02 降車拒否
列車が終点の冥界府まで到着したのは、始発から現界の時間でおよそ半日と数時間経った頃だった。
汽笛を鳴らし、八両編成の夢幻列車はゆっくり減速しつつ、プラットフォームの停車位置にぴたりと停車した。
「終点、冥界府。冥界府です。降りられる際、お足元にご注意ください」
紅桜がメガホンで拡張した声が、がらりとしたホームに響き渡る。間もなくして乗車扉の施錠が解かれ、ほとんど満員状態に近かった列車から死神と魂のペアが次々と降りていく。数分もしないうちに、プラットフォームはすぐ大勢でいっぱいになった。
紅桜はその様子を最後尾の車両についた窓から身を乗り出して眺めていた。車掌には乗客が降りる気配がなくなった際に、居眠りなどで車両に残っている客がいないかを確かめる作業がある。
例の件で懸念はあるが、どうやら運行業務は滞りなく済みそうだった。
このあとは少しだけティータイムでもして休憩しようか、と浮き立った気持ちでいるとそれをぶち壊しにする事態が起きた。
「あー、嫌な予感……」
制服のポケットに入れていた紅桜の死神手帳が着信を告げるバイブ音を鳴らしたのだ。
死神手帳は一見なんの変哲もないただの手帳に見えるが、送魂霊符にメッセージを書いて貼り付けることで離れていても連絡を取り合うことができる。
宛先は何も書かない場合は全ての手帳に送られるが、死神手帳はナンバリングがされており、指定したナンバーのみに送ることも可能だ。ちなみに紅桜のナンバーは三番だった。
紅桜は渋い顔で自分の手帳を開いた。そこには、乗客のひとりが列車から出て来ず困っているという旨が簡潔に書かれていた。
「はぁ……仕方ありませんね」
紅桜は首から下げたホイッスルを二回吹いた。ピイィ、と甲高い音が鳴った。トラブル発生の合図だった。
ホームに降り立ち、該当の客車まで小走りで駆け寄るとすでに何人かの死神が立ち往生していた。
「道を開けてください」
「あ、紅桜先輩っ」紅桜の姿を見た死神たちは救われたような顔で立ち退いた。
「あなたたちは先に降りたお客様の対応に回ってください。何人かはすでにそちらに回っているようですから、まだ駅におられるはずです」
はい、了解です、といった返事とともにスーツ姿の死神は一斉に駅の構内へ駆け込んでいった。彼らには彼らで冥界府へ魂を案内する仕事がある。こんなところで油を売っていては、道に迷う魂や裁きを恐れて逃げ出す魂が出てくる可能性が高い。
紅桜は久々の降車拒否が起きたことにがっくりと肩を落として客車に足を踏み入れた。
現場は三両目の客車だった。
ひとりの魂が座席に縋り付くようにして、必死に説得する死神を追い払おうとしていた。
「お客様、困ります。この列車はこの後車庫で点検をする予定なんです。降りていただかないと……」
対応しているのは男の死神だった。
スーツ姿なのは統一だが、彼は両手に黒い手袋を嵌めていた。短く切り揃えた黒髪と人の良さそうな柔和な顔つきは親しみやすさを覚える。
「いやだ、いやだあ。この後エンマ様に天国行きか地獄行きかを裁かれるんだべ。おらはどうせ地獄行きだ、絶対に行かねぇど」
言葉に訛りのある、恰幅のいい男は手すりを両手でがっしり掴んで動こうとしない。
「私共は魂を冥府にご案内するのがお仕事なんです。どうか、わかっていただけませんか」
死神は今にも泣き出しそうな声で懇願した。しかし、なおも動こうとしない迷惑客を見て紅桜は彼の背後から声をかけた。
「お待たせしました。……どうされましたか、お客様」
目線で死神に下がっているよう促し、自分は座席前の通路に立った。彼はなにかいいたそうな顔つきだったが、先輩にお願いしますと対応を託して大人しく一歩下がった位置でこちらを見守っている。
「あんた、誰だべ」警戒しているからだろうか、彼はふてぶてしい態度で尋ねた。
「私はこの列車の車掌です。こちらの死神がなにか不手際をかけましたでしょうか」
一部始終は見ていたが、紅桜はあくまで中立的な印象を受けるような言い方をした。原因となった理由が死神の側にないとは限らないからだ。万が一つということもある。
「車掌さんか。頼む、おらをこのまま現世に還してくれ。まだやり残したことも心残りもたくさんあるだよ」
