37. トイレ
リョウタ視点
おかゆを食べ終えると、今度は別の不快感が俺を襲ってきた。もうこれ以上無視できない。居心地悪く身じろぎし、ようやく勇気を振り絞って口を開く。
「……トイレに……行きたい……」
思っていたよりも弱々しい声だった。こんなことを頼むのは屈辱的で、情けなかったが、他に選択肢はなかった。
小林の笑みが嬉しそうに広がり、俺を助けられることに目を輝かせる。彼女はあの不気味な優しさを浮かべながら、素早く身を乗り出した。
「もちろんよ、リョウタ」
彼女はポケットから小さな銀色の鍵を取り出す。身をかがめ、俺の手首を縛っていた鎖を外した。ほんのわずかな解放感。それでも胸がいっぱいになる。だが、それが一時的なものだと分かっていた。
立ち上がろうとすると、足が震えた。殴られたことと、長い間動かなかったせいで力が入らない。倒れそうになった瞬間、小林が腕を回して支えた。驚くほど優しく。
「私に寄りかかって」
その声は穏やかで、まるで普通の状況のようだった。その異様さに、思わず笑いそうになるが、飲み込む。
彼女に支えられながら階段へ向かう。一歩一歩が苦しい。体が動くことを拒んでいる。小林は崩れ落ちないよう、しっかりと支え続けた。
階段を上がると、そこは広く明るいキッチンだった。中央には大きなカウンターがあり、調理器具や食材が雑然と置かれている。左側には玄関らしき入口が見えた。
右側は闇に包まれていて、奥はよく見えない。電気がついていないようだ。物置か、何かの作業部屋だろうか。
小林は俺を左側へ、玄関の方へと導く。地下室とは違う、普通の家の空間にいるという現実が、どこか非現実的に感じられた。キッチンを抜け、短い廊下を進むと、小さな浴室にたどり着く。彼女がドアを開け、中へ入った。
無言のまま便座を下ろし、俺を座らせる。体は悲鳴を上げ、座っているだけでも精一杯だった。
俺は彼女が出ていくものだと思い、見上げる。しかし彼女はそこに立ったまま、じっと俺を見つめている。重たい沈黙。居心地の悪さに身を縮める。
「ああ、ごめんね。ズボンを下ろさないといけないの忘れてたわ」
「!?」
冷たい衝撃が走る。彼女は落ち着いた、機械的な動きで近づいてくる。心臓が激しく鼓動する。ウエストに手が伸びる。
「……自分で……できる……」
残った力を振り絞り、弱々しく手を押し返そうとする。
「何を言ってるの? 私が世話をするって言ったでしょう?」
「いや……でも……」
「心配しないで、リョウタ。もう見たことあるんだから。恥ずかしがらなくていいのよ」
「……は?」
見たことがある? まさか……。
「あなたが意識を失っている間、全身汗だくだったの。だから体を全部きれいにしてあげたのよ」
「全部……?」
「ええ、全部よ」
その言葉の意味が重くのしかかる。意識のない間に、全て触れられていた。無力な状態で。背筋に寒気が走る。
顔を背ける。羞恥と怒りで頬が熱い。
「……嫌だ……こんなの……やめてくれ……」
「だめよ、リョウタ。必要なの。あなたは自分で何もできない状態なんだから。私がちゃんと快適にしてあげないと」
少しだけ苛立ちを含んだ、優しい声。
彼女は慣れた手つきでズボンと下着を下ろす。俺はただ見ていることしかできない。心がすり潰されていく。
終えると、彼女は立ち上がり、安心させるどころか不気味な笑みを向けた。
「はい、できたわ」
まるで日常の作業のような明るい口調。
その視線にさらされながら、深い絶望と無力感が押し寄せる。
「あ、そうだわ」
彼女は浴室を出ていく。足音が硬い床に響く。そしてすぐ戻ってきた。
「!?」
手にしているのはポラロイドカメラだった。
「やめて……写真は……やめてくれ……」
必死に懇願する。
「もう、リョウタ。今さら恥ずかしがらないで。言ったでしょう? 写真は全部物語を語るの。この一枚は、あなたが私に手伝われながらトイレに行く物語よ」
悪夢のような現実が理解できないまま、カメラのシャッター音が響く。
彼女は慣れた手つきで写真を振り、像が浮かび上がるのを見つめる。
「うんうん、すごくよく撮れてるわ」
座ったまま、現実が鮮明に突き刺さる。これからもずっとこうなのだ。プライバシーは奪われ、全てを見られ、記録される。
自分一人では何一つできない。捕らわれているという重みが、希望も自我も押し潰していく。
彼女が写真を撮ることへの喜び。俺の尊厳を顧みない態度。最も無防備な瞬間まで記録する執着。
それは、彼女の狂気がどれほど深いかを示していた。
