1.悪魔との契約
長閑な村に小鳥の囀りが響き渡る。部屋の中に射し込む陽光に目を細めながら、小鳥の声を聞き、ふうと息を吐いた。
博多行政区の竹下街から南西に進んだところにある秘境の村。来人村に生まれた少女ノエルは、今日も普段通りに机に向かってノートにペンを走らせ続けていた。
ここのところは毎日、勉強ばかりだ。
父親であるアルバートに剣の稽古をつけてもらいたいと思うものの、彼はまた仕事で数日間帰ってきていない。魔法と感情の関係についての研究も、座学だけでは行き詰まってきたところだ。
フィールドワークが大事なのよ、と幼馴染のアイコはいつも言っていたが――。
「村から出られないんだよなあ……なんでなんだろう」
昔から、アルバートや村長に口酸っぱく言われてきたことだ。村の外に一人で出てはいけないと。どうしてダメなのかと尋ねても、言葉を濁すだけ。
一人じゃなければいいのかと聞いてみても、村長は言葉を詰まらせていた。
「この村は嫌いじゃないし、むしろ大好きなんだけど、悪魔に会ってみたいんだよなあ」
もっとも、悪魔というのは滅多に人前には姿を現さない。それもそのはずだ。悪魔や魔族といった魔に属する種族たちは、人間に忌み嫌われているのだから。
悪魔と契約し、魔法の力を行使できる魔法使いたちも同様に嫌われ者だ。
来人村のある博多行政区では特に、悪魔と魔法使いは恐れられ嫌われ、蔑まれる。
「精霊術も似たようなものだと思うんだけどなあ、一部以外は属性が一致してるし」
各地で世界を巡る瑪那の調整をしているらしい精霊。その精霊が各地を見張るために飛ばしている小精霊という分身と契約したのが、精霊術士である。
精霊術士は、魔法使いと異なり人々から尊敬されている。
ノエルは息を吐いて大きく伸びをし、立ち上がった。二階から降りて台所に立ち、冷蔵庫を開ける。
「これも精霊術なんだった、便利すぎる」
異世界から来た漂流物を、ラウダ商会という大商会がこの世界でも使えるように調整し、生産した高級品だ。精霊術により瑪那を送り込み、エネルギーとして稼働している。
「もし精霊術の瑪那と、魔法の感情エネルギーによる瑪那が同質のものだとしたら……」
ぶつくさと言いながら冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いで飲む。窓の外からは小鳥の囀りが聞こえてきた。小さな鳥型魔物が近くにいるのだろう。
ノエルは麦茶を飲み込むついでに、大きく息を吐いた。
「やっぱ、引きこもってると限界だなあ」
コン、コン。
玄関扉が開く音がして、コップを置く。台所から出て玄関を見やると、アルバートが靴を脱いで剣を腰から外しているところだった。
短く切り揃えた黒髪に、これまた綺麗に切り揃えられた顎髭をたくわえた男。年季が入りすぎてボロキレのようになった革の外套が、鈍く光っている。
「おかえり、お父さん」
「おおただいま」
「早かったんだね」
「一旦な、一旦」
「一旦かあ」
言って、アルバートは懐から一枚の紙を取り出した。
ノエルは差し出された紙を素直に受け取ると、顰め面をした。
紙に書かれているのは、人相書きだ。
だが、決定的におかしな部分がある。
「んー? これじゃあ人相わからないじゃん」
書かれている特徴は、フード付きの黒いローブ。その背中には、金色の十字架の紋章が描かれているということ。顔はフードで見えなくなっていた。
「四神教という宗教団体全体の指名手配書なんだ、それ」
「四神教……確か古代宗教だっけ」
「お、よく学んでいるな、良いことだ」
アルバートに頭を撫でられ、ノエルはふぅと微笑んだ。
「これ貼ってきてくれ、タンドの店にな」
