も腹黒い人に『殿』などと呼ばれたくはないですわいな」

「クコ皇国の空白の溜まりの存在を仄めかしたのは、竜胆(りんどう)様ではないですね。それならば、誰が貴方を唆したのですか?」


 湯庵の薄い笑みに紺樹が詰め寄る。紺樹は回答を予想して陰に合図を送る。陰は長官の魔道球から地下にいる麒淵(きえん)に再度暗号を出すが反応はない。

 冷静を装った紺樹が靴を鳴らす。麒淵への直接の信号ソナーだが反応はない。

 見透かしたような湯庵が深呼吸を繰り返した。何事かと皆が口を開こうとした直後、


「ぐっはぁ。うぐぐぅ。うげぇ」


湯庵が己の掌に心の蔵を乗せていた。口の端から血を流しながら、湯庵はにやりと笑う。目は白く濁り常人のそれではない。

 長官が手を伸ばすと、湯庵が悪役上等に口の端を上げた。


「今は己が望む萌黄と孫が戻らなくとも、山梔子も若返る。己もな。つまりは、術師の山査子が生きていれば、何度でも術は繰り返せる。だから、これを使え。己の心臓は反魂の儀式の道具のひとつだが、贅沢できないならこれ以上生きる意味はないからなっ! 正気に戻った今、己にあるのは絶望だけだっ!」


 湯庵は吐き捨て、自身の胸を裂く。ごろんと、到底臓器が床に落ちたとは思えない音が響いた。通常では考えられない程度の出血量だ。血らしき液体もすぐに蒸発していく。

 長官は躊躇なくソレを拾い上げる。温度はない。跳ねる鼓動もない。ただ無機質な物質。だとしても、確かに湯庵を動かしていた大事な心臓だ。魔道府の外套を脱ぎ、丁寧に包んでいく。単なる衣服ならば、湯庵も演戯パフォーマンスだと嘲笑えた。けれども、本人さえ穢れた化け物の一部を、誇りと信念の象徴で守ってくれた。


「しかと受け取ったのですよ」

「落ちた、ゴミを、拾った、だけだろう」


 柱に背を付けた湯庵は、苦々しく舌を打った。息絶える寸前に、他人どころか自分を追い詰めた敵にまさか……至極大事に己を扱われるなど、本当に皮肉な人生だと。

 ここまでくると笑うしかない。零れ続ける泡と液体のせいで喉が詰まるが、湯庵はそれでも腹の底から声を響かせる。


「この国のことなど、どうでもいいが、せめて最後に、親らしいことを、せねば、輪廻の輪にも、乗れなかろうて」


 湯庵はまどろみの中で瞼を閉じた。長官の肩に項垂れた体は急激に体温を下げていく。

 長官は、あっぱれなど言う気は毛頭ない。湯庵が首謀者の一人であり、クコ皇国だけではなく心葉堂を貶めたのには変わりない。大事なものを傷つけてきた輩だ。


「それでも、やっぱり。いい歳になっても割り切れないのは情けないのですね」


 誰にも聞こえないように長官は呟いたはずだった。なのに、地下への階段を探し出した翡翠双子以外は口を噤む。

 沈黙が響く中、ややあって湯庵が虚ろな目を見せて「あぁ、そうだ」と零した。


「思えば山梔子いや山査子。どちらでもいいか。あやつが、萌黄を見初めたのは、亡くした大事な人に似ていると――同じ名前だと、呟いていたな。だから、飲ませていた薬の、おかげもあって、反魂の術の施行が可能だと。始まりの一族が、なんとかと」


 静かに消えていった声。長官の小さな腕の中には骨と皮だけになった身体だけが残った。長官はふわりとミイラを床に寝かす。

 そして確信と得て、長官は立ち上がり号令をとどろかせた。


「地下へ急げ‼ 真の首謀者はサンシシであり、奴の狙いは蒼月だ! 全ての陰謀を止めるぞ!!」


検め編、終わりです。次回から最後の「願いの果て(仮)」編が始まります。

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