空を見ない街
第一章:空を見ない街
かつて、神は人の営みをことごとく見通し、その理のすべてを地下深くに埋めたのだという。宇宙とはそこにある真理のことであり、人に与えられた最後の果実であり、同時に逃れられぬ枷でもあった。
教会がそう教え、人々はそれを信じた。信じるしかなかった。
【白銀の淑女】
雨が、都市の煤を洗い流している。クルス・マキナは音のない足取りで、煉瓦造りの路地裏を進んでいた。蝋で固められた瞼の奥、彼女の世界は闇ではない。熱と、空気の圧と、匂いと、そして魂の気配でできた、もう一つの宇宙が広がっている。
背後から迫る三つの気配。教会の異端狩りだ。彼らの足音は雨音に紛れているつもりだろうが、クルスには聞こえる。彼らの呼気に混じる、狂信という名の鉄錆の匂いがする。
「そこまでだ、白銀の淑女!」
金切り声が路地に響く。クルスは足を止め、ゆっくりと振り返った。雨水に濡れた銀の髪が、ガス灯の頼りない光を弾く。言葉を奪われた唇は、祈りの形すら忘れて久しい。彼女に残された言語はただ一つ。腰に佩いた、細身の剣が鞘走る音だけだ。
剣先が、追手の一人の喉元で寸止めされる。恐怖に歪む顔が、雨粒越しに見えるようだった。クルスは剣を引いた。殺しはしない。彼女の目的は、この偽りの世界そのものを正すことであり、個々の命を奪うことではないからだ。怯えて逃げ惑う狩人たちを背に、クルスは再び闇に溶ける。
なぜ、と彼女は常に問い続けている。声にならぬ問いが、胸の内で渦巻いている。
なぜ教会は、「上」を偽りの地下だと教え、大いなる空を禁じたのか。
その答えを、彼女は知っている。だからこそ、目は塞がれ、口は封じられた。だが、魂までは奪えない。彼女の剣は、封印されたわれわれの宇宙を取り戻すための、声なき叫びだった。
【炭鉱夫エウロパ】
ガタン、と大きな音を立てて昇降機が止まる。一日の終わりを告げる合図だ。エウロパは顔中にこびりついた粉塵を袖で乱暴に拭い、他の炭鉱夫たちと一緒に地上へと吐き出された。
街は、約束された真理の匂いで満ちている。地下から掘り出された鉱石が放つ独特の甘い香りと、人々の熱気。誰もが地下の宇宙に夢を見て、その日の稼ぎと、いつか掘り当てるであろう大いなる真理の話に花を咲かせる。貴族たちが出資する新しい鉱脈の話、最新式の削岩機の話。彼らの目はいつも、誇らしげに下を向いていた。
エウロパは、そんな喧騒から逃れるように、ふと顔を上げた。
「上」があった。
教会の言う、禁じられた地下。危険な虚無が広がるという「上」。しかし、エウロパの目には、それがどこまでも透き通った瑠璃色に見えた。夕闇が迫り、星と呼ばれる銀の砂が瞬き始めている。それは「美しい」という言葉一つでは、あまりにも足りない、魂を揺さぶるような光景だった。
他の誰も、それを見ない。まるで存在しないかのように。
家路につくと、父と母が疲れた顔で夕食の席についていた。二人とも、かつては腕利きの炭鉱夫だった。
「エウロパ、お前も早く宇宙の欠片の一つでも見つけねばな。そうすれば、こんな暮らしともおさらばだ」
父の言葉は、娘を思う優しさから出ていた。だが、エウロパにはそれがとても悲しいことに聞こえた。
「ねぇ、お父さん、お母さん」
彼女は窓の外を指さした。瑠璃色の空は、もうほとんど夜の闇に飲まれかけていたが、一番星がひときわ強く輝いていた。
「上を見てよ。あんなに綺麗なのに」
その瞬間、食卓の空気が凍りついた。父の顔から表情が消え、母は怯えたように目を伏せる。
「エウロパ!」
父が食卓を叩く。ガシャン、と食器が鳴った。「上など見てどうするんだ!我々の真理は、救いは、すべてこの足元にある!お前も教会の教えを忘れたわけではあるまい!」
その目は、怒りの中に確かな恐怖を宿していた。
その時、エウロパは悟ってしまった。何年も前から、心のどこかで分かっていたことを、はっきりと理解してしまった。
父さんと母さんには、私が見ているこの素晴らしいものが、本当に「見えていない」のだ、と。
彼女は押し黙り、うつむいた。しかし、その瞳の奥には、先ほど見た一番星の光が、決して消えることなく灯り続けていた。この世界では、ただ一人、自分だけが見つめることを許された、たった一つの真理の光が。




