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09 犬神

「大王様、大王様はどちらにいらっしゃいますかっ」


 閻魔堂の漆塗りの廊下を、犬神はばたばたと駆け回っていた。成人男性の倍ほどもある彼がやたらと動き回るため、床板はぎしぎし悲鳴をあげた。


「よお、ここにいるぞ」


 いくつかの障子を開けていったとき、横から閻魔大王が現れた。本日は判事の仕事はないため、正装ではなく、ラフな浴衣姿だった。


「大王様、あれは……あの書類の山は……」


 犬神は息も絶え絶えになっていた。獣臭い匂いが普段より数割増しだった。

 閻魔大王は顔をしかめ、鼻を摘み、懐から消臭スプレーを取り出して、犬神の口に発射した。これにはたまらず、犬神はげほげほ、とむせ返った。


「まずは落ち着け。オマエが走り回ると、その図体が非常に邪魔だ」


「ごほ……っ……も、申し訳ありません。しかし、あれはなんですか? まさかとは思いますが、あやつめが……」


「ああ。昨日の晩、紅桜が置いていった」


 閻魔はさらりと答えた。

 犬神はみるみるうちに口元が歪んでいき、犬歯を剥き出しにした。


「やはりそうですか。あやつめ……与えられた仕事を投げ出すとは、いい度胸で……」


「最後まで聞け、バカモン」


 犬神が言い終わらないうちに、閻魔は再び消臭スプレーを彼の口に流し込んだ。またしても息の苦しいのを味わった彼は、太い尾を股下に挟み込んだ。


「別にアイツは投げ出したわけじゃない。提案したんだ」


「提案、ですか?」


「なんでも、鉄道のほうの仕事が立て込んでるそうな。事務仕事がしばらく手につかんといった」


「それはあやつの責任では……」


「ああ。だが、紅桜にしても、こちらとしても、あれ以上量を溜めておくのはよろしくない。そこでだ」


 閻魔は人差し指を立てて、犬神の長い鼻先に向けた。


「オマエ今暇してるだろ。よし、代わりにやっておけ」


「な、なんですとっ」


 犬神は面食らった。

 紅桜は常務兼管理官という立場にあるが、閻魔堂内では未だニューフェイスの扱いであり、犬神はそんな彼女を新参者として見下していた。彼は長く閻魔堂に務めていることもあり、鬼族の頭領、酒呑と肩を並べる実力者である。故に、同格まで出世してきた紅桜にはライバル意識というより、敵対に近い考えを抱いていた。今でも彼にとって、紅桜は下の立場という認識なのだ。


「いいじゃないか、どうせ炬燵で蜜柑でも食ってたんだろう?」


「いいえ、そんなことはありません。ええ、ありませんともっ」


「本当か? 閻魔に嘘をついたらどうなるか、わかってるよな?」


 犬神はうっ、と言葉に詰まった。それは彼が常日頃から魂たちに向かって使っている脅し文句だった。

 閻魔は愉快そうに口の端を上げて、不敵な笑みを咲かせていた。腕を組んでおり、見下すような視線は、背格好からは信じられないほどのプレッシャーを放っている。


「これはなんだ?」閻魔は透明な袋を見せつけた。


「み、蜜柑の皮です」


 中に入っているものを見て、犬神はたじろいだ。


「だよな? どこにあったと思う?」


 犬神の背を冷たい汗がだらだらと流れた。動悸がする。知らないうちに体が震えているのがわかった。


「オマエがいつも使ってる炬燵の上にあったそうだぞ。さっき、捨てに行っていた掃除当番から貰ってきた。さて、誰が食べたんだろうなあ」


 そこまでするか、と犬神は心の中で顔をしかめて思った。もちろん、本当に顔には出せない。

 事実、彼は蜜柑を食べている。それは間違いない。

 ただし、その蜜柑は猫又が寄越したものだ。炬燵というのも奴の部屋に違いない。それなのに自分が折檻されるのは納得のいくものではなかった。


「大王様、お言葉ですが……それはわたくしめではなく猫又のやつがですな」


「猫又? 猫又がどうかしたのか」閻魔は腕組みをしたまま眉を寄せた。


「いかにもでこざいます。あやつは門番風情の身でありながら、いつもいつものほほんとして自室で過ごしておるのですぞ」


「なんだ、そのことか」


 閻魔は肩をすくめ、犬神の大きな鼻先を指先で弾いた。大して痛くはなかったものの、犬神は面食らって思わず鼻に手を伸ばした。


「あいつのサボり癖などお見通しだ。だから、あいつにも紅桜の書類仕事を回した。今頃はひいひい言いながら決済に追われてるぞ。見張り役として手の空いた鬼をやったからな」


 犬神は言葉を失った。

 なんということだ。先手を打たれてしまった。これでは猫又に仕事を押し付けることができない。

 長丁場だった定例会議が終わって、これからひと風呂でも行こうと思っていただけに、その落胆ぶりは凄まじいものがあった。

 おのれ、紅桜め。

 犬神は奥歯を噛み締めた。

 これもなにかの当てつけか。わしがいったいなにをしたというのか。ああ、忌々しい。

 彼の上半身がみるみるうちに盛り上がる。ただでさえ大きな体が更に膨れ上がり、背丈は大人の男三人を縦に並べるよりも高くなった。

 犬神が気分の優れないときに心を落ち着かせるためのルーティンだったが、閻魔は吹き出して破顔した。


「お前のほうが猫じゃないか。毛を逆立ててないで、いいからさっさと来い。紅桜はああでいて仕事には素直だぞ」


(このお方はまた紅桜、紅桜と。一体彼奴のどこがそんなにお気に入りなのだ)


 犬神は内心吐き捨てた。

 いつ頃からか閻魔は事あるごとに彼女の名を口にするようになった。それまで不動だった管理職の地位を与えたりあまつさえ死神の最高責任者という立場に引き上げている。

 確かに彼女の能力を鑑みれば現場を回す指導者としての器は十分あったといえるだろう。だから昇進するのは当然といえる。それはいい。

 現世に人手を割くために人事異動が重なり、死神鉄道を運営するにあたり次々問題が発生するようになった。早期解決を図るため、新たに統括管理官の椅子を設けることになった。それもいい。

 気に食わないのは彼をはじめとした閻魔堂の面々が閻魔大王に軽視されている節がある、ということだ。

 今一度、我らの存在を改めて示さねばならない。そのためには起爆剤が必要だ。しかし、この方を動かすほどの火薬となると……。

 犬神は不承、不承といった感じで尾を引きずるように奥へと向かった。


 






 



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