「罪悪」
推敲前
桜木青は、ここ数日ネオビルが現れたという夢へ飛んでいた。しかし、昨日もおとといも何も起きている気配はなかった。
唯一の手掛かりと言えば、静かな夕方の街で、一つの電車だけが動いていたということ。
今日の夢の始まりは、西千内駅から始まっていた。昨日の夢では、西千内で降りる所で終わっていた。だからここで待っていれば、そのうち電車が来るだろう。
「なんでいるの」
「ふぁかりまひぇん」
桜木青は町田亜依香の両頬をつねった。確かに実体としてそこにある。町田亜依香の夢の核なのだろう。
「行こうと思ったら来れちゃった」
まあいい、ねこくじらに言えば送り返すこともできる。そう青は思っていた。
「いいんじゃねえの。追い出すのもめんどいし」
ねこくじらも町田亜依香に賛成しているようだった。
「じゃあ、なるべく離れないでいて」
「うわ、今のセリフかっこいい」
一発殴って目を覚まさせようかな、と青は本気で思った。
少しして、西千内駅に電車が到着した。町田亜依香も昨日の通学に使っていた、杜ノ宮線である。
4両編成なのは同じだけど、車体のデザインがちょっと違うなあ、と亜依香は感じていた。亜依香が乗っている杜ノ宮線の列車は、黄緑色と橙色のラインが波打つように入っている暗い銀色の車体だ。今目の前に到着した列車は、紫色の直線が入っていて、全体の色もやや明るいように思えた。
「うわ、結構人いるね」
亜依香たちは4両目から電車に乗った。ドアが閉まったあと、擦れ違いで降りた学生がすっと消えるのが窓から見えた。
「あ、すいません」
電車の揺れのせいで、立っていたおばあさんとぶつかってしまい、亜依香は謝罪をした。しかし、ぶつかったおばあさんは何も言うことがなく、そのまま窓の外を見ているだけだった。
「ソイツは記憶が作った自動人形みたいなもんだ。意思はない」
「そうなんだ」
それにしてもはっきりしている。先日の刀馬の夢に出てきた小学生たちは、幻影のようで触れることができなかった。それに対して、今回の夢ではそこに確かに存在していた。
「それだけ記憶に刻まれているってことなんだと思う」
青が言った。
「この列車内の人間全員そうみたいだ。おかげで誰がユメの主なのかもよくわからん」
車内を見渡すと、座ってうとうととしている人や、スマートフォンを触っている人、小さな声で談笑している人もいるが、誰も亜依香たちに意識を向けている人はいなかった。
「とりあえず次の車両に行こう」
青に続いて3両目、2両目とさかのぼっていくが、どこも似たような状況だった。
「もうあとは1両目しかないね」
「運転士って可能性もあるな」
亜依香にねこくじらがそう言った。青は扉を開いて、最後の車両へ向かおうとした。
「何かあった?」
2両目を振り返っている亜依香に対して青が声をかけた。
「いや、ちょっと違和感があって。とりあえず次行こう」
と亜依香は返して、二人は先頭車両へと進んだ。そのときに『まもなく、門前仲町、門前仲町です』というアナウンスが鳴った。
1両目に移り扉が閉まったとき、電車が急ブレーキをかけ、亜依香はバランスを崩した。
「わっ」
青に支えてもらい、体勢を整える。何があったんだろう。電車内では悲鳴を上げる高校生もいた。
謝罪するアナウンスが入り、電車がバックを始めた。所定の位置について、プシュー、と空気の抜ける音とともにドアが開いた。
「これも夢の一部、だね」
青がねこくじらに確かめるように言った。
「ああ、何か手掛かりになるかもな」
ドアが閉まり再び電車が加速を始めた。
「閉じるな」とねこくじらが言って、その夢は終わってしまった。
目を覚ます直前、亜依香は自分と同じ制服の高校生と目が合った。
◇
今日も朝から雨が降っていた。
桜木青は、一度開けられた袋の留め具を外して食パンを取り出した。少し湿気っているような気もする。
