幕間 エドワード・マクスウェルの失恋
「残念だわ」
公爵家のサロン、月に一度のお茶会。菓子を摘む手を止め、公爵夫人がふと漏らした一言に、私は紅茶のカップを持つ手を止めた。
「残念、とは?」
「あなたを妹にしたかったのに、という話よ」
夫人はそう言って、悪戯っぽく笑う。悪気のない、それでいて核心を突く言い方は、いつものことだった。
「エドワードから聞いたわけではないのだけれど、なんとなく察してしまうものね。あの子、わかりやすく沈んでいたから」
何と答えたものか迷って、私は曖昧に微笑んだ。夫人はそれ以上追及することなく、優雅にティーカップを傾ける。
その横顔を見ながら、私の頭の中には、あの日のことがまざまざと蘇っていた。
◆
あれは半月ほど前のことだった。
いつものように依頼を終え、テオが片付けをしている間、私はリビングのソファで一息ついていた。今日の降霊は、あまり良くない結果に終わった。憂鬱な気持ちを自分の中に閉じ込めながら紅茶を飲む。
そこへ、アポイントメントのないエドワードが訪れた。
「今日は依頼ではなく、個人的なお話がありまして」
そう切り出した彼の顔は、いつもより真剣で、どこか緊張しているようにも見えた。
テオが私の後ろに控えようとすると、彼は「二人きりで」と制する。少し迷ったものの、テオを見て頷く。テオは私に目配せをしてから、静かに部屋を出ていった。
「――レイラさん、あなたのことが好きです」
単刀直入な告白だった。前置きもなく、まっすぐに向けられたその言葉に、私は少し驚いた。もっとも、その気配はずっと前から感じていたけれど。
「そう。それはどうも」
あまりに素っ気ない返事だったからか、エドワードは少し戸惑った表情を見せた。それでも、彼はまっすぐに私を見つめたまま続けた。
「軽い気持ちで言っているわけではありません。ずっと、あなたのことを想っていました」
「エドワードさんは、私のことをよく知らないでしょう。それなのに、どうして好きだと言えるの?」
意地悪な質問だと自分でも思う。でも、聞かずにはいられなかった。
「知っています」
エドワードさんは、少しも怯まずに答えた。
「初めてお会いした時、クリスの――甥の話を聞いてくださった時のあなたの優しさ。床にしゃがみこんで、見えない子供と目線を合わせて話す姿。誰にも証明できないことでも、真摯に、丁寧に伝えてくださる姿勢。侯爵夫人の指輪の一件でも、真実の愛の殺人事件の時も。誰に対しても、公平で、優しくて、時に厳しくて、そして誰よりも強い人だと思っています」
よどみなく紡がれる言葉には、確かな重みがあった。
「それに、あなたはお金にはうるさいのに、本当に困っている人からは無理に取ろうとしない。誰かを助けたいという気持ちが、いつも根底にあるのがわかります」
「それは、あなたが見てきた『レイラ』の姿でしょう」
私は、静かに言った。
「あなたは私の外見しか好きじゃないのよ」
「そんなことはありません」
エドワードさんは、はっきりと否定した。
「では、私のメイクを落とした顔を見ても、同じことが言えるかしら」
少し意地悪だとわかっていて、私はそう問いかけた。彼がどう答えるか、正直、興味もあった。
「言えます」
迷いなく、彼は即答した。
「その言葉、忘れないでね」
私はそう言うと、席を立ち、隣のメイク部屋に向かった。手早く化粧を落とし、カツラを外す。鏡に映る、見慣れた地味な顔。ため息をひとつついてから、私はリビングに戻った。
「――お待たせしました」
その瞬間のエドワードの表情は、忘れられそうにない。
驚きと、困惑と、それから――理解が追いつかない、という顔。彼は何度も瞬きを繰り返し、私の顔をまじまじと見つめた。
「アイリス……ちゃん?」
「ええ。私がレイラだったんです。どうです?さっきと同じことが言えますか?」
その一言で、彼は完全に言葉を失った。呆然と、まるで信じられないものを見るように、私を見つめている。
「エドワードさんはこれまで何度も家に来ましたよね?私とも一緒に食事したり、話したり。でも――」
にっこりと笑おうとしたけれど、うまく笑顔が作れない。
「あなたが好きになったのは、アイリスではなく、レイラでした」
