第99話 思慕2―腐肉は喰らわず、血を吸う―
性的なものではありませんが、一部残酷・不快な表現があります。苦手な方はご注意ください。
「生きて欲しかった人がソノ生を後悔しているなんて! 貴方が生きて欲しいと願う優しい人が、貴方が傷をえぐり続けることを願うかなって思うの!」
蒼の叫びが洞窟中に響き渡った。
反響の余韻もなく、耳が痛むほどの静寂が広がる。
だが、それは決して蒼の言葉が相手に届いたからではない。むしろ真逆が生む静黙だ。誰にも届かずに弾けて消えた音が漂っている。
「私の言葉は、誰にも届かないのかな。止められないのかなぁ」
萌黄はすでに意識を失っている。髪を乱し、ぐったりと寝転ぶ姿はまるで死体そのものだ。
湯庵は、その萌黄の血を指で掬っては必死に舐めている。地に落ちる血さえも逃さないと舌を動かし続ける。そのうち、娘の肌に歯を立て、異国の異形の者のように血を吸い上げるほどの狂気を宿して。
「人としての振る舞いを保てぬ様で、生にしがみつくのか……なんとも奇妙な光景よ」
麒淵の呟きは戦きよりも呆れの色が濃い。
「肉を食らっても不思議ではない調子だな」
紅の腕が、蒼の頭を抱え込むように回される。蒼は現実から守ろうとする紅に抵抗しようとするが、頭横は自然と紅の胸に吸い寄せられてしまった。
「あの男は知っておるからじゃろうな。肉体には意味がないことを」
麒淵は一呼吸だけ飲み込んで、淡々とした声を落とした。嫌悪も素っ気なさも、何もない色。麒淵の言葉がすべてを物語っている。
湯庵が肉喰いをこの局面でもしないのは、きっとすでに試しているからだろう。
きっと麒淵の呟きがなくとも、誰しもがそう考えた。逆にそう考えない者がいれば、あまりにも無垢すぎるとさえ思った。
これ程までに生に強欲な男だ。ただの道具としてしか見ていない娘に対して、とっくの昔に若返りの方法として試しているのは予想の範囲だ。
「はっ、はぁ。零すものか。これは、全部、己の血だ。何人にも与えぬ。次の術が成されるまでは、この乾いてまずくなった血でも糧なのだ」
湯庵はぴちゃぴちゃと音を立てて掬い、ずずずっと不快な音をあげて啜る。その肌に艶が戻っては、その後、倍の速さで老ける。その繰り返し。
「も、えぎ。萌黄、僕の萌黄。僕の萌黄が流れ出してい……く。駄目だよ。駄目だよ。前みたいに、彼女の中から、君が引き留めてくれないと……」
山梔子は、妻と義父の様子に視線を固定させ、唖然としたまま微動だにしない。煌めきをなくした萌黄の瞳を見て、ただ縮こまっているだけだ。いや、口元だけはやけに達者に動いている。
蒼には山梔子の呟きは聞こえていなかった。けれど、ただ指を咥えて震えている姿に文句のひとつでも付けてやろうと、大きく一歩踏み出した。
「あっ、あれ。足に力が、入らないや」
先刻発動した遠距離制御魔道の影響と眼前の光景のせいで、蒼の膝から力が抜けてしまったのだ。が、地面に崩れ落ちる蒼の体を、紅の腕は先ほどと変わらずしっかりと受け止める。
紅はゆっくりと体を折り、岩肌に片膝をつく。そのまま、地面に腰を下ろした蒼の体を、自分の胸の方へと寄せる。蒼も素直に肩を抱く手にされるがまま従った。吐いた息が、蒼の肺をきつく絞り上げる。
「まったく、このお転婆め。いくら溜まりを通ってアゥマへの共鳴力がさらにあがっているとはいえ、無詠唱で遠距離に魔道陣を作り出すなど無茶をするにも程があるわい。時間差で疲労が来るのもタチが悪い」
麒淵が蒼の額を軽く叩いた。いつもの説教口調だが、蒼が重い瞼をあげた先にあったのはしかめっ面ではなかった。雨が降り出す寸前の空みたく、ぎゅっと瞳に雫をため込んでいるような、あぁ降るぞと言うもの悲しさが瞳に映っている。