「いいけど、少しはゆっくりしていけるんだよね? 確か活発化してる魔物の調査だっけ」
どこか虚空を見据えながら言うと、アルバートが頷いた。
「ああ、今日はいられるぞ」
「今日は、かあ……まいいや! 行ってくる!」
靴を履いて、扉を開ける。
あ、そうだと振り返り、台所を指した。
「今朝作ったスープと、今朝焼いたパンがあるから食べていいよ」
それだけ言うと、父親の返事を待たず外に出た。強い日差しが瞳を焼き、反射的に目を閉じる。それからすぐに目を開けて、伸びをした。
木々に囲まれた秘境。数軒の家々が並んでいるだけの簡素な村だ。ノエルはこの村以外のことをほとんど知らないが、アイコが言うには街にはもっと色々な店があるらしい。
ここにあるものと言えば、アイコの父母が営む喫茶店兼酒場だけだろう。
あとは、この村の外周をぐるっと囲むようにしてある迷いの森、別名精霊の森。
「アイコ今日お師匠さんのところだっけなあ」
ぽつりぽつりと歩くと、すぐに店に辿り着く。店に入ると、カランコロンと小さな鐘の音がノエルを歓迎した。
カウンターの奥からタンドとその妻であるスールが顔を出した。ノエルを見るなりふたりとも笑顔になり、ノエルもまた自然と笑顔になった。
「ノエルちゃんいらっしゃい」
「おじさん、これ貼ってもいい?」
手配書を二人に見せると、彼らは目を見開いた。
「ようやっと手配されたのか」
「物騒よねえ、本当」
四神教といえば、近年世間を騒がせている犯罪集団と言われている。古代宗教の名前を借りているだけというのが、騎士団と各自治区の市長の見解らしいと、以前行商人から聞いたことがあった。
「だねえ……で、貼ってもいい?」
「もちろん、そこの壁にでも貼ると良い」
タンドは、ちょうどノエルの真後ろにある壁を指した。テーブル席の奥の壁。カウンター席からは見えないが、目立つところだった。
「ありがとう、おじさん」
椅子を適当にどかして、壁に手配書を貼ろうとしたが、そう言えばピンがない。
「はい、これ」
ちょうどいいところに、スールがピンを持ってきた。
「ありがとうございます」
照れたように笑うと、スールが「相変わらずそそっかしいねえ」と呆れたように微笑みながらカウンターに引っ込んでいった。
「これでよし! なんか歪んでる気がするけどよし!」
手配書を貼り終えると、ノエルは腰に手を当ててうんうんと頷く。
右肩上がりになっているようにも見えるが、遠目で見ればわからないだろうと高をくくった。
すると、ドタドタと慌ただしい音が聞こえてきた。
「アイコ、いたんだね」
言ってから音のしたほうを見ると、ダボッとしたパーカーを着て手に革手袋をした金髪の少女・アイコが腕組みをして立っていた。
「来たなら声かけてよ!」
手には、ドライバーが握られている。また漂流物を弄っていたのだろう。
彼女は、異世界からの漂流物をこよなく愛し、漂流物を扱う瑪那技師を目指していた。
「今日もお師匠さんのとこに行ってるのかと思って」
「今日は休み! 昨日言った!」
「そうだっけ?」
呆れたように笑うアイコに、ノエルは「へへへ」と気の抜けた笑みを返した。
「それ、四神教の手配書?」
アイコがじっと見て、腕を組んでいる。
「そうだよ、お父さんが貼れって」
「……ズレてるわ」
アイコが手配書の右上を指した。
「え、気の所為だよ気の所為」
「いや絶対ズレてるわよこれ、右肩上がりになってる」
「誤差だよ誤差」
「もう、ズボラなんだから」
言って、アイコはノエルを押しのけ、手配書を貼り直した。何度も位置を細かく調整し、ようやく決めてピンを打ち付ける。
ノエルはカウンターの近くまで下がって、几帳面な幼馴染の所作を観察していた。アイコが隣まで来て、じっと手配書を見つめた後、「よし」と明るい声色で呟いた。