「申し訳ありませんが、それは出来かねます。死後の魂は冥界府を訪れて閻魔様に生前の功績と罪を天秤にかけて裁かれ、次なる来世に向けて一時を過ごすのです。例外はありません」
「そんな……なんとかできねぇのかい」
「規則は規則ですので。あなたの生前がどうだったのかは知りませんが、これは全ての魂が受ける義務でもあります」
「い、嫌だ……そんな取り決め、知ったこっちゃねぇっ」
身体を丸めて震える魂に紅桜はふう、とため息をついて上着の胸ポケットから一枚の霊符を取り出した。
「残念ですが、私たちにも仕事があります。お客様ひとりの都合に合わせることはできません」
紅桜はそれを男の額にぺたり、と貼り付けた。するとぷるぷると震えていた身体が急にふにゃりと脱力して、座席の下に転がるように滑り落ちた。
「な、なんだべさこれ。ち、力が入らねぇ」
「鎮魂霊符です。彼はまだ新米なので個人での使用は上の許可が必要ですが、私はこう見えて一介の責任者ですので使わせていただきました。しばらくはまともに歩くこともできません」
淡々と説明する紅桜にふざけるな、と男は反論しようとするがそれだけだった。身体が思うように動かないのではもはやまな板の上の鯉、されるがままだ。
「現世にも法があるように、冥界には冥界の法があるんです。もうここは現界ではないのですから、たとえお客様でもこちら側の決まり事は順守してもらいます。……さて、この方を閻魔堂までお連れしませんと。あなたも手伝ってください。私ひとりでは難しそうですので」
「は、はい」
新米死神は目を白黒させながらも、男の座っていた座席の反対側に回りこんだ。しかし、男の体格はかなり大きく二人がかりでも降車させるのは難しいように思われた。
なんとか引き摺ってでもと新米が腕捲りをして気合いを入れたとき、客車に数人の黒服がなだれ込んで来た。後方には運搬のために担架が用意されている。
「案内終わりました、手伝います」
「あっ……ありがとうございます」新米は気の抜けた声を漏らした。
「せーの。いち、に、さんっ」
六人の死神が息を揃えて男の身体を持ち上げ、担架に載せた。紅桜はそれを見届けると、新米に向かって死神手帳を掲げた。
「あらかじめ応援を要請しました。鎮魂霊符を使うことになるなら、どのみちこうなるのは明白でしたからね。本当なら自分の足で向かって欲しいものですが」
「その、先輩」新米死神は深々と頭を下げた。「申し訳ありませんでした。僕があのお客様にもっと上手く説明していれば……」
「災難でしたね」
紅桜は後輩の肩にそっと手を置いた。顔を上げなさい、と促し担架を列車から出すように告げる。
「気に病む必要はありません。たまにいるんですよ、ああやって降りるのを拒否したり駅から離れようとしない方が。直近ではしばらく遭遇してませんでしたから、油断してましたね」
「本当に、ありがとうございます。お手数をおかけしました」
すると、紅桜は口元に穏やかな笑みを浮かべた。そして後輩がとった行動を丁寧に評価した。
「いいえ、あなたが事態が起きてすぐ私に報告を入れたのは英断です。不慮の事態には勝手に使用許可のない霊符を使って解決しようとする新人のほうがずっと多いですから。その場合、私が報告書を書くという仕事がひとつ増えることになります。───よく出来ましたね」
すると、彼は照れくさそうに頬を掻いた。紅桜は務めて落ち着いた物言いで制帽のツバを弾き、前方を示して指示を飛ばした。
「さあ、グズグズしてる場合ではないですよ。急いで車内点検をして、列車を移動させませんと。次の運行に支障が出てしまいます」
前の車両を頼みました、と任せられた後輩ははい、と勢いのある返事をした。そして質問をしてもいいですか、と確認をとってから先輩死神に尋ねた。
「あのお客様は地獄行きはごめんだ、と仰られていましたが、僕になにか出来ることはなかったんでしょうか」
「それは閻魔様が決めることですから、あなたの気にするところではありません」
それに、と紅桜はきっぱりと答えた後に再びため息をついて付け加えた。
「ご自分で地獄行きだと思っていたということは、大抵が生前になにかしらの悪事をしているんです。そういう方はどうやっても地獄行きは免れませんので、仕方のないことです」
それだけ伝えてから、紅桜は後方車両へと続く扉の取っ手を掴んだ。