84.水の精霊トリスティス
グリム歴2000年12月4日。
朝日とアイコの声に目が覚めて、全員で朝食を摂り、身支度をしたところでノエルはようやく頭が回ってきた。今日もゴミ拾いに行くつもりで起きてしまったが、今日はゴミ拾いに行かないのだったとようやく気づいた。
特段やることもないため、グリムが来るまでゆっくりすることになり、カイが淹れたお茶を飲んでいる最中、グリムがまたしても唐突に現れた。
「グリムさん、いきなり現れるの芸風にしようとしてませんか?」
「バレちゃいましたか」
ノエルが目を細めながら言うと、グリムが舌を出して肩を竦めた。相変わらずよくわからない人だなあと思いながら、お茶を飲み干す。
グリムが来たということは、もう向かうのだろう。水の精霊がいるという、温泉洞窟に。ノエルの心には緊張感が芽生えたが、どうもこの空間は緊張感がないように感じられる。
そのギャップに、ノエルは苦笑いした。
「とりあえず皆さんご一緒に温泉洞窟に向かいましょう」
「洞窟に入るのは私一人?」
「いえ、ルミさんと一緒に。うつろはノエルの影に入っていてください」
「わかった。理由はどうせ聞いても教えてくれないんだろう?」
うつろが言うと、グリムは眉根を下げて微笑んだ。本当に理由は聞いても教えるつもりがないらしい。うつろはため息をつきながら、ノエルの影に入った。
最近はあまり影に入られることがないから、少し不思議な気分だ。
「さて、では案内しますね」
グリムの案内のもと、部屋を出る。旅館すらも出て庭をぐるりと反対側まで歩き、庭を囲んでいる柵をグリムが一部分だけ外した。
ここから、温泉洞窟に向かうらしい。
柵の向こうには、獣道があった。正確には獣が踏み固めたわけではないだろうが、木々に囲まれて地面にも草が生い茂っているなか、土の表面がハッキリと見えているのがまさに獣道といった風情だ。
歩いていくにつれ、ひんやりとした空気が漂い始めた。精霊の居場所は、いつもこうだ。近づくとなぜか冷たさを感じるのだ。それがいつもノエルの緊張を煽るのだが、今回は以前にも増して冷ややかな空気に感じられる。
水の瑪那は、悲しみと呼応する属性だ。それも関係しているのだろうか。そんなことを考えながら黙って歩くと、突然目の前に洞窟の入口が現れた。
洞窟の中は、ここからではよく見えない。ノエルは冷ややかな空気を目一杯吸い込んでから、吐き出した。
「この先にいるんですよね?」
「はい、くれぐれも注意点を忘れないようにしてくださいね、ノエル」
「確か嘘をついてはいけない、でしたっけ」
「ええ、話は通してますが、恐らくは嘘をついた瞬間に力を貸してくれなくなります」
ノエルは、こくりと頷いた。
水の精霊との契約の際には、嘘をついてはいけない。それは小精霊を通じて契約を交わす精霊術士も、同様だという。
多くの人間は気に入られようと虚飾を纏ったり、世辞を述べたりする。だから水の精霊術士は、他属性と比べ数が少ないのだとアイコが補足説明した。
そういう意味じゃ、アランは水の精霊を取り込むのに苦労しそうだなあ。いやでもどうなんだろう。無理矢理取り込む感じなのかな、あいつは。
アランはこれまで話に聞いたことばかりであり、直接対面したことはほとんどない。それなのに、どういうわけか彼への印象が自分の中で固まっていることに気づき、首を傾げた。
これも正史世界のノエルの影響なのだろう、と納得する。
そして、ルミと並び、洞窟へと入っていった。ただ一言「行ってくるね」と、仲間達に言い残して。背中に仲間達の激励の声が飛んできて、勇気が出てきた。
隣を見れば、いつも支えてくれる好きな人がいる。それもまた、勇気が湧く。
洞窟に入ると、空気がより一層冷たさを増した。というよりも寒い。白銀のローブの自動調整がかかってすぐに適温になったが、ルミは少し寒そうだった。
