10.精霊の森のネルドラゴン
目が覚めると、宿のベッドで寝ていた。ルミが隣で心配そうに顔を覗き込んでいるのが見える。うつろは影に入っているが、ノエルを案ずる気持ちが契約を通じて伝わってきた。
何があったのか思い出そうとすると頭が痛むが、心はハッキリと記憶している。あのときの寒々とした感覚も、背筋にびっしょりとかいた汗の感触も。
ノエルは起き上がってから膝を抱えて丸まり、震えた。
「ノエル」
ルミの温かな手が、ノエルの背に触れる。
「ルミ……」
「ごめん、私――」
「あのときな、優しいノエルが消えてしまうみたいで、怖かったんだ」
ルミは微笑みを崩さず、だがしっとりとした声色で語った。
ノエルはただ静かに頷いた。
「お前は見ず知らずの私を助けてくれる優しい人だ。それも迫害されている魔法を使うことも躊躇わず」
ルミの手が、優しくノエルの背中を撫でる。
「だから咄嗟に止めてしまった、仇を取るチャンスだったろうに」
ノエルは首を横に振り、ルミに向き直り、手を取った。
「ううん、いいの、ありがとう」
その手はまだ震えていたが、背中まではもう震えていなかった。
ノエルはハッキリとわかった。殺したいという気持ちは当然ある。憎む気持ちは今でも燃え上がっている。
だが、仇や黒幕を殺して終わりというのは自分にとって好ましくないのだと。自分を好いてくれる友人に、恥じない終わり方でなければ納得ができないのだと。
そしてノエルは、ルミに笑顔を向けた。
「これからも私がおかしくなったら、止めてほしい」
「いいのか?」
「うん、お願い。これはきっと、ルミとうつろにしか頼めないから」
ノエルは咄嗟に手を離し、わざとらしく伸びをした。
ノエルの心に重くのしかかる疑念。敵が咄嗟に出した銃には、見覚えがあった。
「さーて! お腹すいたなあ!」
「夕飯、持ってくるように頼んでこよう」
「うん、お願い!」
「ついでに酒でも飲むか?」
ノエルはこくこく、と食い気味に何度も頷いた。
するとルミは笑って、部屋から出た。
ルミが去った瞬間、ノエルの顔から笑みが消える。影からはうつろが出てきて、ノエルの背中を優しく叩いた。
「お前の疑念と勘、誤りだといいな」
「本当にね」
ふうと息を吐いて、ベッドの縁に腰をかけ、窓の外を見やる。空はもうすっかり暗かった。耳を澄ませると、隣の部屋から工具をカチャカチャといじるような音が聞こえてくる。
アイコが瑪那技師としての仕事をして、金策をしているのだろう。
「まあでも、お腹が空いたのは本当だけどね」
「瑪那を激しく消耗したからな」
「あの剣……使い方には気をつけなきゃね」
激情に身を任せると、瑪那があの剣に自動的に吸い込まれていく。魔法の力が増幅しているような感覚もあったが、体内から大量のエネルギーが失われていくことは事実だ。
普通に魔法を使うよりずっと、疲労感がたまった。
話をしているうちに、ルミが女将と一緒に料理と酒を抱えて戻ってきた。うつろは咄嗟に影に潜る。
ノエルは二人のベッドの間にまでテーブルを引っ張り、ルミと女将から受け取った料理を並べた。女将が料理の説明をする。
ボアピッグ肉のハンバーグと、付け合せの人参グラッセ、ポテトサラダに女将が焼いたというパン。あとはコーンスープと、洋食屋のようなメニューだった。
「ありがとうございます」
「ツマミが欲しけりゃまた作ってやるからね」
「ありがたい」
女将が去ると、うつろが影から飛び出す。
「うつろはご飯どうする?」
「私はいい、ノエルの瑪那が膨大過ぎて腹がいっぱいだ」
「そうか、悪魔は契約者の瑪那も魔法を通じてエネルギーにするんだったな」
「ノエルは感情の起伏が人一倍激しい、食事要らずだ」
うつろがふっと笑いながら言う。うつろはノエルから離れ、枕にちょこんと座った。
ルミがガラス瓶から酒を注いでいる。ルミが自分のグラスに注いだのは、倭大陸では最も広く親しまれている米酒だった。
「ノエルにはこっちだ」
「ん、ありがとう」
ルミから受け取った瓶からグラスに注ぐと、薄桃色の発泡する液体がグラスを満たした。不思議そうに眺めていると、ルミが酒の説明を始めた。
この酒は博多の名産であるイチゴを使った酒で、炭酸酒というものらしい。もとは米酒に炭酸を入れたものだったが、今や果実酒に炭酸を入れるのが主流だそうだ。
あとは炭酸系の酒は麦酒が近年人気があるという。
どれもこれも、ラウダ商会の会長が広めたらしい。
酒の話をしているときのルミは、やけに饒舌だった。
「ふふっ、いい顔で喋るね」
「そ、そうか? 照れるな」