彼女はただ肉体を支配するだけでは満足しない。俺の存在のすべてを、自分の視線の下に置こうとしているのだ。
これが俺の新しい現実だった。彼女の絶対的な支配の下で生きる人生。あらゆる個人的な境界は踏み越えられ、自由は一欠片も残っていない。
俺は抵抗するのをやめ、ただ用を足した。
「ほら、そんなに大変だった?」
「……」
彼女は近づいてきた。手を動かし、後始末をしてから、下着とズボンを元の位置に戻す。
そして俺を立たせた。地下室から一時的に解放されたはずの浴室も、今では別の檻のように感じられる。
「さあ、戻りましょう。私に寄りかかって」
言われるままに体を預ける。浴室を出て、しっかりとした彼女の支えに導かれながら地下室へ向かう。明るく開けたキッチンは、まるで別世界のようだった。薄暗い廊下をゆっくり進む。
足音が静かな家に小さく響く。その音は、これから戻る地下室の重苦しい静寂とは対照的だった。頭の中は状況を整理しようとするが、疲労と痛みで思考は鈍い。
地下室の扉にたどり着き、彼女が開ける。廊下の冷たい光が差し込み、地下室はさらに暗く圧迫的に見えた。彼女は変わらぬ支えで、俺を影の中へと導く。
地下室に戻ると、ベッドへ座らせ、再び手首に手錠をかけた。
それから掲示板の前へ行き、さきほどの写真を、俺が食事をしている写真の隣に丁寧に留める。
満足げな笑みを浮かべて眺めるその目には、誇りと歪んだ快楽が混ざっていた。俺はただ動けないまま、無力にそれを見ているしかない。
前にトイレへ行ってから一時間ほどが経った。水分の多いおかゆのせいで、また強い尿意に襲われる。ベッドの上で落ち着かずに身をよじり、小林に声をかけた。彼女は隣で本を読んでいた。
「……また……トイレに……行きたい……」
彼女は本から顔を上げ、心から嬉しそうな笑みを浮かべる。本を軽く閉じ、すぐに立ち上がった。
「まあ、リョウタ! また私に頼ってくれるなんて嬉しいわ」
弾む足取りでベッドのそばへ来る。目は満足と期待で輝いている。
「立たせてあげる。また手伝うわね」
銀色の鍵で手錠を外し、俺を立たせる。その手つきはしっかりしていて、妙に安心感さえあるのが悔しい。
キッチンへ上がり、左へ曲がって廊下を進み、浴室へ入る。彼女は俺を便器の前に立たせた。
これから起こることは分かっている。覚悟を決める。
彼女がズボンに手をかける。恐怖が走り、慌ててその手を掴む。
「……自分で……できる……」
「全部見たのに、まだ拒むのね。はあ……分かったわ」
あっさり手を引かれ、俺は一瞬戸惑う。かすかな希望が芽生える。もしかしたら、自分でできるかもしれない。
だが、それは一瞬だった。
「自分でできるのよね?」
彼女の声は楽しむような響きに変わる。
「じゃあ証明してみて。五分以内にベッドに戻れたら、もう手伝わないわ。でも失敗したら、私が手伝うのを止める権利はなくなるの」
はっきりとした条件。成功すればわずかな自立。失敗すれば完全な支配。
「……分かった……」
彼女は振り向き、浴室を出てドアを閉める。
「今からよ!」
震える手でズボンと下着を下ろす。体への負担は大きく、動くたびに痛みが走る。歯を食いしばり、集中する。
用を足し終えると、すぐに服を引き上げ始める。震える手足では思うように動かない。呼吸は荒くなり、時間の重圧がのしかかる。
「30秒経過!」
外から彼女の声が響く。どこか楽しげだ。
焦りが募る。動きは遅く、不器用だ。体力がどんどん削られていく。
全力を振り絞り、ようやくズボンと下着を引き上げた。深呼吸をし、次の段階へ進もうとする。ベッドまで戻らなければならない。
「40秒!」
彼女は時間が過ぎるにつれて、だんだんと声を大きくしながら告げ続けた。
俺は足を引きずりながら浴室のドアへ向かった。一歩一歩が途方もない努力だった。ベッドまでの距離は果てしなく伸びていくように感じられ、どの一歩も永遠のように長い。足がもつれ、今にも崩れ落ちそうになる。それでも、無理やり前へ進んだ。
震える指でドアノブを掴み、ゆっくりと回す。きしむ音が廊下に響いた。その先に見える廊下は、遠い希望のように思えた。痛みに耐えながら、一歩ずつ進む。
「1分!」
静寂を裂く彼女の声。
足は鉛のように重く、踏み出すたびに鋭い痛みが走る。それでも、ベッドまで戻らなければならないと自分に言い聞かせる。キッチンにたどり着いた瞬間、限界がきた。体が崩れ落ち、床に倒れ込む。荒い呼吸だけが響く。
「2分。」
背後から響く声は、期待と苛立ちが混ざっていた。
なんでだよ……! どうして今なんだ!? どうして俺の体は裏切るんだ!?