面倒なので、焼かずにそのまま一口食べた。くわえたまま冷蔵庫を開け、レモン風味の炭酸水が入ったペットボトルを取り出した。
食パンを炭酸水で流し込んだあと、洗面所で歯を磨きながら洗濯機を回した。青の家には乾燥機付きの洗濯機があるので、干す手間がない。学校から家に帰ってから取り出すので、シワになっていることが多いが。
回り出した洗濯機をぼんやりと眺めながら、誰のかわからない夢のことを考えていた。
車内は人で込み合っていた。ここまで他人がはっきりと刻まれた夢というのも珍しい気がする。ねこくじらも同じようなことを言っていた。夢の主もおそらくあの中にいたのだろう。今朝の時点ではわからなかったが
「おはよう」
そのとき、端立が洗面所に入ってきた。歯ブラシをくわえたままだった青は挨拶に頷いて返した。
青が口を漱いで部屋を出ようとしたとき「朝、送っていこうか」と端立がタオルで顔を拭きながら言った。
「大丈夫」
とだけ青は返した。
「そっか」
「……杜ノ宮線ってなんかなかったっけ」
今朝の夢のことが頭の片隅にあったので、なんとなく端立に青は聞いた。
「電車使うの?」
「いや、バスで行くけど。なんとなく」
なんか、って言われてもな、と言いながらくせ毛の前髪を伸ばすように引っ張った。
「あ、そういえば前に、……いやあれは違うか」
一瞬思い出したような表情を浮かべた後、すぐにそれを否定した。
「ごめん、思いつかないな」
「そっか。まあいいや」
そう言って青は洗面所を出た。何か答えを期待していたわけではない。
亜依香は歩良と一緒に電車に揺られていた。杜ノ宮線であるが、夢での列車とはデザインが異なる。
歩良の持つ大きなスマホを見て、亜依香は今朝の夢の違和感に気づいた。
「杜ノ宮線ってさ、ちょっと前に事故とかなかったっけ?」
亜依香は今年度までこの町を離れていたので、その事情が詳しくなかった。
「え、あー。あったよちょうど5年前」
やっぱり、と亜依香は思った。
車内にいた若者の服装が、少しは槍より遅れていた。特にスマートフォンが片手に収まるような小ささだった。今はスマホの全体が画面になっているが、少し前は画面は全体に広がってなかった。
5年前であれば二つ折りの携帯の人はほとんどいなかったので、その点でも合致する。
「脱線事故。スピード出しすぎてカーブ曲がれなかったんだよね。ウチん家の近くだったから覚えてる」
飛び出した電車がマンションに突っ込んでたんだよね、と歩良は付け足して言った。
そう言えばそのニュースを見たことがあるような気もした。かなり凄惨な事故で、鉄道会社の責任問題も含めて全国的に報道されていた。
「運転手さんが過労で事故が起きたんだっけ」
「確かね。でもカルト宗教の陰謀って噂もあったなー。その時期に交番の事件もあったし、集団下校とかしてた記憶あるわ」
「事故が起きたのって杜ノ宮駅?」
「そ。門前仲町と杜ノ宮の間。……てかどうしたん?」
「え?」
「いや急に聞いてくるから、事故のこととか」
「あ、朝のニュースでちらっと見かけて……」
亜依香は苦笑いしながら言った。
「へー。ま、おっきい事故だったしね。ウチが降りる杜ノ宮駅にも、なんか花とか置いてあったし」
その後は歩良のアルバイトの話と、今度みたい映画の話など、通常の会話に戻っていた。
「来週はちょっと晴れが多いみたいだね」
「あーてことは来週から自転車?」
「うん」
駅から家までやや遠いという問題はあるが、新鮮で少し楽しかったので残念にも思っていた。歩良と一緒に帰る機会もなくなってしまう。
「そっか……」
歩良も少し残念そうに言ったような気がする。でも7月また降るだろうしね、と亜依香は笑って言った。
帰宅後、杜ノ宮線脱線事故について亜依香は少し調べていた。