「ごめんだけど、麒淵の『お転婆』って表現は古いよ。それに、いま力を振り絞らないで、いつ、やるのさ」
だから蒼は荒い息のまま、出来る限りの笑みを浮かべる。それは挑発するものではない。こんな麒淵を前に、蒼がそんな表情を浮かべられるはずがない。
「だあほめ。我は何も口にしておらぬじゃろう」
「でもね……ううん、ごめん。心配かけてるのは謝る。そんでもって、あともうちょっと、相棒の我儘に付き合って欲しいの。その分、家に帰ったら麒淵の説教はちゃんと聞くから。何時間でも聞くから」
蒼が強がったまま、それでも弱々しい声はどうすることも出来ないままに請えば……麒淵だって、突っぱねられるはずがないのだ。
蒼は承知の上で、ねだる。
「ねぇ、麒淵。お願いだよ。麒淵が止めるなら、半年間くらいは徹夜で茶葉の前に座ったりもしないし、溜まりにこもったりするのも控えるから」
蒼の予想通り麒淵は口の端を落とした。顔を両手で覆い、盛大な溜息をついて、天と地を睨みだした。
そして、最後に据わった目で蒼を脅しだした。
それでいて、結局のところは麒淵が折れるしかない。それは本人だけではなく、紅も重々承知の揺るがない事実だ。
「我を誰と心得るか。クコ皇国建国時から生きる、心葉堂の守霊じゃ。目の前の守霊たちを見捨てると思ってか。――とは言え。はぁ、なんだかんだと言って、うちの男どもは蒼に甘すぎるわい。我を含めて」
麒淵は肩を落とし脱力するしかない。横目で紅を見上げると、彼は牡丹色の瞳をついっと逸らした。そして、らしからぬ拗ねた口元で
「しかたがないだろ」
と呟いた。当人である蒼が呼吸を乱し、聞いていないのを確かめて。
だから、麒淵は思わず声を出して笑ってしまった。
「はっ! ほんに、しょうがないことじゃ。この子がただ無謀で我儘であったなら、ここまでして守ろうなどとは思わぬじゃろうな。この子が無茶をするのは、いつだって人のため。例え、それが大人からしたら単なる同情の部類や哀れみだとしても」
蒼は高らかに笑う麒淵を見つめる。目が合った麒淵はさらに笑みを深める。誉められているのか貶されているのかわからない、当の蒼も思わずつられるくらい、心地よい空気を生み出す笑み。
目が合っているのに、どこかずれたように思える視線だけが心に靄をかけるが……蒼は、それを口にするのはどうしてか憚られた。というか、荒くなる自分の呼吸がうるさくて、他の音が生み出せない。
「そうだな。蒼の言動は、見る人によってはとても自己満足な感情からだと思うよ。さっきの言葉だって、今後、いつ覆るともわからない詭弁だ」
麒淵の陽気な様子は反対の調子で、紅は囁いた。
――生きて欲しかった人が、ソノ生を後悔しているなんて! 貴方が生きて欲しいと願う優しい人が、貴方が傷をえぐり続けることを願うかなって思うの!――
飛びそうな意識の中、紅の言葉を聞いていた蒼は重い腕を持ち上げようと力を入れる。だが、いつも飛び出す勢いで動く腕は全く言うことを聞いてはくれない。むしろ、動けと命令するほど鉛をぶら下げるようだ。
(あっ、落ちる。地面に吸い寄せられる)
自覚した蒼の手をふわりと受け止めたのは、やはり、ずっと自分に触れてくれている体温だった。
紅は震える蒼の手をしっかりと握り占めて微笑んだ。そして、真っ直ぐと前を見据える。見上げた横顔は妹の蒼が見惚れるほど、一点の迷いもない。
「それでも、オレは来るともわからない未来に怯えて、ぐだぐだ悩むのは止めることにしたんだ。『いつか』を見据えるのは重要だ。けれど、『今』はその時じゃない。オレが考える萌黄さんを助ける定義が蒼と全く同じではないにしても、きっと本質は同じ所を見ていると思うから。オレは覚悟を決めたあの人が掴む先を見たい」
