3.約束という名の契約
眼の前に、花畑が広がっている。これは夢だろう、とすぐにわかった。この場所には、見覚えがある。誰もいないのに不思議と朽ちる様子がない家があり、そのすぐそばには工房のような設備を備えた小屋がある。
金床も炉もいずれも整備されており、埃一つ付着していない。
しかし、小屋から少し離れたところにある台座に刺さった剣には蔦が絡み放題になっていた。剣には瑪那回路が刻まれており、複雑な幾何学模様が形成されている。
瑪那回路が刻まれた魔導剣という種類の剣だった。
村の近くにある迷いの森。別名精霊の森とも呼ばれるが、子供の頃、ノエルはアイコと何度か訪れていた。本来は来てはいけないと言われている禁足地だ。
ノエルが視線を動かすと、自分の体が映った。手足が小さい。子供の頃の記憶をもとにした夢なのだろう。
隣にいるアイコもまた、幼かった。幼いアイコは金色の髪を風になびかせ、目を輝かせて剣を見ている。
「これ、これすごい剣だよきっと! 精霊の剣だって!」
「えー、おとぎ話でしょ?」
「やっぱりあったんだよ!」
精霊の剣のお伽噺。昔、アイコがよくノエルに聞かせていた話だ。精霊の剣と呼ばれる特殊な魔導剣が精霊の森には千年間保管されているのだ、と。
だが、魔導剣が広まったのはここ百年ほどの話である。千年前は剣どころか瑪那回路を使った魔道具すら存在せず、瑪那回路を用いて漂流物を再現し始めたのも五十年ほど前のことだ。
ノエルは呆れたように笑いながら、興奮してぴょんぴょこと飛び跳ねる幼馴染の肩を叩いた。
「違うかもしれないじゃん」
「だってこんな思わせぶりに台座に刺さってるのよ!? 絶対伝説の剣だよ」
「精霊の剣じゃなかったっけ」
「それにこの瑪那回路! 剣身にまで入ってる! ふつくしいわ……」
この会話にも、ノエルには覚えがあった。
十歳の頃の記憶だ。今から八年前。アイコがお伽噺に出てきた精霊の剣が欲しいとずっと言っており、精霊の森に探しに来ていた。
「抜いてみようよ!」
アイコが言いながら、剣の柄に手をかける。折れないかどうか、心配になるほどに風化している剣は意外にもびくりともしない。
アイコは抜けなかった。
――私もたしか、抜けなかったんじゃなかったかなあ。
「だめかあ」
「本当にびくともしないね」
「選ばれた人にしか抜けないやつよ! お約束よ!」
「いや知らないけど」
「ノエルもノエルも!」
幼い日のノエルは眉をしかめながら、アイコに促されるがままに剣の柄に手をかけた。両手で柄を掴み、少し力を入れると拍子抜けなほどすんなりと剣が抜けた。
記憶と今見ている夢の光景が、違っていた。
――まあ夢だしね。
納得しながら幼いノエルの視界を通じて剣を見るが、見れば見るほどに精巧な作りをしていることがわかる。瑪那回路は複雑過ぎて、門外漢であるノエルにはさっぱりわからなかったが、これを作ったのが稀代の名匠だろうことは察しがついた。
瑪那回路は刃にまで、びっしりと刻まれていた。
剣の柄には、なぜか引き金のようなものが付いている。
「すごい! ノエルすごいすごい!」
アイコがはしゃぎ回りっている。ノエルはただただ驚き、剣を見つめるばかりだ。
――このとき、アイコのほうが私より強かったんだよね。なんでかわからないけど、強くならなきゃいけない気がして、この後お父さんに剣を習い始めたんだっけ。
ノエルは薄れゆく意識のなか、ふと思った。
――どうして、そんな気がしたんだろう。
◇◇◇◇◇◇
目が覚めると、クリーム色の天井が目に飛び込んできた。首だけを動かしてあたりを見渡すと、工具や魔道具の部品、漂流物の部品と思しきものが散らばっている。
アイコの部屋だった。
ノエルは自分がまた気絶していたことを理解すると、のっそりと起き上がり、ベッドの縁に腰をかける。
影から、悪魔が姿を現した。
「ノエル、大丈夫か」
「うん、ありがとうね」
「いや、私は何も……」
悪魔が、露骨に顔を逸らす。ノエルは彼女を抱きかかえ、自分の膝に座らせた。
「本当に感謝してるんだよ」
「実を言うと、あの瞬間より前からお前の影に潜んでいたんだ」
「そうなの?」
聞くと、悪魔は気まずそうにゆっくりと頷いた。
「ああ、だからもっと早くに契約を持ちかけていれば……」
悪魔の声はぶっきらぼうに聞こえたが、ノエルには自身を気遣っているのがよくわかった。眼の前の悪魔が本気で悔やんでいるということも。契約を通じて、悪魔の感情が少しだけわかるのだ。
「いいんだよ、仕方がなかったんだよ」
「そうか……いや、そうかもな」
