83.嵐の前の静けさ
風呂上がりに浴衣を着てみると、はじめて着るのに不思議なほどに違和感がなかった。ローブの着心地と少し似ているのかもしれないと納得しつつ、浴衣を着てそそくさと外に出ようとするルミの手を掴む。
「ルミ! ラムネ、ラムネ買おうよ!」
「ああそうだった忘れてたよ」
ふんふんと鼻歌を歌いながら、ラムネが置かれた器に近寄る。洗面台の付近にあるその器は、氷で作られているようだが、水が張られているのにも関わらず溶ける様子がない。
魔法で作られているのだろう。何にでも魔法を使うのは、もしかしたらグリムの影響なのではないかと思いながら値札に書かれている金額を払い、ラムネを取り出した。
火照った体に、ひんやりとした瓶が気持ちいい。頬に当ててみると、より気持ちがよかった。
「たしか蓋でこの玉を落とすんだったよね」
言いながら瓶を床に置いて、蓋の凸型の部分をガラス玉に当ててみる。穴が空いている突起に、玉がおさまっていた。
上から手のひらで圧力をかけると、ポンッという気の抜けた音と共に玉が落ちる。その感覚と音が気持ちよくて、思わず「おお」と声が漏れた。
隣でルミもノエルの見様見真似で玉を落とそうとしているが、なぜか悪戦苦闘している。
「もう少し力を入れたらいいんじゃない?」
「いや……瓶を割りそうで怖くてな」
「ああ、力強いもんねえ。私やろうか?」
「うん、頼んだ」
ルミから瓶を受け取り、同じようにして玉を落とすとルミも「おぉ」と声をあげた。それがおかしくて、二人して笑い合う。
一口飲んでみると、優しい甘さと爽やかな微炭酸が舌に心地良かった。玉があるから一気に飲めないようになっているのも、風情があるように感じる。
瓶を傾けて飲む度に、玉が瓶にあたりカラン、と音を鳴らすのも面白い。
「じゃ、みんなのとこ戻ろっか」
「うん」
「どうする? みんなにも言う?」
「うん、ちゃんと自分から言うよ」
「そかそか、うん、それがいいよ」
部屋に戻ると、全員がローテーブルを囲んでトランプをしていた。ラウダがかなり大人げないことをしたらしく、フレンに「大人げないのだわ! 反則!」と詰め寄られている。
ラウダは遊びになると容赦がないんだよなあと笑いながら座ると、ルミが深呼吸をした。
「みんな、話があるんだ」
ルミが普段通りの凛とした声で言うと、全員が彼女のほうを向いた。ルミの顔を見た瞬間、フレンとラウダも静かになり、姿勢を正した。
「私な……どうやら上級淫魔になったらしい」
ルミの声が、静かな室内に響いた。アイコは「なるほど」と顎に指を当てている。反応はそれぞれ違った。ラウダは顔色ひとつ変えず「まじか」と短く呟き、フレンはきょとんとしている。
カイは「すごいじゃん」と呑気な言葉を発していた。アルはアルで「なんだかかっこいいー」と、いつも通りの間の抜けた声を出した。
それぞれ思った通りの反応に、ノエルはルミに微笑んだ「だから言ったでしょ」と。ノエルはそんな仲間達が、誇らしかった。
「まあそういうこともあるんちゃうか? 知らんけど」
「でもね、ルミすごく気にしてたんだよ、受け入れてもらえるかって」
ノエルがルミの不安を代弁すると、アイコが顎から指を外してテーブルを叩いた。
「何言ってんのよ! あたしを受け入れてくれた皆がそんなこと気にするはずないじゃん!」
声を荒げて立ち上がるアイコをラウダが指をさして笑った。アイコはそんなラウダを睨んでいるが、ノエルも正直笑いを堪えるのに必死だった。
もっとも、アイコに対してというよりもラウダに対する笑いだったが。
「ガッハッハ! 説得力がちゃうよな」
「ぷっ……たしかに。ラウダもすんなり受け入れられたしね」
「せやで!」
「誇るところじゃないからね~? 元会長~?」
冷静に考えると、なんだか面白くなってきた。二人とも、一度は敵として戦ったのだ。ラウダはカイの母親も手を出してしまった魔薬を流通させていたし、カイも思うところがあるはずなのに、すんなりと受け入れられた。
魔女の家というのは、そういう場所なのだとノエルは改めて思った。過去の罪は罪として憎みながらも、償おうとする罪人までをも憎まない。
