第7話『休息の街と、静かなる異変』
──息が、白かった。
深く、鋭く、切れそうなほど冷たい空気が、肺を何度も刺した。
ユウは地面に片膝をついたまま、崩れ落ちた老婆の残骸を見下ろしていた。
全身の感覚が鈍く、腕も脚も鉛のように重い。
「……動けねぇな」
ぼそりと呟くと、背後から小さな足音が近づいた。
「これ……使って」
セラだった。
無言で差し出されたのは、小瓶のようなガラス容器。
中には淡く光る液体が揺れていた。
ユウは一瞬、眉をひそめたが、すぐに受け取って口に含む。
──ゴク。
喉を通った瞬間、冷気が全身を走り、痛みの芯がじわりと和らいでいく。
「……ありがとう。助かる」
セラは、小さくうなずいた。
ユウは、意外そうに眉を上げる。
「……こんなの、持ってたのか」
「くる前に、買った。……店に置いてあったの」
ユウは少しだけ口元をゆるめた。
立ち上がりながら、彼は老婆の遺体に目を向けた。
既に黒ずみ始めていた皮膚は、触れれば崩れそうなほど脆い。
(……こんな“化け物”でも、記録できるのか?)
ユウは、ゆっくりと右手をかざした。
《死者記録検出》
《対象:識別不明》
《スキル名:後悔の残滓》
《記録完了》
《能力詳細:閲覧制限》
(……スキル名だけ? 能力の内容が表示されない……)
すぐに、さらに別のログが開いた。
《レベルアップ:Lv5に到達》
《スキル適応条件を満たしました》
《解析──使用可能》
(……レイジのスキルか。クセが強そうだが、使いよう次第だな)
ユウはそっと手を引き、ため息をつく。
二人はそのまま、老婆の亡骸から少し離れた岩陰に腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れた後、ユウが切り出す。
「……さっきの、スキル。すげぇな」
「……わたしにも、このスキルよくわからない」
「たぶん……ルーレットみたいなもので、武器が決まるの」
「なるほどな……。でも、よくあんなの振れたな」
「……あんな重いの、初めて。……でも、あの時は必死だった。」
セラはうつむいたまま、何も返さなかった。
だが、その肩がわずかに揺れたのをユウは見逃さなかった。
「なあ、セラ。……お前、なんでこんなとこに来たんだ?」
問いかけた瞬間、セラの目が一瞬だけ細くなる。
だが、すぐに視線を逸らして、ぽつりと呟いた。
「……わたし、殺したの。――義父を」
ユウは何も言わなかった。
ただ、その場の空気がひとつ、深く沈んだ。
(……こいつも、重いもん背負ってんだな)
どちらからともなく、また沈黙が訪れる。
──そのとき。
《任務達成確認》
《殲域境界観測:最低達成条件クリア》
《参加者:白神ユウ/柊セラ》
《報酬:50クレジット付与》
《スキル適応度+1》
青白いUIが空中に浮かび、無機質なアナウンスが響いた。
ユウは立ち上がりながら、肩を軽く回す。
「……これで、クリアなのかよ」
振り返り、もう一度老婆の残骸をチラッと見てユウは前を向く。
そして一歩、街を目指して歩き出した。
街へと続く道は、濃い靄に包まれていた。
殲域の冷たく重い空気から徐々に解放され、遠くに人の営みを思わせる灯りが見えてくる。
ユウとセラは無言のまま、並んで歩いていた。
言葉にする気力も、ほとんど残っていなかった。
ただ、生きて帰る──その一点だけを胸に、歩みを重ねた。
──
セーフティゾーンの門をくぐった瞬間、ざわりと空気が変わった。
街の中央掲示板に何かが表示され、それを見上げていた囚人たちが一斉にこちらを振り返る。
「……あれ、戻ってきたのかよ」
「殲域の調査任務だったって聞いたぜ。二人だけで?」
「アイツら……ただ者じゃねぇな」
驚きと警戒、羨望と嫉妬。
さまざまな感情が、視線となってユウとセラに突き刺さる。
