第89話 萌黄6―本来の萌黄と本当の萌黄―
「えぇ、そうです」
萌黄はただ真っ直ぐに、紅の疑問に応えた。
か細いのに、確かなざわめきを呼ぶような呪いめいた背徳の肯定の音色。それでも、すとんと胸に落ちてきた声。
「彼女がいたから彼は生きてこられて……萌黄を失った時、あの人は永劫の生き地獄を選択してしまった。叶える術が目の前にあったから」
声が耳にしっかりと届くと、紅と蒼の全身の毛穴がぶわっと開いて逆立った。
溜まりのひんやりとした空気がさらに下がった気がした。二人とも長袖の上着を身につけているのに、それを通り越して冷気が染みこんでくる気がする。その凍り付く空気がぴりっと皮膚を抓ってくるようだ。
「そして、わたくしは亡くなった旅人の妻である萌黄を蘇らせる為、人の手によって多くの命の犠牲をもとに作られた偽物の溜まりに生まれた存在。彼女が死んでなお、何十年の月日をかけて作られた人工溜まりに生まれた守霊であったものです」
蒼は自分の耳を疑いたかった。一体なにがどうなって人の体に守霊が入ることになったのか。
いや、理由なんて明白だ。明快どころか目の前の彼女が言うことが全てだろう。
戸惑う蒼に念を押すよう、萌黄はゆっくりと血色の悪い唇を動かす。青ざめた唇は細かく震えている。
「萌黄という人間は、もう何百年も前に亡くなっております。ここにあるわたくしも、すでに崩壊寸前のところを、最後の理性として呼び戻していただいた欠片。かろうじて本物と呼べるものは、この器だけですわ。それも生きているのを装うのがやっとの状態ですけれど」
「じゃっじゃあ……! 本当に、私たちはそもそも『本来の萌黄さん』になんて会ったことがないっていうこと?」
蒼は歩み出て、萌黄の両腕に触れた。掴むのではなく、恐る恐ると。触れた肌はひやりと冷たいが、感触も温度も人が持つものだ。
「まぁ、蒼さんたら。あそこまでわたくしを見てくださっていたと思っていたのに、まだ半信半疑でしたの? わたくしは最初から偽物ですわ。あえていうなら、人としての肉体だけが本物で」
「わっ私は、あなたが萌黄さんとは別の存在だっていうのは受け入れているけど! でも、貴女までが死んでいるみたいなこと!」
蒼は俯いて両拳を握る。最後まで叫びきれなかったのは、否定できるほど無邪気ではないからだ。
蒼は死人の肌を知っている。両親ではないが、修行先で失った大切な友人の魂が空っぽになった抜け殻を知っている。感情も温度もないただの器。それでも縋りたかった。
「頭では理解しているの。守霊だろうがなんだろうが、魂が入っているからだって」
触れている萌黄は死体の感触ではない。
軋む指を開き、萌黄の素肌を掴む。氷のように冷たい肌だけれど、生きている人の皮膚だ。滑らかでちょっとの鳥肌が掌をざらつかせる。それがさらに蒼の焦燥感を煽る。
「でもね、思っちゃうの。ここにいるのが『本来』の萌黄さんじゃなくっても、貴女がここにいるのは本当だもの」
今、あわせているのは何も捉えない瞳ではない。確かに心があり生きている視線だ。
(好意だけがあったわけじゃないけど、出会って、色んな感情を見た。それって、彼女が存在してたってことでしょ? 体だけが本物ってなに。その体にあったかさやつめたさ、柔らかさを持たせているのは貴女じゃない!)
考えていることを音にしたいのに、全く上手くいかない。蒼はままならない自分が悔しくて、萌黄に抱きつくことしかできなかった。
萌黄はそんな蒼を拒むこともなく、ただ目を細める。感情を言葉にすることは難しい色だ。
「ねぇ、蒼さん」
長くて細い指が蒼の肩を撫でる。蒼が言いたいことを全部承知しているかのように。
紅と麒淵は複雑な表情で二人を見つめる。
「『本物』ではなく、『本来』と言ってくださるのね。蒼さんは」
本物とは偽物ではないこと。本来とはもともとそうであること。
「それに、蒼さんの幼くて、でもあったかい想いはアゥマを通じて染みてくる。わたくしが守霊であることを思い出したからわかることですわね。偽物なのに、嬉しいと思うの」
「偽物なんて……私が止める資格ない! でも! 少なくともね、貴女がだれかを思ってここにいるなら、偽物なんて表現したら貴女の想いの行き所がないよ!」
萌黄の偽物にとって、蒼のその言葉はなにより嬉しかった。
わかって欲しいなんて傲慢すぎると理解しているのに。なのに、目の前の少女はただ無責任に真っすぐに心を重ねてくるから、嬉しくて怒るより笑うしかない。無垢ではないから、ないはずの心にくる。
「貴女の想いはどこにいけばいいのさ。貴女の苦しさは確かにそこにあるのに、偽物なんかじゃないのに」
蒼の目尻に涙が溢れる。心がキシキシと軋む度、熱の塊が頬を伝う。
ただ、蒼は自分が泣いていいことではないと乱暴に拭う。それなのに、厄介なことに無責任な悔しさは溢れて止まってはくれない。
熱を生む瞳をあげると、萌黄はしっかりと目線をあわせてくれた。
「代わりとして生み出された自分だったけれど、術者の傍にありたいと、彼の幸せを願ったのだけは確かですの。それが多くの命を奪い、多くの罪を重ねてきたとしても」
最後に『罪』だと自覚させてくれたのが、純粋で、でも単純にまっすぐではなく戸惑う心だったのが彼女にはとてもとても救いだった。そう、萌黄は仄かな笑みを浮かべる。