「紅がそこまで言い切ったのじゃ。最早、我に異論を唱える理由はないよ」
麒淵は降参と言わんばかりに両手をあげた。そのまま下ろした手を蒼の額に乗せる。
いつもは子猫ほどの大きさの掌が、今は蒼の顔を覆ってしまえるほどだ。そこから、温かいものがとくんとくんと流れ込んでくる。ものの十秒ほどで蒼の体は嘘のように軽くなった。
「というわけじゃから、いつまでも寝ているでないよ。我が相棒」
「麒淵! 自分の溜まりじゃないから、麒淵だって本調子じゃないのに、私にアゥマを流し込むなんて無茶して」
蒼はガバリと音を立てて体を起こす。反動をつけたまま麒淵の胸元を掴んだ。その拍子に紅の脇腹に肘鉄を入れてしまったようで、紅は体を折って苦悶に震えてしまっている。
「だあほ。我を誰と心得る。クコ皇国弐の溜まりの守霊ぞ。無敵とまではいかぬが、本来の姿である今、相棒にアゥマを補充することなどたやすいわい」
はんっと鼻先で笑った麒淵。大人の姿の影響で艶めいてはいるが、子どもっぽい表情や仕草は小さい時のままだ。
確かに、ぱっと見た様子では疲労してはいないようだ。けれどと、蒼は唇を噛む。
いくら壱の溜まりの助力があったとは言え、普段は行き来しない、しかも循環していない秘匿されていた溜まりへと続く龍脈を渡ってきたのだ。かなりの抵抗があり、疲弊しているに違いないとは想像に難くない。
「相棒よ、我は本当に無茶などしておらん。だから、蒼が望んだとおり、説教のしあいは、この後としよう」
麒淵に強く頭を押さえ込まれ、蒼はぐっと唇を引いた。
(まだ大丈夫。麒淵は本当に大丈夫だ)
掌から流れ込んでくるアゥマの調子から、麒淵の言葉に嘘はない。麒淵は、無理はしているが、確かに『無茶』はしていない。
蒼は潤みかけた目をぐいっと荒っぽく拭う。ぐしっと鳴る鼻は止められなかったし、勢いあまって体がふらついた。
「うん。絶対、この後にね。私は、紅を連れて、麒淵と一緒に家へ帰るんだから。帰ったら、紺君にお茶を淹れさせるんだから」
蒼はふらついた体を支えてくれた紅の腕を押し、反動で体勢を整えた。
紅のことだ。後になって、あの時はよくも人を壁代わりにしたな等とは言わない。だから、蒼は自分から話題にしようと思った。そして、呆れてくれれば良いと思った。
蒼は先ほどまでの恐怖を払拭するようにソウ考えながら、両手の指を屈伸させる。
(うん。麒淵が自分のアゥマを私に流してくれたおかげで、思った以上に体が動く)
体が軽いとまでは言えないが、運動にも支障はなさそうだ。ぐっと腹に力を入れ、蒼は両足をぐっと広げ構える。
しっかりと地面を踏みしめた足。その爪先を萌黄へと向けた直後、
「おっ、おい。心葉堂の者よ、これは一体どういう状況なのだ。説明せよ」
呼びかけられた。
蒼が声の方へと顔を向けると、地を這っている竜胆が映り込んできた。蒼たちの方へ躙り寄ってきている。とても皇族とは思えぬ姿だ。
とは言え、非常に人間らしい反応であるとも思った。ここにいる誰ともなく。
「唯一こちらに意識を向けているのが竜胆様だなんて意外だな。てっきり、もう失神されているかと」
同様に膝を伸ばした紅が、感心したように呟いた。九割は嫌味として。基本的に相手に対して経緯を払う紅にしては珍しい。と同時に、蒼は頭の片隅で、ふむと頷いた。
さもありなん。
紅は根拠もなく相手に畏怖することはない。すっかり本調子が戻っている兄を横に、蒼の口元はむずむずと動く。
「紅ってば、不敬」
「安心しろ、蒼ほどじゃない」
さらりと返してきた紅を、蒼は的外れにも嬉しいと思った。
蒼が悔しいことに、隣に立つ兄は蒼の心内なんてお見通しのようだ。緩む頬を抓られて、「あほ面」と笑ってくる。蒼は嫌ではないから、無意味に両手をばたつかせるしかなかった。