ユウは何も言わず、それらを無視して歩き続けた。
セラもまた、一言も発さずに隣を歩いていた。
──
街の中心に差しかかる頃、セラがふと足を止めた。
そして、ユウの方を向いて言う。
「……明日、街を一緒に見てみない?」
唐突な問いだったが、不思議と拒む気にはならなかった。
ユウは少しだけ目を細めて、彼女を見返す。
「……ああ。いいぜ」
セラはうなずくと、そのまま再び歩き出す。
やがて街中の小道で、自然と進む道が分かれる。
二人は何も言わず、それぞれの方向へと消えていった。
静かな部屋に、ユウはひとり戻ってきた。
鍵を閉め、外界の喧騒を締め出す。
この家は、初めてデス・リミットで勝ったときの報酬で手に入れたものだった。
広くも豪華でもないが、ベッドがあり、壁があり、ひとりになれる場所だった。
ふと、窓の外に設置された情報掲示の数字が目に入る。
《現在の生存者:1328人》
(……1482人から、さらに減ってる。
今日はPvPも、公式任務もなかったはずだ)
誰が、どこで、何をしているのか──
知る術もなく、ただ静かに不安だけが滲んでいく。
だが今は、それを追う気力もなかった。
「……疲れた」
そう呟いて、ユウはベッドへ倒れ込んだ。
朝の光が、石造りの天井に差し込んでいた。
ユウは、重い体をゆっくりと起こす。
「……いつの間に、寝たんだっけな」
ぼんやりした意識のまま、手をかざすとステータスウィンドウが立ち上がった。
《白神ユウ》
《Lv:5》
《所持クレジット:050》
《記録スキル数:4/有効スキル数:2》
《スキル一覧:シャドーステップ/解析/クロススラッシュ/後悔の残滓》
《任務進行:なし》
(《後悔の残滓》……)
昨日、老婆から記録したスキル。
だが、表示は変わらず《能力詳細:閲覧制限》のままだった。
(他のは使えるのに、これは……何か条件があるのか?)
考えても答えは出なかった。
それよりも今日は、「街を見て回る」と約束していた。
⸻
外へ出ると、朝のセーフティゾーンは静かだった。
夜よりも街の構造がよく見える。
遠くに見えるドーム型の塔、空中を移動するホログラム掲示、整然とした石畳の通り。
中心部の広場には、既にセラが立っていた。
彼女はユウの姿を見つけると、ほんの少しだけ会釈する。
「……来てくれたんだね」
「……もちろんくるに決まってるだろ」
それだけのやり取りで、ふたりは並んで歩き出した。
⸻
街の通りには、生活感が少しずつ漂っていた。
物資の売買ができる商店通り。
素材を武器に変える鍛冶屋。
情報が集まる掲示板。
酒場らしき雑居区画──
そして、ひときわ異質な建物が視界に入る。
「……あれか」
灰色の無機質な外壁。
扉の上には、光文字で《戦術訓練棟》と表示されている。
「スキルや武器の練習ができる場所らしい。リンク訓練も可能って書いてある」
ユウが掲示を読み上げると、セラはわずかに顔をしかめて、小さくつぶやいた。
「……ああいう場所、苦手」
「無理して行くとこでもないしな」
返すユウの声は、どこか柔らかかった。
セラはそれに答えず、ただ静かに歩き出した。
⸻
通りの片隅に、木製のベンチがあった。
ふたりは、そこで足を止めて腰を下ろす。
少しだけ風が冷たくて、言葉が消えていく。
沈黙の中、セラが口を開きかけて──けれど、やめた。
代わりに、視線をそっと落とす。
ユウはそれを見て、目を細める。
「……そのうちでいいさ。話したくなったときに、話せば」
セラは少しだけ目を見開き、そして何も言わず、小さくうなずいた。
⸻
再び街の中心に戻った頃、ユウはふと空を見上げる。
晴れてはいないが、雲の向こうに微かな光が見えた。
(ここが一時の安らぎだとしても――)
──次は、いつ崩れるかわからない。
彼の視線の先、掲示板には“更新中”の光が淡く点滅していた。