「大丈夫? ローブ貸そうか?」
「いや、これから大変なのはお前だからな、着ていてくれ」
「本当に寒くてダメそうならいつでも言ってね」
言いながら洞窟を進むと、湖があった。ここは海沿いにある。海に繋がっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、湖から何者かが飛び出た。バシャ、と大きな水音と波を立てながら現れたのは、人型の女性の上半身と魚の下半身を併せ持つマーメイド。
倭大陸では絶滅したとされている魔物の姿だった。
すぐにわかった。
彼女が水の精霊だと。
「あなたがノエルね。私は美しき愛と水の精霊トリスティス」
「……」
ノエルは、思わず耳を疑った。これまで精霊はキャラが濃かったが、これまた濃そうな人が現れたものだと、苦笑してしまう。
そんなノエルの反応を見て、彼女は気分が良さそうに鼻を鳴らした。
「ふふん、美しき反応ありがとう。正直なのは美しきことよ」
ノエルは、彼女の物言いと奇妙なまでに美しい所作にチューベローズを思い出した。彼女も、しきりに美しさがどうのと言うのだ。
ただ、声はチューベローズの中性的なものとは違い、滴り落ちる水滴のように高く澄んでいる。
「えと、ノエルです。よろしくお願いします」
「ええよろしく。ガウディ、エラ、ティメも久しぶりですね」
『出来れば会いたくはなかったがな』
『ひ、ひさしぶり、です』
『相変わらず、鼻につくなあ』
精霊達が、口々にため息混じりの声を出した。これまでは精霊と相対してすぐに口を開いたエラやガウディウムも黙っていたが、どうやら二人とも彼女のことが苦手らしい。
確かに、ガウディウムとは特に相性がよくなさそうだと思った。
「さあノエル、私も貴女を試させてもらいます」
「はい、お願いします」
「私はただ貴女にいくつか質問するだけ。貴女はただ美しく、正直に答えればよいだけです。簡単でしょう?」
「まあ、確かに……」
これまでの精霊達が課してきた試練に比べれば、随分と簡単そうで少し訝しんでしまった。ガウディウムとは戦い、ティメオには恐ろしい過去と対面させられ、今度は質問に答えるだけ。
ただ、正直に話せばいいということがわかっていれば、そう難しいことではないだろう。それなのに、ノエルは少し身構えていた。
「では最初の質問です。社会に正義はあると思いますか?」
「えぇ……」
最初の質問と言ったからには何問かあるのだろうが、最初から難問が飛んできたことに思わず引いてしまった。
それでも答えなければならないから、考えてみた。哲学的な問いかけは別に嫌いではないのだ。
社会に正義があるか、かあ……。人の心に、とかじゃないもんね、社会だもんね。
少し考えて、よし、と意気込んで口を開く。
「ないと思います」
「ほう、それはまたどうして?」
「悪いことは決められてるじゃないですか。たとえば奴隷ですけど、倭大陸全土で禁止されているのでこれは悪とされていますよね。だけど、何が正義か何がいいかって決められてないじゃないですか」
ノエルは、言っていて我ながら陳腐だなと思った。
ただ、これしか浮かばなかったのだ。
対するトリスティスは、微笑みながら首を大きく縦に振った。
「よろしい、正直な答え大変美しいです」
「ありがとうございます」
「それでは次の質問です。生まれながらにして定められた運命というものは存在すると思いますか?」
「またヘビーですね……」
また哲学的な質問だった。
運命、という言葉にノエルはあまりいい思い出がない。予言という名の運命に翻弄された人の苦しみを、ノエルは知っている。
運命が存在するかと問われたとき、思い浮かんだのはアイコの顔だった。
「ないと思います。というか、あってほしくないです」
「あってほしくない? とは?」