被害は大きく、100人近い死者と、数百人の負傷者が出ていた。
列車は門前仲町を過ぎ杜ノ宮に行く途中のカーブでスピードを出しすぎて脱線、慌てて急ブレーキをかけたのだが、そのままマンションに突っ込んでしまった。1両目はひしゃげてしまいもとの半分以下の薄さになっていて、亜依香は思わず息をのんだ。ここに何十人もの人がいたというのか、想像もしたくない。
ブレーキの影響で後ろの車両が横転してしまったことも被害の拡大につながっていた。杜ノ宮線の列車は動力が先頭にあり、1両目が他の車両をけん引するようになっていた。自転車の前輪だけ急にブレーキをかけると前につんのめってしまうように、減速に対応しきれず直進を続けようとした後ろの車両も脱線、横転したのだった。
全国的に見ても大きな事故であり、調べるといくつもニュースが出てきた。
動画サイトでまとめられているものもあった。
『偶然腹痛くてこの列車降りたらそのあと事故あったんだよね』
『勤務形態の厳しさが招いた事故。殺人だよこれ』
そんなコメントも見られた。中にはカルト宗教が仕組んだもの、と決めつけるようなものもあった。根拠らしい根拠は見られないようだったが。
ブレーキなどのシステムの整備が進んだ最近だからこそ、事故についての考察が多い。
夕方であったこともあり、過労ではないかとする見方もあった。そう言えば、今朝の夢も夕焼けの街を走る列車だった。事故から5年か、と日付を見ると、
「明日だ」
じゃあ、今夜の夢で、起きるかもしれない。
◇
あのとき、笠竹ほのかはまだ小学6年生だった。
習い事から帰るために、杜ノ宮駅への電車に乗ったのだった。両親の都合が合わず車の迎えに来れなかったときに、電車を使うことは何度かあった。その日も今まで通り切符を買って電車に乗った。
乗る駅では電車は空いていて、杜ノ宮に近づくにつれ段々と混み合っていく。
一定のリズムを刻みながら揺れている。椅子に座った彼女の前には、電話をしているサラリーマンがいる。その隣の初老の男性が、サラリーマンを睨みつけていた。車内はかなり混んでいて、つり革につかまらず立っている人もいた。
うたた寝をした隣の女性の頭がほのかの肩に寄りかかってきて、次のカーブで反対側の方へ倒れていった。
窓の外を、夕焼けで赤く染まる街が走り去っていく。
『まもなく、西千内、西千内です』
電車が少し遅れて西千内に到着した。
電話を切ったサラリーマンがため息を吐いた。女子高生が小さく話す声が、揺れる電車にかき消される。
『まもなく、門前仲町、門前仲町です』
電車が急ブレーキをかけた。体が左に傾き、隣の女性が驚いて目を覚ました。つり革につかまっていなかった人がバランスを崩して転んだ。初老の男性が運転席を見て舌打ちをした。女子高生が悲鳴を上げた。謝罪のアナウンスが入った。
門前仲町を過ぎ、終点の杜ノ宮駅まで電車が走り出した。
突然、甲高い音がして、車内の人間が大きくバランスを崩した。ほのかもまた隣の女性側に倒れてしまった。
急ブレーキがかかったのだ、と気づいた後、一瞬浮遊感に車内は包まれた。
悲鳴が上がる。どよめきが聞こえる。
「え」と間の抜けた声をほのかは聞いた。
ガガガガ、と大きな音を立てながら上下に揺れる列車。異常なことが起きると、それがとても長い時間のように感じられる。
ほのかの上に何かが落ちてきた。網棚の上にあったカバンだろうか、車内は混沌としていてよくわからない。
だんだんとほのかの意識が薄れていく。
潰れる音がした。車体、コンクリートの壁、人間。
痛みと共に目が覚めた。
ほのかはうつぶせに倒れていた。仰向けだったかもしれない。上下もよくわからなかった。額の上が熱い。きっと血が流れている。
うっすらと目を開ける。左目がいたくて開かなかった。