「お前ら早く食えよ」
うつろのツッコミで、ルミはハッとしてグラスを持ち上げた。
ノエルはなおも笑いながら、グラスを持ち上げる。
「じゃあ乾杯」
「うん、かんぱーい」
グラスを合わせ、ノエルは一瞬躊躇してからグッと炭酸酒を喉に流し込んだ。
感じたことのない感覚が、喉を駆け巡る。酒が喉から食道を通り、胃へ到達するのがよくわかった。舌がピリピリとするが、不快感はなく、むしろ爽快感がある。
「不思議……おいしい」
味はしっかりとイチゴだった。酒特有の苦みも感じるものの、イチゴの甘みのほうが強く、アルコールの度数もさほど強くはなさそうだった。
「これ弱いお酒?」
「ん? まあそうだな、度数は3度ほどだったか」
「はじめてだから弱いのにしてくれたんだね」
「最初は弱いのからはじめて、自分の限界を知るのが大事だからな」
ノエルは「へえ、そういうものなんだね」と言って、手を合わせる。いただきますと言って、ナイフとフォークを持ち、ハンバーグを一口食べた。
ボアピッグという魔物特有の臭みが、綺麗さっぱりと消えている。代わりに感じるのは肉汁から感じられる強烈な旨味と、獣型魔物肉特有の野性味あふれる風味。
ソースは味が強く、ケチャップとソースが使われているようだが、ソースからも肉の旨味が感じられた。恐らくは、焼いた後にフライパンに残った肉汁を混ぜてソースを作っているのだろう。
ノエルは料理のできにただただ感心しながら、料理と酒を交互に味わっていく。
そして、ノエルは炭酸酒を飲み干し、料理を食べ終える頃には麦酒まで飲んでいた。
顔がすっかり赤くなり、首がゆらゆらと左右に揺れている。
「どうやらこれくらいが限界のようだな」
「へへへー、そうみたーい」
対するルミは、まだ余裕がありそうだった。ノエルはそれが気に食わず、ルミにどんどん酒を勧めていく。ルミも勧められるがままに飲み干していき――。
「ノエル! いい気分だな!」
「あっはっは! ルミ声おっきい~」
二人して、完全にできあがってしまった。
食事を終えたのか、アイコが部屋を尋ねてきた頃には二人は肩を組んで大笑いしていた。アイコは顔を引き攣らせながら、空いた酒瓶の量を見て「ああ……」と頭を抱えている。
「作戦会議は!?」
「あー、あいこー、明日秘密基地行くよー、お仕事だよー」
ノエルがぐでんぐでんになりながら、アイコに伝えた。
首を傾げるアイコに、うつろが補足説明をする。ネルドラゴンの調査依頼を受けたが、今日は妨害を受けて途中で帰ってきたのだと。
「わかったわ」
「るみはねー、心当たりあるみたいだからー」
「心当たり? なんの?」
「四神教の拠点だ」
「あーね」
結局、明日はノエルとアイコがギルドの依頼を済ませ、その間ルミは街で聞き取り調査などを行うことになった。心当たりがあるという四神教の拠点へは、ノエルとアイコを待って全員で乗り込むことに。
ただ、アイコがいると転送扉が使えないため、馬車で行くことになった。馬車を依頼するための資金は、今日アイコが漂流物を売って稼いだらしい。
グダグダとした作戦会議を終えると、アイコは呆れたように笑いながら食器類を片付けて部屋を出ていった。
ノエルはベッドに寝転がり、目を閉じる。
ルミもまたベッドに寝転がっていた。
「わたしるみと飲むおさけ好きかも~」
「私もお前と飲む酒はいつもよりもっと好きだ」
「……お前らしばらく禁酒しろ」
うつろの鋭い声色を聞きながら、ノエルは眠りについた。
◇◇◇◇◇◇
翌日、ノエルは目が覚めると同時に強烈な喉の乾きに襲われ、魔法で水を生み出しガブガブと飲み、またベッドに倒れ込んだ。
「ノエル、起きてくれ」
「んー、あと5分」
「そう言ってから30分経ったからな!?」
「そだっけ」
ルミに肩を揺すられながら、渋々起き上がる。また水をたくさん飲んで、大きく伸びをした。ルミがカーテンを開けると、窓から強烈な陽の光が差し込んできて、ノエルは目を細める。
振り返ると、アイコが仁王立ちしていた。
「行くんでしょ? 秘密基地」
「ごめんごめん、準備するねー」
「ほら、朝食だ」
ルミが投げたパンを受け取り、食べながら身支度を整える。着たままになっていたシャツを着替え、ローブを再び羽織った。寝癖をなおし終えた頃にはパンも食べ終え、半分寝ていたようだった顔はシャッキリとしていた。
「ようし! 行こっか!」
「あんたねえ、人を待たせといて!」
「ごめんごめん、じゃあ行ってくるよルミ」
「ああ、街の情報収集は任せてくれ」