「んー……私の幼馴染が予言というものにすごく惑わされて、すごく苦しんでたんですよ。それはすごく嫌な予言で、それが運命だとしたら嫌だし、それに変えられることもあったんです。だから、ないと思うしあってほしくないです」
本当に生まれながらにして決まっていることがあるんだとしたら、予言書の内容を変えることなんてできなかったんじゃないかな。先の運命を知って行動を変えれば結果が変わるんだったら、それは生まれながらに決まってるということにはならないよね。
ノエルは思案しながら、トリスティスの顔を見る。彼女は微笑みを一切崩すことなく、また大きく頷いていた。
「よろしい。では最後の質問です」
「よろしくお願いします」
ノエルは、心底ほっとしていた。気づけば、肩が少し強張っている。これまでとはまた違う緊張感がある試練に、冷や汗までかいていた。
「貴女にとって、生きる意味とはなんでしょうか?」
「生きる意味、ですか……」
ノエルは腕を組んで、天井を見上げた。洞窟の天井はゴツゴツとしていて、石の柱が垂れ下がっている。
今度は隣にいるルミを見てみた。彼女はノエルと同じように腕を組み、うーんと唸っている。自分でも考えてみているのだろう。
ふと、思った。
これまでの人生、生きていて良かったと思ったのはいつだったろうか。
嬉しいと、幸せだと思ったのはいつだっただろうか。
思案し、ノエルはふっと微笑んで腕を解いた。
「私にとっては、大好きな人と一緒にいて普段と変わらない日常を過ごすことです」
「普段と変わらない日常?」
ノエルは、こくりと頷く。
「朝起きて食卓を囲んで、身支度をして街のゴミ拾いをして、ああ今日も仕事がたまってるねなんて言いながら目の前のやれることからやりはじめて、それが終わったらまたご飯を食べて、夜になったら騒がしくお酒でも飲みながらいっぱいお話して部屋に戻って、みんなが楽しそうにしている声を聞きながら、大好きな人の温もりを感じて眠る。そういう、きっと神たちからしたら退屈なんだろう日常が、私にとってはかけがえない幸せなんです」
思っていたよりも、スラスラと言葉が出たことに自分でも驚いた。こんなに長く喋るつもりはなかったのだが、口から言葉が出るのを止められなかった。
だが、紛れもないノエルの本心だった。
トリスティスは満面の笑みを浮かべて、うんうんと何度も頷いた。
隣でルミが顔を赤くしているのが横目で見えて少し気になったが、ノエルはトリスティスに向き直り彼女の言葉を待つ。
待っていた言葉は、すぐに出てきた。
「よろしい! 実に美しい正直な答えでした!」
「あ、えと、はい」
「貴女のような美しい心根の方となら、私も喜んで合一して差し上げられます」
「よろしくお願いします、トリスティスさん」
ごくり、と唾を飲む。なんとなく安心してしまったが、ここからが本番なのだ。トリスティスは薄青い光を発しながら、水滴のような形の翠玉に姿を変える。
なんと美しい魂なのだろうと思うと同時に、彼女の魂が自らに入り込んだ。
これまでのような身を焦がす熱さも、胸を掻きむしりたくなるような恐怖や不安もない。
ただ、ノエルの目からは一筋の涙が流れていた。何が悲しいのかはわからないが、涙が溢れて止まらなくなる。
涙がより一層涙を誘い、気づけばノエルは隣にいたルミに抱きしめられていた。
しばらく抱きしめられていると、涙が落ち着いてきた。ノエルは涙を拭いながら、ルミに「ありがとう」と微笑みかけると、彼女はなぜか言葉を詰まらせながら「どういたしまして」と返した。
静寂が包み込む洞窟で、ノエルは思い切りルミを抱きしめる。
そしてまた、今度は耳元で囁くように。
「ありがとう」
感謝と、そして大好きな人への想いを込めて言った。
もし面白ければ、ブックマークや感想、評価などをいただければ大変励みになります。
よろしくお願いいたします。