「アルバートさんはまた仕事?」
「さっき帰ってきたとこ」
「相変わらず忙しいわね」
「活性化してる魔物の調査とか色々あるんだって」
「ああ、なんか最近暴れてるの多いわよね」
ノエルは、記憶のどこかに仕舞ってある知識を引っ張り出していた。
魔物というのは、基本的には人を襲わない。積極的に襲う種もいるのだが、絶滅寸前だ。たまに人を襲う魔物がいたとしても、大抵の場合は人間が悪いのだ。
縄張りに踏み込んだとか、先に手を出したとか。
「魔物に四神教に、騎士団も大変だわ」
「だねえ」
「ノエルは仕事探さないの?」
「うっ……」
急に飛んできたトゲにノエルは受け身を取れず、胸をおさえた。
「魔法の研究って言うけどさ、ずっと座学って限界じゃない?」
「うっ……」
はあはあと息を切らしていると、タンドがコーヒーをノエルの眼の前に置いた。
コーヒーカップを震える手で持つ。
「お、お父さんがダメって言うんだもん」
「相変わらずの過保護か」
「そうなんだよねえ」
手が震えながら苦笑するノエル。
アイコも苦笑いしながら、カウンター席についた。それを見て、隣に座りコーヒーを一口飲む。ほのかな酸味と鋭い苦みに心が落ち着きを取り戻していくようだった。
「まあ、いつかは出ようと思ってるし、計画もしてるよ」
「アルバートさんはどう説得するの?」
「んー、剣で一本取れたら許してくれるでしょ」
「ああ、ありそうね」
だが、それが最大の課題だった。
ノエルは大きなため息をつく。
「随一の剣豪から一本取れたらいいわね」
「あーもう、考えないようにしてたのに」
ノエルも剣の才能がないわけではないが、彼ほどではなかった。アルバートと一緒に仕事したことのあるハルカという騎士団の人が、言っていたことがある。
彼は倭大陸一番の剣の使い手だったと。今は一番ではないらしいが、それでも滅法強い。
「まあ、なんか、こう……色々頑張って」
「言い方がなあ、なんだかなあ」
ため息をついてコーヒーを飲み干し、代金を払って席を立つ。
「何、もう行くの?」
「うん、お父さん残してきてるし」
「そうね、たまには一緒にいなさい」
いつになく湿り気を帯びた声を出すアイコに一瞬首を傾げながら、店の全員に手を振り、彼女らが手を振り返すのを見届けてから店を出た。
母親が生まれてすぐ亡くなり、父親も頻繁に家を空けるノエルにとって、彼女たちは家族同然だった。
「ん? 誰だろう」
ふと、街道に繋がる来人村唯一の門のあたりに人影が見えた。
行商人が訪れる予定はなかったはず。だとすれば、考えられる可能性はアルバートの仕事仲間だろうが、それにしては様子がおかしかった。
警戒しながら近づくと、段々と人影がハッキリとしてくる。
「黒いローブ……」
フードを深く被っているせいか、性別はわからない。背格好もどちらにも見える。背中は見えないから、件の四神教の人間かはわからないが、明らかに怪しい。
腰の剣の柄に手をかけながら、相手の前に立つ。
「どちらさまですか」
「ノエルさんですね」
仮にここでは彼とするが、彼の声は奇妙だった。耳に届いている。何を言っているのかも認識できるのに、男の声とも女の声とも認識できなかった。
「認識阻害……?」
「恨むのなら、世界を恨んでください」
彼が言い放った瞬間、ノエルの視界に空が飛び込んできた。あまりにも一瞬の出来事で、何が起きたのか理解するのが遅れてしまった。
ノエルは吹き飛ばされたのだ。音も、予備動作もなく、何かしらの攻撃を受けた。
体が地面に叩きつけられ、細いうめき声をあげた。
立ち上がり、剣を抜く。
眼の前で短剣を持ち、ぬらりと立つ彼を注視しながら剣を構えた。
「あなた誰ですか」
