選択科目の少数派
私は今高校生を生業としている。
高校には選択科目なるものが有り、多くは理科科目、社会科目で存在する。
例えば理科の場合、化学・物理・生物・地学より二科目選択なのだが、私の高校では化学は強制、地学はそもそも選択不能となっており、物理・生物の二科目から一つ選ぶ方式である。
私は生物を選んだ。
物理は計算事項が多く、数弱の私には向いていないのと、将来生物系の仕事に就きたいと思っているのでその方が良いと確信した為である。
所が生物選択は圧倒的少数派であり、物理勢から「暗記しか出来ない奴ら」とのレッテルを貼られてしまう始末だ。
生物選択は(少なくとも私の高校では)一種の迫害を受けていたのである。
たしかに事実として計算が苦手で生物を選んだ人もいる。しかしそれで悪いことはあろうか。
よく「数学をなぜ学ぶ必要があるのか」と問う生徒の言う言い分として「計算は計算機に任せれば良い」とのことがある。
これ自体は拙い言い訳でしかないのだが、かと言って単純な計算の場で引き合いに出した時意味合いが変わると思う。
数学で本来求められるのは数学的思考である。それを学ぶには計算力も必要である。これは物理でも同じことだ。
但し生物の場ではどうか。
高校生物に求められる数学的思考は高校数学によって補充されている。なんなら多くは中学数学でも解ける。
物理勢には物理学を志す為の計算力だけ問われ、生物勢には生物学を志す為の計算力だけが問われるべきである。それは高校理科でなら尚のことだと思う。
今どき必要とされるのは万能選手ではなく専門家だ。
削れる努力は削ってほかの事に投資するのがより効率的である。これは誰が見てもそうだ。
大学教授が事務をする必要があるという事の嘆きを聞いたことがある。教授の本分は研究や教育であり、雑用では無い。
これは日本の社会システムや文化に強く根付いたもので、常識や義務、礼儀の範疇が広すぎることが問題であると一高校生ながらに感じる。
特に文化や礼儀は古来より伝わった日本の宝でもある。それが故に効率化の場面で足枷となっていると言う欠点もある。
教育や経済は国家の基盤なるものであり、この場での効率化は非常に重要な課題である。
先述の通り、文化も国家の自己定義に関わる重要な存在でもある。
文化と効率の両立こそが日本の低迷を微力ながらに救える一手となる事を私は信じている。