「あの三人は年期が入りすぎておるからのう。あの中では精神の均等を取り戻しやすいのが竜胆であるのは至極当然じゃよ」
じゃれあう兄妹を余所に、麒淵が至極真面目に皇太子へと向きなおった。
その様子を受け、兄妹も背をただし潜めた眉を近づける。
「ということはつまり、今の竜胆皇太子なら説得に応じてくれるかも知れないのかな?」
蒼は麒淵の袖を掴んだ。麒淵の手がそんな蒼の額に乗る。そのまま、ぽんぽんと軽く手が跳ねた。いつもなら鼻の頭を撫でる時の、手つきだ。
蒼の口がぐっと強く結ばれた。
蒼は知っている。こんな風に麒淵が宥めてくる時は、蒼の期待通りの答えをくれはしない。
「竜胆よ。もう間もなく魔道府が華憐堂を検めに訪れる」
淡々と現状を告げる麒淵の声に、竜胆の顔から血の気が引いて行く。
「なっならん! 魔道府はならぬ! 余が許さぬ! この溜まりにだけは足を踏み込ませるな! ここは余だけの溜まりなのだ!」
「なぜでしょう。我が国のアゥマ関連については、魔道府――魔道府長官に全権がゆだねられております。ゆえに、魔道府長官が把握していない溜まりなどありません」
口の端に残っていた血を拭い、断言した紅。岩肌に尻餅をつき、両腕を振り回してわめく竜胆を見下ろす。
「そんなはずはなかろう! ここは開国以来、ずうっと皇族が秘匿してきた溜まりだ!国の中央通りに大規模な溜まりが存在するなど、愚民に知られてはならぬ! だから、我が皇族が守ってきたのだ! 守霊をなせぬなど、ただのクズであるにも関わらず! かような時に役に立たずにいつ余らの益になるというのか!!」
竜胆が地を這いながら、溜まりへとにじり寄っていく。その様子は気高さの欠片はない。
揺れたのは麒淵の体だった。蒼が止めるより早く、麒淵の足が竜胆の背中に振り下ろされた。あまりの容赦のなさに、竜胆の口端から泡が立つ。
「そうだな。現代のおぬしら人間からしたら、大国中央にある溜まりに守霊が宿らぬ溜まりなどいらぬものだろうな。じゃが、それを此処で吐くことは我が許さぬ」
麒淵の薄黄緑色の瞳が真紅に燃えている。
「守霊を成さぬモノが悪か。否。守霊こそいなくとも、秘匿の溜まりは国の礎となっておる。そこを暴き、己の欲望で満たす罪、身を持って知るがよい」
麒淵の声はひたすら静かだ。ぞっとするくらい。
相棒である蒼でさえ足がすくむ。
「知らぬ、知らぬ! 余はそう教えられただけだ! ここは平素は役に等立たないが、高貴な者が使うことによって、すべてを叶える場所になるのだと!」
麒淵の手が捕えるより早く、竜胆が偽溜まりに自ら半身を突っ込んだ。途端、溜まりが煮え湯のごとく沸き立ち始める。直前に竜胆が口の端に溜めていた泡が溢れたかのような光景が広がった。
「くそっ! しまった!」
あまりの熱気に、麒淵も両腕で顔を庇い二歩下がった。らしくもない舌打ちも付けて。
「ちょっちょ! ななっなんで!? っていうか、なに⁈」
麒淵の腰元に飛びついた蒼から、驚愕の声が飛び出た。
と同時に、溜まりの水が洞窟の天目がけて吹き上がったではないか。咄嗟に麒淵が張った防御魔道に跳ね返って落ちる水の塊に呼吸を乱しつつ、蒼と紅は眼前に現れた異物にすくむしかなかった。
――ぶおぉぉぉぉ!!――
こもった叫び声が洞窟内を揺るがす。蒼は思わず尻餅をついた。それではたらず、起きた風に吹き飛ばされそうになった。上着の一部は持って行かれてしまった。
が、紅が咄嗟に発動した防御魔道によって、体ごと岩壁に叩きつけられることはなかった。それでも目の前の情景が変るわけではない。
「泥人形‼」
人であった竜胆は姿を消し、現れたのは洞窟の天に届くほどの泥人形だった。