「知る必要がありますか?」
まるで、これから死ぬのにとでも言いたげだった。
ノエルは唇を噛み、果敢に向かっていく。
「お手並み拝見」
彼もまた駆け出した。
眼前に短剣の切っ先が迫る。かろうじて受け流すも、速すぎて次の動作が間に合わない。斬り返そうとした瞬間、彼の手から黒い液状のような霧状のような何かが飛び出した。
謎の物体がノエルの体を吹き飛ばす。
「魔法……」
ノエルは本で読んだ記憶を呼び起こしながら、体勢を整えた。
これは闇魔法だ。絶望の感情と呼応する属性の魔法であり、暗黒物質を作り出し自在に操ることができる。名前は暗黒操術。
「魔法使いか」
闇属性は、精霊術にはない数少ない属性だった。
「闇魔法もご存知でしたか」
「憧れてたからね」
「じゃあ憧れに散りなさい!」
「嫌だ!」
地面を蹴り、思い切り駆け出す。懐に入りさえすれば、と思ったが、彼の懐に入りかけた直前、敵が眼前から消えた。
周囲を見渡すも、彼の姿はない。
「どこ行った……」
こういう魔法はなかったか。ノエルは考えた。
これも闇魔法だ。悪魔の住む影の世界の表層に、身を潜めることのできる潜伏穴という魔法。
となれば、影の世界のある地下に彼はいる。
ノエルはわざとキョロキョロとわからないフリをし、攻撃を誘った。首は無造作に動かしているが、視線は確実に動く影を探している。
一つだけ、不自然な丸い影があった。動いてはいないが、丸い影を落とすようなものは周囲にはなく、明らかに不自然だ。
影が動いた。少しずつ近づいてくる。
あと少し、もう少しで間合いに入る。
――入った!
思わず剣を握る手に力が籠もる。
影が大きく動いた。
――出てくる!
そう思った次の瞬間、ノエルの視界が斜めに歪んだ。
「どうして……」
膝から崩れ落ちる。
左足が暗黒物質に刺し貫かれていた。あまりにも集中し過ぎていたのか痛みはないが、血液が流れ出ている。
「箱入り娘だから、ですかね」
彼が影から出て、ノエルを見下ろす。
そして、剣を振り上げた。
ここで死ぬのか、と思った次の瞬間、ノエルは心底ほっとした。なぜかはノエルにもわからなかったが、ようやく死ねるのかと思ったのだ。
諦めて目を閉じようとした瞬間、甲高い金属音が鳴り響く。
ハッとして見上げると、父の背中がそこにはあった。
「大丈夫か、ノエル!」
「お父さん!」
叫びながら、ノエルはなんとか起き上がる。足が震えて、力が入らない。ゆっくりとした足取りで、二人から距離を取った。その間も、二人の話し声は聞こえていた。
「娘を叩けばと思っていましたが、当たりでしたね」
「先ほど影から出るときにチラと見えたぞ……お前は四神教だな」
「ええ、であれば私どもがあなたを狙う理由もおわかりなのでは?」
二人が何を言っているのか、理解が追いつかない。なぜ父が殺されなければならないのか、ノエルは拳を強く握った。
「そいつ魔法を使うから気をつけて」
「ありがとう、気をつけるよ」
アルバートは敵を見据えながら返事をし、剣を握る手に力を込める。敵の間合いに入った。ノエルの目には、敵のほうからアルバートの間合いに入ったように見えた。
だが、実際には逆だった。
そのまま剣を振り抜く。
しかし、確かにそこにあったはずの敵の姿が、どこにも見当たらない。
アルバートは一瞬だけあたりを見渡した後、目を閉じた。アルバートの影から伸びる手が、ノエルに見えた。
次の瞬間、アルバートの足を掴もうとした手は逆に掴まれていた。そのまま引っ張り上げ、一閃。短剣でいなされる。敵は跳躍し、頭上から炎弾を射出した。
後方に跳躍し、躱す。同時に空から光の矢が降ってくる。剣で全て弾き落とし、そのまま高く跳んだ。地面が少し抉れている。
