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見えざるソラの新た  作者: 弦本スージー


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2/2

見えない空の下で

その光は、胸の奥でいつまでも瞬いていた。


***


その晩の食卓は、いつもより静かだった。


父は黙々と皿の上の煮物を口に運び、母はときおり震える指で茶碗を持ち上げる。箸の触れ合う音だけが、狭い部屋にかすかに響いていた。


「さっきのことは……忘れろ、エウロパ」


ようやく、父が口を開いた。怒鳴り声ではない。煤でしゃがれた、掠れた声だった。


「教会の耳は、どこにあるかわからん。隣の家かもしれんし、向かいの店かもしれん。『上』のことを口にしたと知れたら……お前だけじゃない。俺たちまで、異端にされる」


母が小さく息を飲む気配がした。


「上なんて、最初から無いものとして生きればいい。それがお前のためだ」


エウロパは、膝の上で握りしめた拳に力を込めた。


「……はい」


それしか言えなかった。


父の言っていることが、間違っているとは思わない。教会に逆らって生きていく術も、この家にはない。それは、地下で命を削って働いてきた背中が一番よく知っているはずだ。


それでも――。


(ないものとして、生きろって……)


胸の中で、ひときわ強く、一番星のきらめきが揺れた。


食事が終わると、父は机の上に古びた祈祷書を広げ、母と共に短い祈りを捧げた。エウロパも形だけは膝を折り、両手を組む。けれど、その祈りはどこか遠く、上滑りしていくようにしか感じられなかった。


祈りが終わると、父は祈祷書を閉じ、しばらく黙ってから、ぽつりと付け加えた。


「…エウロパ。お前は、目が良すぎるんだ」


それは、褒め言葉ではなかった。むしろ呪いに近い響きだった。


「目は、下を見るためにあればいい。足元と、掘るべき場所と、明日の糧さえ見えていれば、それで十分なんだ」


エウロパは返事をしなかった。できなかった。


***


夜更け。簡素な寝台に横たわっても、まぶたの裏には瑠璃色が広がり続けていた。


(見なければよかった、って言えたら楽なのかな)


そう思ってみる。けれど、胸の奥の光は、まるで意地を張るように明滅をやめてくれない。


窓の外から、街灯のわずかな光と、遠くの酒場からの笑い声が漏れてくる。炭鉱夫たちの、ささやかな享楽の時間。明日もまた地下に潜るために、今だけは現実を忘れる時間。


エウロパはそっと寝台を抜け出し、裸足のまま軋む床板を踏んで窓辺に立った。


外は、もうすっかり夜の顔をしていた。昼間の煤煙は風に流され、冷たい空気が頬を撫でる。


恐る恐る、彼女はもう一度、顔を上げた。


そこにあったのは、やはり「上」だった。


黒に近い青。その上に、数え切れないほどの光の粒。さっき見た一番星は、群れの中に紛れながらも、やはり少しだけ強く瞬いているように見える。


(……やっぱり、あるじゃない)


言葉には出さず、心の中で呟く。


教会は「上は偽りの地下だ」と教える。見上げること、それ自体が罪であると。


けれど、エウロパの目には、そこはどうしても「落ちていく先」には見えなかった。


むしろ――。


(広がってる)


底なしの穴ではなく、どこまでも広がる何か。自分たちが掘る「下」とは、形のまったく違う空間。


彼女は窓枠に両手をかけ、小さく息を吸い込んだ。


そのときだ。


遠い禁じられた地下の一点で、ふいにひとつの光が流れた。


尾を引く火の粒が、上を横切っていく。教会の教えでは、それは「堕ちていく偽りの光」、神の怒りの火のしずくとされている。


だがエウロパには、それがただの滅びではなく、「どこかからの合図」のように思えてならなかった。


(誰かが……そこにいる?)


根拠などない。ただ、そう感じた。


光はやがて闇に溶け、何事もなかったかのように上は静けさを取り戻す。


しかし、そのわずかな軌跡は、エウロパの心に一本の線を描き残した。


地下の宇宙ではなく、上の向こう側へと伸びていく、細い、けれど確かな線。


***


同じ頃、街のはずれの路地裏で、クルス・マキナはふと足を止めていた。


雨はいつのまにか上がり、ぬかるんだ石畳にガス灯の光がぼんやりと映っている。蝋で塞がれた瞼の奥で、クルスは顔をわずかに上げた。


熱。圧。匂い。そして――。


彼女には空は見えない。だが、世界を包む圧力の揺らぎが、いつもと違うことがわかる。遥か上空で、何かが燃え、裂け、崩れ落ちていく気配。


かつて自らも関わった、ミクロシステムの残骸が大気に擦れ、火となって落ちていくときの感触を、彼女はよく知っていた。


(また、ひとつ)


クルスはゆっくりと首を戻す。


教会は、堕ちてくるそれを「神の火」と呼ぶ。忌まわしいものを焼き尽くす浄火だと。


本当は、神話時代の忘れ形見。空に張り巡らされた全人類洗脳システム――ミクロシステムを構成していた人工衛星の残骸に過ぎないというのに。


彼女は静かに、雨上がりの匂いを吸い込んだ。


(空は封じられた。だが、まだ完全には閉じていない)


蝋で固められた瞼の奥で、わずかな熱が揺らめく。


それは怒りではない。憎しみでもない。ただ、遠い昔に刻み付けられた「使命」の残り火のようなものだった。


クルスは踵を返し、闇の中へと歩き出す。


見えない空の下で、

空を見上げる少女と、空の気配を感じる女が、

まだ互いを知らぬまま、同じ流星の音を聞いていた。

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