私は、努めて静かな声で続けた。
「それがどういうことなのか、もう一度、考えてみていただけますか?」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
エドワードは、何度も口を開こうとして、その度に言葉を飲み込んだ。何を言えばいいのか、自分でもわからないのだろう。当然だと思う。今の今まで「外見だけではない」と言い切っていた相手が、実は何度も顔を合わせていた、けれど一度も特別な感情を抱かなかった相手だったのだから。
彼の目に浮かんでいたのは、羞恥と、それから――静かな絶望だった。
「私は……」
何かを言おうとしたエドワードに被せるように言う。
「今日のことは忘れます」
私は、それ以上彼に言わせなかった。
「だから、エドワードさんも忘れてください。私はヘンリーには言いません」
立ち上がり、メイク部屋に向かう。振り返らずに、「今日はもう、お帰りください」とだけ告げてメイク部屋に入る。
背中越しに、彼が何か言おうとする気配を感じたけれど、それを聞くつもりはなかった。聞いてしまえば、きっと二人とも、もっと苦しくなる。それだけは、わかっていた。
◆
「――レイラさん?」
公爵夫人の声に、我に返る。
「ぼんやりして、どうかしたの?」
「ごめんなさい。少し考え事をしていて」
私は小さく微笑み、冷めかけた紅茶に口をつけた。
「あの子、まだ元気がないのよ。何があったのか聞いても、教えてくれなくて」
夫人は少し困ったように、それでいてどこか面白がるような口調で言う。
「エドワードのどこが駄目だった?家柄も顔もいいし、性格だって悪くないと思うんだけど」
確かにその通りだと思う。背も高いし、話も面白いし、いつかの夜会ではエスコートもとてもスマートだった。素顔のアイリスにもいつも気さくに接してくれた。
「エドワードさんは、レイラしか見ていないので」
私は、そう答えた。
「あら」
「ずっと、レイラという存在を見てくださっていました。それは、とても嬉しいことだと思います。でも――」
言葉を選びながら、続ける。
「レイラは虚像ですから」
夫人は、しばらく私の顔を見つめていたが、やがて何かに納得したように、小さく頷いた。
「そうよねぇ」
それ以上、深くは聞いてこなかった。ただ、少し寂しそうな笑みを浮かべて、紅茶のおかわりを注いでくれる。
「私はあなたの頭の回転の速さも、誠実さも、真面目なところも、少しお金にシビアなところも、全部好きよ」
夫人は義理の弟が、アイリスその人には見向きもせず、化粧で作られた「レイラ」だけを見て恋をしたということと、そのことで私が少し落ち込んでいることを察知したのかもしれない。
「ありがとうございます」
そう言ってにっこりと笑う。
「見る目がないんだから、あの子」
小さく、夫人がそう呟いたのが聞こえた。
私は、何も言わずに、ただ微笑んで紅茶を飲んだ。
穏やかな午後の光が、テーブルの上に落ちている。何事もなかったかのような、いつも通りの時間だった。
誰かを好きになるということは、きっととても難しいことなのだろう。
外見でも、肩書きでもなく、その人自身を見るということ。
私はふと、テオの顔を思い浮かべた。あの人は、私の素顔を見ても「年相応に見えますね」とだけ言った。
地味な顔で宿題に頭を抱えている時も、レイラとして振舞っている時も、私に対する態度を変えたことは一度もない。
でもそれは、私という人間にあまり興味がないだけなのかもしれないし――
考えかけて、私は小さく首を振った。そんなこと考えたって無駄よね。
「レイラさん?」
「なんでもありません。それより、次の商品開発の話、続けましょうか」
私は、そう言って話題を変えた。夫人は少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は追及せず、話を続けてくれた。
次にエドワードに会うのはいつになるだろう。もしかしたら、もうレイラの仕事場にも、ヘンリーとアイリスの家にも来なくなるかもしれない。
私とのことでヘンリーとの友情に影響はないだろうか。ないといいな。
そんなことを考えながら、夫人との商品開発会議はどんどん白熱していくのだった。