敵の魔法による猛攻を躱しながら懐に潜り込み、一閃。短剣が正面から受け止めた。瞬間、アルバートは敵の首根っこを掴み、そのまま地面に落下。
敵の顔面が地面に勢いよく叩きつけられ、大きな音が響く。
「何事じゃ!」
騒ぎに気づいたらしい村長が血相を変えて飛んできた。ノエルは「来ちゃダメ」と制止し、立ち上がる。
その間にも、二人は剣と短剣を交えていた。
「四神教の魔法使いが来て……」
「ノエル、足! 酷い怪我じゃ……待っておれ、薬と包帯を持ってくる」
「お願いします」
ハンカチで止血はしているが、痛みは引かない。一緒に戦いたかったが、それは今は叶わない。薬で痛みを和らげられれば、とノエルは思った。
「しつこいですね」
何度も追いすがり剣を振るうアルバートの猛攻を受け止めながら、敵は何度も炎弾を放つ。アルバートの外套に掠り、焦げ付いた。
「持ってきたぞ! じっとしておれ」
「痛み止めだけちょうだい」
「痛み止めだけじゃと? おいまさか――」
何かを言いかけた村長だったが、ノエルの顔を見てため息をつき、渋々といった様子で頷いた。即効性の高い痛み止めを飲み、ノエルは足を地面に打ち付ける。
不思議なほどに痛みはない。
「お父さんが攻めあぐねるなんて」
「それほどの相手に、どうするつもりじゃ」
「わからない、わからないけど……ここで戦わなきゃ死んでも後悔する」
ノエルは再び剣を振り抜き、駆け出した。
瞬間、アルバートの足を植物の蔦が絡め取り、宙に持ち上げる。
「チッ、ドレインフラワーか」
絡め取った人間や魔物から、体内を巡るエネルギーである瑪那を吸い取り糧とする魔植物。アルバートが逃れようと藻掻く度、ドレインフラワーの茨が体に深く食い込んだ。
ノエルはアルバートの体に巻き付いた蔓を切り払い、救出。
だが、瑪那を吸われてしまったらしく、彼の体は地面に崩れ落ちた。
青ざめた顔で地に伏す父親の姿を見た瞬間、ノエルは得体のしれない激情に駆られた。
許せない、許してはおけない、と。
「お前!」
地面を強く蹴り、一瞬にして敵の間合いに入り、一閃。
だが、いとも容易く躱されてしまう。その動作を見た瞬間に地面を蹴り、再び剣を振る。敵の掌から放たれた石柱が頬を掠めた。身を捩り、勢いをつけて剣を短剣に打ち付ける。
敵が短剣を落とした。短剣を思い切り蹴り、敵から遠ざける。
「やりますね、流石は親子といったところか」
敵の光の矢が足に刺さる。痛みを感じないのをいいことに、ノエルはなおも追いすがった。
だが、暗転。視界が真っ暗闇に包まれる。
いや、違う。
巨大な漆黒の刃がノエルの視界を覆い尽くすほど至近距離に迫っていた。そう理解した次の瞬間、ノエルは何者かに突き飛ばされた。
そして――。
「お父さん!」
アルバートの胸を漆黒の刃が貫いた。
父親の体が崩れ落ちていく様が、妙にゆったりとして見える。まるで時の進みが緩慢になったかのようで、その感覚が気持ち悪く、吐き気が込み上げた。
ドサッと父の体が崩れ去り、首が飛ぶ。アルバートの頭がアーチを描き、ノエルの足元近くに落下した。ゴロゴロと鈍い音を立てて転がってくる父親の頭を見て、ノエルは何が起きたのか理解できなかった。
だが、体は理解したのか、勝手に動く。敵を追い、剣を振るっている。
ノエルの重い剣を敵は暗黒物質で作った盾で受け止めた。
「怒りで力が増しましたか」
ノエルの体が、剣を打ち付ける。何度も、何度も、何度も。
ようやく、ノエルは何が起きたのか理解した。
父親は、アルバートは……死んだのだ。
父親が死んだということを心の底から理解した瞬間、ノエルは心の奥底に沸き立つ感情も理解した。眼の前の仇を斬り刻み、討ち滅ぼす力が欲しい。
――誰でもいい、なんでもいい、私に力を貸して!