首をかろうじて動かして、自分がどこにいるのかわからなくなった。電車の中にいるはずだった。でも、目に入る光景は、さっきまでの電車とは何も一致しない。
割れた窓、ひしゃげた鉄棒、天井の側へ垂れたつり革、そして人、人、人だったもの。
叫びにもならない渇望のうめきの中で、強くはっきりとした声が聞こえた。
「大丈夫ですか! 返事はできますか!」
レスキュー隊だとは気づけなかったが、助けが来たことはわかった。
ほのかは声を出そうとしたが、痛みで上手く声が出せなかった。うめき声たちにかき消されてしまう。
「生きてる! 生きてるぞ! ああ――」
ほのかにレスキュー隊の一人が気がついた。
椅子やカバンに挟まれて動けないほのかの上半身を引っ張り出そうとしたが、ほのかがいたさで悲鳴を上げたため中断された。段々とまたほのかの意識が遠のいていった。
結果的にほのかは助けられた。次に目が覚めたときは病院で、ベッドのそばに両親がいた。
左足の骨折はあったものの生きていた。先頭車両の中ではほとんど軽傷のようなものだった。
5年たった今では何事もなく過ごせている。
高校の通学で杜ノ宮線を使う、となったときに両親はひどく反対した。
大丈夫だよ、とほのかは言ってそれから今も使い続けている。ずっと送り迎えしてもらうわけにはいかないし、それに――
あのときほのかは自分の上に覆いかぶさっているものが人間であることに気づいていた。一人だけじゃないかもしれない、それらの影響でほのかの足が絡まり抜け出せなかった。
先にそっちを助ければよかったのだ。
でも、先に助けたのは私だった。なぜだろう。私が子どもだったからか。
生きてる。生きてるぞ。そう、私は生きていた。私だけが、生きていた。
◇
夕焼けの駅のホームで、青と亜依香は電車を待っていた。
亜依香が調べた話は、すでに青に伝えていた。
事故が起きれば、その経験に潰され、心が折れる可能性がある。
ねこくじらが言うには記憶や人の思考を利用した環境型のネオビルらしい。今回は「あるもので遊ぶ」悪夢だそうだ。「ないもので壊す」悪夢もあるらしい。
ホームの時計を見ると、もうすぐ到着の時間だった。昨日と同様、西千内駅に二人はいた。
「あ、来た」
亜依香が目を向けた方向から、紫色のラインが入った列車がやってきた。
扉が開き、何人かの人が降りてきて、亜依香たちも乗ろうとした。
「――でも、それじゃつまんないよね」
GyAaaaaa! とネオビルの叫び声が聞こえたときには、青は吹き飛ばされようとしていた。横から飛び掛かってきたネオビルを、REMで防いだ。
「青ちゃん!」
電車の中から亜依香が言った。思わず降りようと足を踏み出したが「行って」という青の言葉でとどまった。結果として、扉は閉まり電車は発車してしまった。
「あーあ、一人乗っちゃった。でもあの子ならいっか」
青にはじき返されたネオビルが、体勢を整える。隣に、一人の子どもが立っていた。少年のような少女のような、まだわからない未成熟な子ども。再び飛び掛かろうとしたネオビルを、右手で制した。
「青、ソイツと戦うな」
ねこくじらが、普段より切迫した声で言った。
「あらためましてこんにちは。僕はアサヒ、よろしくね!」
アサヒは無邪気な笑顔でそう言った。あまりに敵意がないので青は少し拍子抜けした。
「ソイツはメアネオビル。ネオビルを生み出すネオビルだ……!」
なるほどこいつが元凶か、と考えて青は剣の切っ先をアサヒへとむけた。
「今日のために結構頑張ったから、邪魔はしないでほしいんだよね」
アサヒは表情を崩さないままだった。そして獣のようなネオビルをポンポンと叩いて言った。
「だからこいつと遊んでね、お姉ちゃん」
アサヒがそう言った瞬間、青はすでにアサヒへと斬りかかっていた。
しかし、それはネオビルによって防がれた。幾度か斬り合ったあと、一度間合いを取るために離れた。