そんなお人好しの集団なのだと、ノエルは自分のことを棚に上げて思った。
仲間達の反応を見て、ルミはぷっと吹き出し、大声で笑った。
ひとしきり笑った後、彼女はすでにルミのカミングアウトなど過ぎた話だと言わんばかりにラウダとアイコを弄っている仲間達の顔を見て、ノエルの肩を叩いた。
「たしかに杞憂だったな」
「みんなお人好しだからね」
「あんたが一番お人好しよ!」
「あれ?」
「お姉ちゃんが一番人のこと言えないのだわ!」
自分に矛先が向くとは思っておらず、呆けた顔をしているとラウダとアイコを弄っていた皆が今度はノエルを弄りはじめた。
いい人だとかお人好しだとか散々言われて、顔を赤くしながらルミの背中に隠れていると料理が運ばれてきた。
仲居は悪魔だった。
「アオイと申します。お料理とお酒をお持ちいたしました」
「よ! 待っとったで!」
アオイと名乗った仲居は丁寧に三つ指をついてお辞儀をした後、テーブルに手際よく料理を並べていく。酒はケースに入れた状態で、ノエルのそばに置かれた。
料理はとても豪勢だった。鯛という少し高級な魚の煮付けに、ハンマークラブのしゃぶしゃぶ、お櫃に入ったご飯に数々のご飯のお供。魚介を中心とした食事で、米酒がよく合いそうだと思った。
アオイは料理を並べ終えるとまた三つ指をついてお辞儀し、部屋を出た。
全員、目の前の料理に釘付けになっている。ノエルはそんな光景に満足しながら、米酒をフレンとアル以外の全員のグラスに注いだ。フレンには炭酸水、アルにはミネラルウォーターが用意されている。
あまりにも気の利いたおもてなしに、ノエルはこころが温かくなるのを感じた。
「じゃあみんな、日頃お疲れ様ということで! 乾杯!」
乾杯をした瞬間、全員が料理を貪りはじめた。鯛の煮付けは一匹丸々が舟形の器に乗せられており、少しずつ摘んで食べるのがなんとも乙だ。甘い味付けの奥に感じる旨味が、食べるごとに食欲を促進させてくる。
ハンマークラブのしゃぶしゃぶも、殻が剥かれた状態で出されている。ハンマークラブは旧時代のカニという生き物が魔物化したものだと言われており、カニにあったハサミがハンマーのように変質している。
ハンマーとして振り下ろされる部分を掴みながら、ハンマークラブの腕にあたる部分の身を出汁に浸して食べるのは、なんとも言えない贅沢感があった。
そうして豪華な食事を終えた頃にアオイが来て、テーブルの片付けをし、布団を敷いてくれた。ラウダは「そろそろ寝るわ、また明日な」と食べすぎて膨らんだ腹を擦りながら、自分に与えられた部屋にアオイの案内のもと引っ込んでいった。
ノエルは一番広縁に近い布団を陣取り、その隣にルミが陣取り、残りはじゃんけんで決められた。ノエルは自分もじゃんけんでいいと言ったのだが、アイコが「あんた窓際じゃないと寝られないでしょ」と言ったのだ。
灯りを消して暗くなった部屋の布団に寝転びながら、なんとなく窓のほうを見る。星明かりが綺麗で、思わずため息が漏れた。
しかし、寝られない。
どうしたことか、皆が寝静まったというのに寝られず、布団の上で身動ぎをしている。最近はルミと寝ることが多く、大勢の人と一緒でも寝られると思っていたが、どうも違うらしい。
ルミだけが特別なのかと思うと、途端に恥ずかしくなってきて、布団に潜っていられなくなった。
広縁に腰をかけてみるも、どうも落ち着かない。
少し、部屋を出てみようかな。もう一回お風呂入るのもいいかも。
そろりそろりと部屋を出て、もう一度湯船に浸かり、体を温める。明日は洞窟に行って、水の精霊との合一だ。明日のことを思うと、やはり不安だった。
これまでは合一時に痛みや恐怖が沸き起こってきただけで、気を失うようなことはなかったが、本来他社との合一というのは自我崩壊を引き起こしかねない危険なものだ。
それは、正史世界のノエルの経験からもわかることで、それを自分自身の過去のように思っているからこそ、不安感は拭えなかった。
湯船から出てまたラムネを買い、なんとなく庭に出てみる。縁側に腰をおろして、池に反射する月明かりを見ると、自分がちっぽけな存在かのように思えてきた。