そう思ったとき、どこかから声が聞こえた気がした。ノエルは本能的に飛び退いた。
「私と契約しろ、ノエル」
私と契約しろ、と確かにそう聞こえた。ノエルの名前まで読んでいる。聞き間違いではない。これは紛れもなく、悪魔の囁きだった。願ってもないことだ。
昔から欲していた力が今、眼の前にある。
「契約する、するよ!」
手を伸ばさない道理は、ない。
「よく言った、契約完了だ、ノエル」
言いながら、ノエルの足元から声の主が現れた。
それは、黒い影の塊のようだった。質量はあるようだが、実体がここにあるようにも思えない。仮面を被り、人型をした小さなぬいぐるみのような外見。
本で見た悪魔の姿とは、まるで違う姿だった。
「お前は既に力が使える」
「どうすればいいの?」
「感情を解き放て」
「感情を……わかった」
魔法の力は、人間の感情に呼応して発現する。人間と契約した悪魔が、その人間の感情を媒介して瑪那を吸収し、魔法の力へと変換しているのだ。ノエルはそのことを、これまでの学びの中で知っていた。
思い浮かべるのは、今一番強い感情。
ノエルの様子を伺っている男を中止する。胸の内に、どす黒い力が渦巻くのがわかった。同時に、ノエルの手に暗黒物質が出現していた。
ボロボロになった剣を投げ、暗黒物質を剣の形に変形させる。そのまま、ノエルは影の世界の表層に入った。
影の世界の表層には何もなく、ただ暗闇があるだけ。頭上を見れば、地上の様子がハッキリと見える。敵がどこにいるのかも。
木々の影が伸びている。そこに入り、ゆっくりと迂回しながら敵の影に移動した。
勢いよく飛び出る。剣。男の肌を切り裂いた。鮮血が、肌を破ってあたりにばら撒かれる。ノエルの剣が裂いたのは、敵の頬だった。
「気をつけろよノエル、強すぎる感情は自分に返ってくるぞ」
「うん、わかってる」
これも本で読んだことがあった。
激情に任せて魔法を使いすぎると、使用者の身に跳ね返る。怒りに呼応する炎の魔法ならば、自分の身が焼け焦げる。憎悪や殺意に呼応する魔属性の魔法なら、周囲にいる人間も動物も見境なく殺そうとし、最後は自分自身をも殺してしまう。
今ノエルが使っているのは、そういった力だった。
だが、気をつけろと言われても、どうしたらよいものかわからない。とにかく今は、眼の前の敵を倒すことに集中するしかなかった。
「まさか悪魔が潜んでいたとは、計算違いだわ」
ノエルは、敵の口調が変わっていることに気がついた。彼は初めて、己というものを出したのだ。
敵は手から炎弾を出して牽制。父親の死を思い出し、泣きたい気持ちを絞り出す。悲しみが水の塊を呼び、炎弾をかき消す。同時に駆け出し、相手の間合いに入る寸前で立ち止まった。
土埃が舞う。
イメージするのは、もっと大きく強く、命を刈り取るような魔法。眼の前の憎き仇を両断する自分。
ノエルの両手に、影で出来た巨大な鎌が現れた。グッと力を込め、大地を踏みしめ、鎌を振るう。
敵の体が、いとも容易く真っ二つに斬り裂かれた――ように見えた。
だが、実際は違った。
「なにっ!?」
敵の体は霧状になり、村の外へと逃げていったのだ。
「勝負はお預け。まだ殺されてあげられないから」
そんな声と言葉だけを残して。
「……くそ」
力が抜けていくような感覚がして、手に握っていた暗黒物質の剣が霧散していく。同時に、足元が覚束なくなった。
ぐらりと揺れそうになるのをなんとか堪え、ノエルはふらふらとした足取りで父親の頭部を拾いに行く。大事にそっと抱きかかえ、アルバートの首の近くに、頭部をそっと置いた。
「みんなを呼ばなきゃ……」
しかし、体が言うことを聞かない。
ノエルはそのまま、意識を手放した。