「僕もそろそろあっちに行きたいなあ。そうだ、これ食べて頑張って。アンバー」
そう言ってアサヒは自分の右腕をネオビルの前に差し出した。
ためらうことなくアンバーという名のネオビルはその腕を喰らった。
「痛ったあ。まああとで直るからいいけど。それじゃあね」
右腕の半分をなくし血を垂れ流しながら、アサヒはそう言って青の前から消えてしまった。
「……っ」
周りを見渡すが、どこにもいない。探すだけ無駄だろう。それよりもあいつを何とかしなければ。
アサヒの右腕を喰らったネオビルは、身体を変えようとしていた。覚醒状態に入ろうとしているのだろう。
体が膨らんだり縮んだりしながら、徐々に変化が進んでいく、表面が透明感のある褐色へと変化していく。
「ねこくじら」
「ああ」
「町田亜依香の方に行って。私は――」
『変換・方式〈打撃〉』大剣が斧へと姿を変え、青の刃が赤く染まった。
「潰してすぐに追いつくから」
「わかった」そう言ってねこくじらは消えた。
アンバーと呼ばれていたネオビルに先ほどの獣のような腕も足も、口もなかった。
一度全部を溶かして再び固めたように、そこには天然の鉱石のように尖った物体があった。
「QiEeeeeee」
甲高い電子音のような鳴き声を上げ、先端をいくつも持った鉱物が回転しそのまま青へ体当たりをしてきた。
「さっきと全然違うじゃん、か」
ぶつかってきたネオビルを避けずに斧で叩き割ろう殴った。
パリン、とひびが入り、ばらばらに砕け、青の目の前でいくつかの欠片に分かれて散った。
やった、わけがない。そう思って身構える。
事実として、割れた欠片は再構成をはじめて、4つの塊へと変化した。塊は、散った時の勢いそのままに、青を囲むように宙を舞っていた。
「PiQuWeeee」
塊が光り出し、対角同士でレーザーのようなものを届けるように放った。
間一髪でそれを避けたが、その間に塊は再び組み合わさり元の鉱物のような状態に戻ってしまった。
鉱物は粘土のように柔らかく姿を変え、一つの正八面体に変わった。鋭い先端部分が、青の元へ勢いよく突撃した。
再び斧でそれを受けるが、先ほどのように欠片が散った。無数の欠片が光り出し、その光はすべて青の方を向いていた。
「やば」
走り出してしまった列車。閉まった扉に、こん、と亜依香は頭を打ち付けた。
そして一つ大きく息を吐いて、車内の方へ向き直った。
青ちゃんは無事だろうか、なんて考えても仕方ない。今から助けに行くことはできないし、そもそもネオビルを倒すことにおいて助けることはできないのだから。
不安や恐怖を糧にしてネオビルが生まれるという。なら、その不安を取り除けばいいはずだ。
言うだけなら簡単で、実際にどうすればよいのか、なんて思いついてないけれど、とりあえず、私にできそうなことはそれくらいだ。そう、亜依香は考えていた。
夢の主について、亜依香はあたりが着いていた。昨日入った夢、先頭車両にいた、亜依香と同じ制服を着た高校生。
5年前に起きた事故ならば、3年前新しくなった制服を着ている人がいるのは不自然だ。おそらく、彼女が何か知っているはずだ。
「あれ」
先頭車両へ向かおうとして、亜依香は昨日と異なる光景に気がついた。
「人が減ってる?」
昨日は満員に近い人数がいたはずなのに、4両目に立っている人はおらず、車両の壁に沿ったロングシートには、人がまばらで、みなうたた寝をしているようだった。
とりあえず次の列車へと亜依香は移動した。
扉を開いて亜依香は目を見開いてしまった。通路に人が数人倒れている。これも昨日はなかった光景だ。
おそるおそる近寄ってしゃがみ、様子を見るが、胸は上下していて、微かに呼吸の音も聞こえる。寝ているだけだ、とほっと胸をなでおろした。
再び立ち上がって前を目指そうとしたとき、亜依香の高校の制服を着た人を見つけた。シートに座り手すりにもたれかかるようにしていた。