ノエルはこくりと頷き、笑顔でルミに手を振った。アイコが手配したらしい馬車が宿屋の前に停まっており、早速乗り込む。行き先は精霊の森の入口。
そこからは自分たちの足で進むことになった。
馬車に乗ると、あっという間だった。少し高い馬車を手配したらしく、サラマンホースという馬車を引く魔物のなかで最も速い種族だったのだ。二時間ほどで到着し、料金を支払い馬車を降りる。
アイコは「あっちに村があるから、そこの喫茶店とかで待ってて」と、御者に指示している。御者は怪訝そうな顔をしながら、了承した。
「さて、久々に行きますか」
「本当に久しぶりだね」
「秘密基地と言ったな? どこにあるんだ?」
「この森に湖があるんだよ、その辺」
子供の頃のノエルとアイコにとって、精霊の森は格好の遊び場だった。禁足地とされていたものの、二人は大人の目を盗んでよく遊びに来ていたのだ。
ノエル達は迷うことなく、精霊の森を突き進んでいく。
かつての二人は、精霊の森に綺麗な湖があるのを見つけた。その付近に小さな小屋を建て、アイコが拾ってきた漂流物や家具を運び込み、秘密基地を作ったのだ。
「そういえばあの秘密基地に置いた大きな漂流物あったよね、なんか機械の」
「洗濯機ね」
ノエルは「そんな名前だったのかあ」と言いながら、ため息をついた。
そんな記憶は、ノエルにはない。カマをかけたのだ。
ノエルは心に渦巻く疑念を押し殺し、改めて周囲を見渡した。
「水が綺麗だし、あの近くには食べられる木の実も結構あるから、ネルドラゴンが棲み着くには最適なんだよね」
「ノエルの割には良い勘してるわ」
「いやいや、魔物に関してはアイコより詳しいよ? ほとんど見たことないってだけで」
ノエルは悪魔に限定せず、魔に属する種族全てを学んでいた。父親が持ってくる論文を大量に読み、図鑑も愛読していたのだ。悪魔や魔族、魔物に関する知識は人並み以上だった。
アイコは「そうだったわね」と言いながら、肩を竦める。
しばらく歩くと、湖が見えてきた。
同時に、巨体が見えた。黄色い肌の大きな腹を持つドラゴン。ずんぐりむっくりとしたそのドラゴンには、翼はあるが体重のせいで飛べないという。
「いた、ネルドラゴンだ」
「寝てるわね」
ノエルはネルドラゴンまで駆け寄り、周囲を注意深く観察する。
ふと、ネルドラゴンの近くに何かが転がっているのが見えた。拾い上げると、それは注射器だった。注射針にはなにかの液体が付着している。
ノエルはアイコが持ってきた袋にその注射器を入れ、袋を縛った。
「早速手がかりがあったわね」
「何かわからないけどね、意味深だよね」
「あとは変なところはないが……どうする?」
ノエルは顎に手を当てて考え込んだ。
眼の前のネルドラゴンは眠りこけており、暴れだしそうな気配はない。結界を破ったというが、いまいち信じられなかった。
「精霊の森の結界って、救世主さんが張ったすごく強力なやつだよね」
「そうらしいわね」
「ネルドラゴンって体躯が大きい割に動きが俊敏だから怖いんだけど、力は弱いんだよ。結界を破るほどの力はないはずだよ」
ネルドラゴンの厄介なのは、この巨体で所構わず眠るところにある。眠りを妨げれば怒り狂い襲ってくる。街道の真ん中で寝られたときには、通行の邪魔になるため、襲われるのを覚悟で騎士団やギルドの冒険者たちが対処をするのだ。
積極的に人間を襲う種族でもなく、巣に人が入ったとしても頓着しない。
そもそも巣に帰ることがほとんどなく、縄張り意識というものもない。
ノエルは注射器を見つめながら、頷いた。
「これ持って帰って終わりでいいかも」
「あっけないわね」
「ここだったら人の邪魔にならないし、わざわざ怒らせるのもよくないからね」
ノエルは自分の考えを二人に説明する。
このネルドラゴンは何者かによって、意図的にここに連れて来られた。目的は恐らく、結界を破ること。ネルドラゴンに結界を破るほどの力を得させたのは、恐らくこの注射器に入っていた何らかの薬物だろうと。
目的を達した何者かは、ネルドラゴンを放置した。薬の効果が切れたのか、ネルドラゴンは習性通り周囲の食べ物を食べた後、眠りについた。
「あそこ、木の実が食い荒らされた痕があるから、しっかり食べたんだろうね」
「結局、よくわからないってことね」
「でも、この成分さえ分析してもらえば何かわかるはず」
「ここからはギルドや騎士団の仕事ということだな」
うつろの言葉に頷くと、ノエルはネルドラゴンの体を優しく撫でてから、湖を去った。
それから村にまで御者を迎えに行き、馬車で竹下へと戻った。