「わたくしは、初めに萌黄のふりをした罪深い偽りの命。彼に愛されたくて、脳と体に残った萌黄の記憶を読んで演じただけの愚かな偽物ですわ」
けれど。いや、だからこそ。萌黄のふりをする彼女は自分を戒めように偽物と繰り返す。
(ならば)
涙をはらはらと零す蒼の傍ら、紅は冷静に溜まりを睨んでいた。
紅は蒼と萌黄から少し離れ、溜まりの淵にしゃがみ込む。そして静かにアゥマ可視の能力を解放する。赤い牡丹色の瞳が薄氷河色に変わる。
(ここは十中八九あの人の綻びを修正するための溜まりなはずだ。皇族の後見人の目的は人工溜まりの何かしらの恩恵だとは思うけれど……ただここは)
紅が視えたアゥマは、確かに違和感はあるものの『人工的』な色はない。
それどころか、かなり上質なものに思える。
(前にここにあった黒曜堂は長年上質な宝石を扱っていた。宝石は穢れを払う効果もあるから、溜まりがなくとも浄化された極上の土地だ。話の流れから言って、クコ皇国の中央に突如発見された溜まりは、浄化された土地に作られた人工溜まりの可能性が高いと思ったのだけれど……違うのか?)
紅は蒼が溜まりから出てきた際『ここは違う』と言っていたのを思い出していた。感覚派の蒼のことだから特に意味はなく本能的にそう感じただけかもしれない。だが、アゥマとの共鳴力が高い蒼の本能的な発言なら、紅にとっては逆に信憑性が高いと判断できる。
それに、条件的にも萌黄の中にいる守霊を生み出した人工溜まりが作られていた環境と、クコ皇国の現状は一致する状況が多い。
(アゥマの通り道、川のような脈が人工溜まりの場所に吸い上げられて、人々が体調を崩し、異常気象が起る。クコ皇国もアゥマの乱れにより人々が疲弊し、精神状態も不安定だ。異常気象が続いている)
けれど、根本的な何かが引っかかって仕方が無い。亡国とクコ皇国の違いに。
能力を引っ込めた紅は顎にあてた指を何度も滑らせる。共鳴力が高い蒼に直接触れて貰えればこの溜まりの性質がわかるかもしれない。紅にはアゥマが視えるけれど悪まで視覚的なものだ。本質を知る意味でなら、共鳴力の高い蒼の方が優れている。だが、さっきの様子を考えると今はアゥマへ干渉させないのが得策だろう。
「なぁ、麒淵――」
「ひとつ、確認しておきたいのですけれど」
麒淵に声をかけようとした紅の言葉を遮ったのは、萌黄だった。
「紅さんも、蒼さんも……その様子なら、ある程度は偽物の溜まりの知識はお持ちだと解釈してよろしいでしょうか」
萌黄は蒼の体を離し、抑揚のない調子で言い切った。蒼の名を呼びながらも、目線は少し離れた場所にいる紅と麒淵に向けられている。
蒼が強く瞼を擦る。擦ったのは自分のものだったのに、香ったのは強い花の匂いだった。
(石蒜、みたいな? やだな。それって別名で彼岸花っていうんだよね)
石蒜は球根に毒を持ち、経口摂取すると最悪中枢神経に麻痺をもたらして死に至る。ただ、利尿や去痰作用があることから、桃源郷では生薬として用いられていた。
ただ、蒼が気にかかったのは効能などではない。桃源郷で耳にした別名だ。死人花や幽霊花などと、不吉な名で呼ばれることだ。
「オレの方は人工溜まりというより反魂の術ですけどね。それにしても、魔道府の任務を負っていたオレはともかく、蒼がなんでそんな禁書級の話を知っているんだ」
蒼の背中を、紅の厳しめの声がぴしゃりと叩いた。
紅としては、萌黄の話を聞かざるを得ない流れにもっていかれたのに、若干苛立ったこともあったのもあるのだろうか。そう考えて、蒼はすぐに頭を振った。蒼に向けられた後半ならともかく、前半部分の命に関わるような重い事実を吐き捨てるような口調は紅らしくない。
「知的好奇心ゆえに、だよ」
蒼は様子を伺いながら、確実に『らしい』言い訳を口した。
蒼の警戒に反して、紅は実にらしく腕を組んで目を据わらせた。
「それで誤魔化せると思ったなら、半日説教が必要だな」
嫌な汗が服に滲み萌黄の後ろに隠れたくなるが、蒼としてもこの状況で誤魔化しても仕方がないのはわかった。
考えすぎだったかと喉を鳴らした瞬間、兄の怒りの方が余程恐ろしいと思えた。
「えっと、別に黙っていたわけでもなくって、細かく話すのは帰ってからにしたいのだけど」
別に悪いことをして得た情報でもないのだが、話す機会を逃していたことは事実だ。蒼は両手の指をあわせもじもじとしてしまう。
紅は紅で、いまいち緊張感のない様子の蒼に頭を抱えた。
「だれも蒼がやばいことをしでかして知ったなんて思っていない。前置きは良いから早く話せって」
「うぅ。蛍雪堂の最下層の書庫を整理していたらね、ちょっと事件があってさ。そこに封印されていた体験記みたいな本に、人工溜まりについて記載があったの! 一部が破れていたから、完全にはわからなかったけど。でも、その時の一件が幸いして、今回溜まり渡りができたんだよ?」
その言葉に紅は天井仰ぎ、顔を覆った。二重の意味で。おまけにと、肺の空気がすべて出る勢いで「はぁぁぁぁ」と長い大息が吐き出された。
麒淵と蒼は同じ様子でびくりと肩を跳ねるしかない。
(オレが魔道府で読まされた禁書と同じものか、似た部類の本か! 確かに蛍雪堂の地下になら禁書の一冊や二冊あっても驚かない。けれど、この時期に読んだうえに、その時の出来事のおかげで溜まり渡りができたって!?)