悪魔がため息をつく。ノエルは「あ」と短く言って、微笑んだ。口の端が、ぴくぴくと痙攣している。
「そういえば、名前は?」
「名前か……うつろう魂、救世主の代理人、出来損ないの淫魔とか」
「ええ……名前じゃないんじゃないかな、それ、悪口混ざってるし」
ノエルは「うーん」と唸り、しばらくしてから指を鳴らした。
「うつろ! うつろにしよう、そのほうが可愛い!」
「好きに呼べばいいさ」
「じゃあ決まりね、うつろ」
ノエルが呼ぶと、うつろが笑った。仮面の姿のせいで表情はわからないが、確かにうつろは笑っていた。
ノエルも思わず笑ってしまう。悪魔は人間と何も変わらないのだと。
笑うと楽になるというのは、本当のことらしいとノエルは初めて知った。あれだけ重かった体が、少しだけ軽くなっていたのだ。
それでも、ノエルの心に重くのしかかるものがあった。
「うつろ」
「ん?」
「私は、四神教と戦いに行く……お父さんを殺した奴もどこかへ消えたし」
「そうだな、それがいい」
ノエルはあのときのことを思い返していた。ノエルが斬り伏せたと思っていた敵は、霧状になり竹下方面へと消えた。
なぜ父親が殺されなければならなかったのか。あれは誰なのか。その答えは四神教を追うことでしか見つけられないという確信が、ノエルにはあった。
「協力してほしい」
ノエルは膝の上にいる契約悪魔に、深々と頭を下げた。
「私達は契約したんだ。もちろん、協力する」
「ありがとう」
「ただ、私からも一つ、頼みごとがしたい」
「うん? いいよ、なんでも言って」
なんでも、と軽々しく言ってはいけないと昔アルバートから言われたことがあったが、これはノエルにとって紛れもない本心だった。
うつろはどこか虚空を見つめている。
「私は、上司に言われてある男を探している」
「上司……?」
「救世主、白教で言うところの女神だ」
「へえ……神様って悪魔の上司なんだ」
「というより、彼女もまた悪魔の一人だな」
これには流石のノエルも驚き、「えっ」と声を漏らした。白教は、倭大陸で最も主流な宗教である。かつては四神教が主流だったそうだが、暦がグリム歴に切り替わった2000年前、白教という宗教が誕生し、四神教は鳴りを潜めたのだという。
白教が祀っている神が悪魔だというのにも関わらず、世間は悪魔を迫害している。皮肉な話だ、とノエルは思った。
「で、探している人って?」
「英雄と呼ばれている大罪人だ」
「英雄なのに大罪人なの?」
「かつては英雄と呼ばれたが、大きな罪を犯し、救世主が監獄世界を作り閉じ込めたのだが、脱走されてしまってな」
「スケールがでかいね」
ノエルは自分が話をいまいち理解できている気がしなかったが、力強く頷いた。極悪人が脱獄したから探している、ということだけはかろうじてノエルにも理解できた。
手を貸さない理由は、一つもなかった。
「もちろん、手伝うよ」
「助かる」
「これも契約だね」
「契約?」
「うん、約束をちぎるってこと」
ノエルは、父親殺しの犯人を見つけ、四神教の思惑を知りたい。事の次第によっては、四神教と戦うことも目的の内である。
うつろは、脱獄した犯罪者を捕まえたい。
目的は異なるが、互いに手を取り合うという約束。
うつろは「そうだな」と頷き、微笑んだ。
「あ、そういえば体は大丈夫か?」
「ん? まあ節々が痛む気がするけど」
ノエルは体を捻ってみるが、関節が悲鳴をあげていること以外には特に不調はなさそうだった。魔法を使ったことによる影響は、見られない。
「ならいいが、闇魔法には特に気をつけろ」
「どうして? そういえば闇って跳ね返るとどうなるんだっけ? 感情は絶望だよね」
「悪魔になるか、死ぬかの二択だ」
「おお、極端だなあ」
生きたまま悪魔になることは、この世界では基本的にはない。悪魔になるのは常に、死者の魂である。
本に書いてあった内容が誤りだったと、ノエルはこのとき初めて知った。
「生きたまま悪魔になるには負荷がかかる。耐えきれなければ死に、その後は魂が悪魔に変わるか消滅するかだ」
うつろの話は、絶望に飲まれると魔法使いは高い確率で悪魔になるということのようだった。
だが、悪魔になるのは大した問題じゃないな、とノエルは思った。なぜそう思ったのかはわからないが、悪魔も人間も魔族も大した違いはないというのがノエルの考えだった。
なぜその考えを持つに至ったのかも、ノエルにはわからなかったが。
「まあ、気をつけるよ」
「そうしてくれ」
手を差し出すと、うつろは影で小さな手を作り、握った。思わず口元が緩む。今度は、口の端は痙攣していなかった。