俺はキッチンの床を這い始めた。ゆっくり、必死に、体を引きずる。床に擦れる感触、痛み、その全てを感じながら。
「2分30秒。」
さらに急かす声。
地下室の扉までは半分ほど。しかし動きは遅い。体の一部一部を動かすだけで精一杯だ。動け……動けよ……!
心の中で叫ぶ。
「3分。」
終わりを告げるような声。
ようやく地下室のドアにたどり着いた。しかし閉まっている。床に倒れたままでは開けられない。立ち上がらなければならない。だが足は鉛の塊のようだ。立ち上がろうとするたび、激痛と脱力に襲われる。
体は言うことを聞かない。ドアは越えられない壁のようだった。力は尽きかけ、わずかに這い寄るのがやっと。
カウンター近くの椅子を掴み、それを支えに必死で体を持ち上げる。全身が悲鳴を上げる。それでも、なんとかドアノブに手が届く高さまで上がった。心臓が激しく打つ中、ドアを押し開ける。
「4分!」
地下室が見える。しかし最大の難関は階段だった。残り1分。這ってでも下りるしかない。足は役に立たない。痛みの中、必死に一段ずつ進む。
だが、弱りきった体は裏切った。手が滑り、体勢を崩し、俺は階段を転げ落ちた。
ドン、と鈍い音とともに床へ叩きつけられる。体はぐしゃりと崩れ落ちた。
全身に痛みが燃え広がる。かろうじて顔を上げると、目の前にベッドが見えた。近いのに、遠い。動くたび激痛が走る。かろうじて動くのは右腕だけ。
「4分30秒。」
残った力をその腕に込め、体を少しずつ引きずる。一寸進むごとに勝利のようだった。
「4分40秒。」
悔しさと痛みで涙が溢れる。味方だったはずの体が、今は最大の敵だ。必死に動こうとするが、手足は応えない。
「4分50秒。」
ベッドまであと2メートル。しかし途方もない距離に感じる。右腕は震え、進みは止まりかけている。力はほとんど残っていない。絶望が押し寄せる。
「5。」
失敗した、と悟る。
「4。」
どれだけ心で叫んでも、体は動かない。
「3。」
秒針が死刑宣告のように刻まれる。
「2。」
ベッドは目の前なのに、届かない。
「1。」
最後の一秒が過ぎた。残酷な現実が確定する。俺は負けた。
失敗の重みが錨のようにのしかかる。力尽き、涙が床に落ちる。
足音が近づいてくる。聞き慣れた、あの規則正しい音。悪夢の始まりからずっと付きまとってきた足音。
「ほらね。やっぱり私の助けが必要でしょう? 普通なら浴室から地下室まで1分よ。多めにあげたのに」
声は明るい。しかしそこには見下すような満足が滲んでいた。
「……」
「見てごらんなさい。前よりもっとボロボロじゃない。まあ仕方ないわね。私がちゃんと世話してあげる」
パシャ。
カメラの音が響く。見えなくても分かる。
写真は全部物語を語る……
きっとこの一枚は、俺が最後の抵抗の権利を失った瞬間を語るんだろう。
俺は動けないまま、彼女があの不気味な笑みを浮かべて近づいてくるのを感じていた。
圧し潰されるような現実の重さの中で、俺はただ、静かに運命を受け入れることしかできなかった。