カラン、と瓶の中で玉が転がる音。
聞こえてくる木々のざわめき。火照った頬を撫でるそよ風。今感じるものすべてが、静かにノエルの心を蝕んでくるようだった。
「ここにいたのか」
聞き慣れた声に振り返ると、ルミがいた。なぜだか少し離れたところで、ぼうっとしているように見える。
トントン、と隣を叩くと彼女はゆっくりと隣に座った。
「眠れなくて、もう一回お風呂入っちゃった」
「夜の風呂か、温泉宿の醍醐味だな」
「温泉なんてはじめて来たけど、気持ちいいもんだね」
料理の用意も片付けも、布団の用意まですべて誰かがやってくれるということには落ち着かないところがあるが、この空間は落ち着きがあり、風情もある。夜に眠れず風呂に入り、こうして縁側でぼうっとしているのも嫌いじゃなかった。
ただ、やはり不安感は拭えない。
「ルミはさ、もし異世界の自分と合一しなきゃってなったら、どうする?」
「ん? そうだな……」
ノエルの突然の問いに、ルミは黙り込んだ。
それから縁側に手をつき、空を眺めて、口を小さく開く。
「するんじゃないかな」
ぽつりと言った言葉は弱々しい声音だったが、真実味が感じられた。ルミならたしかにそうするだろうと、ノエルも確信できる。
ノエルはルミの肩に頭を預け、ラムネを一口飲んだ。
「迷ったりはしないの?」
「あまりしないかもな」
「どうして?」
また、カランとガラス玉の転がる音と、ゴクリとノエルの喉の音が響いた
「うまく言えないが、ノエルが味わってる感覚というのを私も味わってみたいし、それに異世界の私が必要性を感じたのなら、きっと必要なことだろうからな」
ゆっくりと、優しい口調で紡がれた言葉に、ノエルは「そっか」と短く答えた。自分で聞いておいて、なんと返せばいいのか、わからなかった。
ルミはいつも、私が精霊と合一するとき傍にいてくれて、抱きしめてくれて……。キツイってわかってるのに、迷わないんだなあ。凄いな、ルミは。
そんなことを思いながらまたラムネを飲み、ふうと息を吐く。
「不安か?」
「うん、正直ね、正史世界の私のこともあるし」
「だよなあ……」
「私が私じゃなくなるのが、私は怖いんだ。ルミにはああ言ったけど、みんなが離れていくんじゃないかって不安もあるし」
正史世界のノエルと話をしたとき、彼女は自分でも自分が何者かわからなくなっているように感じた。口調もおかしかったし、テンションも少し変だった。何より、彼女は悲惨な話をしていたのに笑っていたのだ。
自分もそういう風にならないという保証は、どこにもなかった。
そうなったとき、自分自身のことをどう思うのか、周りが自分をどう見るのか、想像するだけで手が震える。
そんなノエルの肩を、ルミは優しく抱いた。
「もしそうなりそうになったら、お前を繋ぎ止めてやる」
力強く発せられた言葉に、じんわりと涙が浮かぶ。
「ほんとう?」
「うん、本当だ。私だけじゃない、みんなそうしようとするだろう」
「うん……」
「私はお前が好きだからな。みんなもそうだ。ノエルは皆に慕われている。それはこれまで、お前がしてきた行動の結果で、お前がみんなに与えてきた気持ちのお返しのようなものだ」
ノエルはたまらなくなって、ルミの肩に自分の額を擦り付けた。涙が、一粒、また一粒とゆっくり流れ落ちる。
肩が濡れていることに気づいているだろうに、ルミは空を見たまま微笑んでいた。
「だから、不安なときはそのみんなの気持ちに甘えていればいいさ。もちろん、私に甘えてくれるのも私は嬉しい」
「うん……ありがとう」
未だ胸中に不安は残るが、少しだけ気分が楽になってきた。今は頬を撫でる風も、木々のざわめきも、さっきよりもずっと心地良いものに思える。
涙を拭ってから、また改めて彼女の肩に頭を預けた。
「ねえ、一緒に寝てくれる?」
「もちろん」
「へへへ、ありがとう」
しばらくそのまま二人で庭の風景を楽しんでから、ノエルはルミと一緒の布団で眠った。今度は、寝苦しいこともなく寝付けないということもなく、目を閉じただけで自然と眠りに落ちた。
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