しかも、だ。よくよく考えなくとも、紅が読んだ古書はあくまでも本だった一部のばらけた紙の状態だった。
逆に蒼は『本』だったと口にした。おまけに紅が知っていることを蒼は知らず、蒼が知っていることを紅が知らなかった。
(ってことは、絶対だれかしらが意図的に誘導していたに違いないだろ! オレが読んだのは、蒼が読んだ本体の古書から切り離された一部だとしたら、ちぐはぐなのも頷ける)
やはり、紅はぎろりと麒淵を睨むしかない。
敷地内から移動できない麒淵が黒幕かは別にしても、今回の件に一枚噛んでいるのは間違いない。なんなら、蛍雪堂の守霊と夢で交渉して仕向けたという直接手引きも考えられる。
「文句なら白かホーラに言って欲しいのう」
小人の時と違い、人間の大きさである麒淵は随分と表情が豊かだ。おかげで、あからさまに動揺してそっぽを向いた麒淵からは答えが読んで取れた。
一方、蒼は蛍雪堂で読んだ古書の中身を思い出していた。こう記載があったはずだと。
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世界中の国が、最先端の技術と古代の知識の粋を集め、研究にしのぎを削った。
やがて、ある国が人工溜まりの生成に成功したらしい。曖昧な表現になってしまうのは、一夜にして成功したと言われる国が滅亡したからだ。奇跡的に一人だけ生き残った男の証言から、成功した又はらしいと推測が出来たに過ぎない。
その男の話はこうだ。人工溜まりの生成を続けていたある日、ついに守霊が生まれた。溜まりとして力を持つ場所には必ず守霊が存在する。守霊とは、母なる樹が溜まりに出来たアゥマの濃い結晶から生み出し、守護を任せる人ならざるものと言われている。守霊がいなければ、溜まりといっても、野放し状態のアゥマは毒に近いモノとなるらしい。
国は守霊を生み出すことに成功した。樹の洗礼なくして生まれた溜まりに、樹の守護を冠した守霊が生まれたのだ。当時の人々が、これを奇跡と歓喜したことは、容易に想像出来る。一方で、不可侵領域に踏み込んでしまったことに怯え、樹に許しを乞うた者もいただろう。
ともかく、守霊が誕生したのとほぼ時を同じくして、城下の人間が一斉に消えたのだという。次いで国の至る溜まりが枯渇してしまった。数日の後、人工溜まりと守霊、全ての人々がいなくなった。そういうことらしい。
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「この世界では幾度か人工溜まりが生成され、消えていることは事実ですわ。そう、何度も」
萌黄は細く真っ白な腕を掴み俯いた。
紅は気を抜かないまま、蒼の傍に寄っていく。溜まりの淵に長くいると、その匂いの強さにめまいが起きた。心なしか喉もつまり、乾いた咳が出る。
(麒淵と萌黄さんはともかく、蒼はよく平気だな。溜まりを渡ってきて麻痺しているのか?)
さりげなく蒼と萌黄の間に体を滑り込ませた紅は、ちらりと後ろにいる蒼をちらりと見やる。紅は萌黄に向き直る。
「つまり、人工溜まりを使った『反魂の術』っていうのは、生き返らせるという意味の術ではなく――」
「そうですわ。あくまでも元となる人間の体を持ち、記憶を共有しただけの別の魂が入った人形にしかすぎません」
萌黄の声はどこまでも静かで悲しい色をはらんでいた。
ただ、蒼と紅にはどうしても解せないことがある。それは萌黄の中身が守霊だというなら、絶対的に外せない条件だ。