算数は宗教勧誘
数学者は、我々とはまるで異なる世界に住んでいる。
そしてこれこそが数学の難解性そのものである。
突然何を言い出すかと思われるであろうが、これはただの事実の羅列である。
数学者は実際に我々とは異なる世界観を持っているのである。
数学は難しい。誰もが呟いてきた一言であろう。私もそのひとりだ。小学校から大学まで、古今この方数学は必須科目である。
その必須科目の数学が何故そこまで忌避され、実際に難しいのか。
私なりにその理由を考えていこう。
先述の通り、数学者は異なる世界観で日々を生きている。
我々は普段、五感で物事を捕捉し、脳内で思考的処理をこなして初めてそれを認知する。そうして認知された物事は思考的処理の過程で結びつけられ、それが人の認知する世界へと進化するのである。
そこで得られた世界観は経験となり、そこから想像をして、新たな創造をする事となる。
対して数学者は、得られた事実を同じ脳内でも数学的に処理をして、それを座標上に展開してようやく(数学的に)認知する。
このようにして得られた世界観は数式等に一般化され(経験にあたる)そこから推測をする。これが創造に繋がる事もある。
簡潔に言えば、
我々は思考的処理で認知されたもののみ存在する、自然科学の法則に支配された世界に、
数学者は数学的処理で認知された数、方向、座標のみ存在する、数学の法則に支配された世界に住んでいるのである。
突然だが常識の話をする。
常識とはなんだ。『広辞苑』で調べると、
「普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。」
とある。なるほど。
ただしこれが厄介なのである。
常識とは、同じ世界観の中で共有される考えである。
当然ながら、我々は我々の世界観において、我々の常識を持っている。
数学者は数学者の世界観において、数学者の常識を持っている。
そして今回話している「世界」と言うのは飽く迄も思考の過程や在り方の話で、実際の世界とは異なる。
実際の世界には一般人も数学者も共生している。
その共生の障壁を為しているものこそがそれぞれの「常識」である。
我々は義務教育の過程で数学の常識を教えこまれる。
今まで見たことも無い数式や記号の数々に曝されるのである。
言い換えればそれは「見方を変えろ」ということである。
我々は今までの常識が通用しなくなると強い衝撃を受け、途端に動揺し、目を逸らす。数学の存在を見なかったことにする。
これこそが数学嫌いの所以ではなかろうか。
その点、算数は数学という世界観へ誘導する存在、宗教勧誘の様なものである。
どうやって入学したかも覚えていない小学校のうちから首尾よくその世界観を身につけさせようという魂胆である。
多くの人は勧誘されるだけで引いてしまう事が多いが、一度勧誘を受け入れると途端に熱心な宗教家となる。
同様にして、算数も最初はかなり受け入れられにくい存在であるが、一度その世界観を受容すると最後、もう学校教育に忠実で熱心な数学家となる。
この算数という簡易的な数学世界の仲介役が、全てを担っているのである。