35.心(ルミ視点)
酷いものだった。店に入った瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。店に入った瞬間に感じたのは、確かな腐敗臭。人が死んでいる臭いだ。店のマスターの死に顔からは、苦しみながら息絶えたことがよくわかる。
ノエルは、彼をただ呆然と見つめ、虚ろな声色で言葉を吐いた。
彼女には、涙も叫びもない。隣りにいて感じるのは、強烈な怒りと悲しみと憎しみと絶望だ。ルミの心の中にも、黒く渦を巻くような気持ちが沸き起こっている。人間とは、何も知らずに、ただ平和に暮らしているだけの人間を殺せる生き物なのか。
ふと、カウンターに紙があるのに気づいた。アルが森にいる。ノエルに見せると、彼女はふらふらと店を出た。影扉を使えばいいのに、茂みから森に入り、木々が生い茂るなか生傷を作りながら進んでいる。
「ノエル、なあノエル!」
「気を確かに持て! こっちを見ろ!」
声をかけるも、反応はない。まるで聞こえていないようだ。
アルと再会し、誰がこの惨劇を引き起こしたのかを知った。騎士団だ。ルミは目眩がしそうだった。人々を守るはずの騎士団が、罪もない人々を虐殺したのだ。
元京都騎士団員として、許せない蛮行だった。ノエルの友として、到底赦したくない愚行だった。
ノエルは騎士団と聞いた瞬間、影扉を使って騎士団屯所に向かった。ルミも当然ついていった。
騎士団員が出てきて取り囲み、彼女が瑪那を吸うのを見て、騎士団長を一瞬にして拘束してしまったのを見て、ルミはたまらなく恐ろしくなった。
自分はどうするべきなのだろう。どうしたいのだろう。
考えたが、脳が答えを出す前に体は既に答えを出していた。ノエルにしがみつくようにして抱きつき、説得する。
恐ろしい。自分の知る優しいノエルがいなくなるのが、たまらなく怖い。このままでは、ノエルの心は復讐心に囚われてしまう。アイコに対し、彼女は仲直りできるかなと言った。
そんなノエルの心が、二度と帰ってこないような気がしたのだ。
ノエルが気を失った後、たまらなく目の前の騎士団長が憎いと思った。アルにノエルを任せ、立ち上がり、彼に詰め寄る。
「懸命だな、俺を殺してなんになるというのだ? 人族と戦争でもしたいのか」
騎士団長の言葉に、ルミは拳に力が入っていた。額に青筋ができる。
「何になる、だと?」
騎士団長の顔が眼前に迫る。自分自身の体が、理性の制御下を離れたような不思議な気分だった。ノエルも、こんな気持ちだったのだろうか。そう思うと、やはりこの男を赦すことはできなかった。
「貴様は自分たちが何をしたのかわかっていないようだな」
「正義に基づいて行動したのみだ!」
「正義だと?」
悪人を裁けば、それは正義といえるかもしれない。
では、彼らは悪人だっただろうか。違う。ルミは正直、彼らのことをよくは知らない。一度会っただけだからだ。それでも、彼らは間違いなく善人だった。
ノエルとアイコ、二人の娘のことを誰より心配し、仲間が出来たことに涙を流して喜んだのだ。父親を殺され、幼馴染に裏切られ、仲間を失い、それでもなおノエルが狂わずにいられたのは、間違いなく彼らの存在があるからだ。
「一人の少女の心の拠り所を、大した根拠もなく問答無用で奪う。娘同然の少女を守ろうとした親心すら許さない。その行いを、どうやって正義と呼べる?」
断じて、呼べはしない。
「幼い頃から一緒に暮らし、面倒をみた娘を守ろうとすることは悪なのか?」
「だが、そいつは魔女だ! 悪魔だ! 街を焼いたんだぞ!? 福岡は千年前にも魔女に滅ぼされかけた!」
違う、間違っている。魔女エラは街を焼いてはいない。むしろ、魔導兵から街を守った英雄なのだ。ノエルもそうだ。魔導兵から街を守っていた。それを見ていた人間もいるだろうに、あのときノエルを庇う人間は誰一人としていなかった。
ルミはずっと、それが許せなかった。
「貴様は、自分の娘が魔法使いになったら、処刑するのか?」
「……」
彼は、口ごもった。ルミは剣の柄に手をかけそうになり、深呼吸をした。殺してはならないと言ったばかりなのに、自分が目の前の男を切り刻んでしまいそうだ。
「正義だと言うなら、なぜその通りだと即答できない?」
「……」
「話にならないクズだな」
吐き捨てるように言って、ルミはノエルを抱きかかえた。うつろに影扉を出してもらい、今一度騎士団長に向き直る。彼は、呆然と立ち尽くしていた。
「この子はな、貴様らが思うような魔女じゃなく、遊ぶのが好きで食べるのが好きで寝るのが好きで……楽しいことが大好きな、ただの女の子なんだ」
なおも、彼は言葉を返さない。
「貴様らの仕事は、笑顔を奪うことなのか?」
それだけ言って、ルミは影扉に入った。