彼女か、と思って亜依香は近づいて顔を確認し、え、と驚きで固まった。
「……歩良ちゃんだ」
制服の彼女は昨日夢で見つけた人ではなく、亜依香の友人の洲川歩良だった。その恰好は昨日電車で一緒に帰っていた時と全く一致した。
「せっかくの晴れ舞台なんだ。一人芝居なんてつまんないもんね」
少し離れたマンションの上、アサヒは無邪気に笑った。先ほどネオビルに喰らわせた右腕はすでに元通りになっていた。
「どうしよう、なんでここに歩良ちゃんが?」
と亜依香は眠っている歩良に手を伸ばした。
「起こすな!」
そのとき、突然現れたねこくじらに止められた。
「ここはソイツのユメじゃない。他人のユメで自我を保てるのは稀だ。そのままにしとけ」
亜依香は慌てて手を止めた。
「ねこくじらはどうやってここに」
「オマエとは縁を結んだからな、飛んでくるくらいは簡単だ」
ねこくじらがいるだけで亜依香にとってはかなり心強かった。歩良の方を見て、亜依香は言った。
「この子、私の友達なの。5年前の列車ならここにいるはずないのに」
「アサヒの仕業だ。アイツは『あるもので遊ぶ』ネオビル。ヒトの記憶や思考の中に、他人を呼び込むことができる」
ということは、歩良だけではない、この場で眠っている全員が、現実で生きている人の夢の核ということか。それに気づいた亜依香は背筋が凍った。
「これで納得がいった。おそらくアイツは、この列車で事故を起こし、この列車にいる全員ごと潰す気だ。人格を喰らって知性を得るんじゃなく、ただ潰して廃人とする」
『まもなく、門前仲町、門前仲町です』
そのとき列車内にアナウンスが響いた。次の駅に着いたときに全員降ろす? それは無理だ。この人数はどうしようもない。やっぱり、列車を止めるしかないだろう。
「ブレーキかけても止まらないだろうな。記憶で列車が事故を起きているなら、起きるものとして考えた方がいい」
ねこくじらは冷静にそう言った。
でも、それなら。いや、悩む前に会いに行こう。夢の核、事故の記憶を持った彼女に。
気がつけば、笠竹ほのかは列車の先頭車両のシートに座っていた。ここ数日同じ夢を見てきたから、はっきりと周りの風景が目に入る。
「?」
車両には自分しかいなかった。でも、きっとそれは正しいことだ。
記憶の中の乗客は、誰もこの世にいないのだから。
西千内駅に止まった。彼女は降りなかった。
急ブレーキがかかった。門前仲町に止まった。彼女は降りなかった。
私がこの電車に乗っているということは、脱線しあのときの事故が起きるはずだ。そして私は、今度こそ死ぬのだ。
「見つけた!」
急に声がした方をほのかは振り返った。そのとき思い出した。昨日、夢で目が合った少女だ。後ろに謎の黒い小動物もいる。
「夢を見ているのは、あなたですね」
少女がほのかの方に近づいて、そう言った。
笠竹ほのかは、5年前の事故の生存者らしい。それがトラウマになり、記憶の深くに刻まれたのだろう、とねこくじらが説明した。
門前仲町は過ぎてしまった。カーブにさしかかるまで、おそらく数分もないだろう。分後には、この列車はカーブを曲がり切れずマンションへ衝突する。
笠竹ほのかを含め車内の人間を、なんとか脱出させなければならない。ブレーキは無理でも今から逆走させるとか、と考えて後ろの車両の方を振り向いたとき、一つの案が亜依香に浮かんだ。
ただ、青ちゃんの協力が必要だ。
鉱石状のネオビルと対峙していた青は、やや焦っていた。
衝撃ですべて粉々にするか、爆撃で焼き尽くすか、どちらにせよ、予備動作が必要だ。その隙を作ることができない。
そもそも隙ができれば倒さずとも逃げることができるはずだ。その隙を、どこかで――
まずい、息が上がってきた。動きに無駄が増える、熱線をかわし続けることも難しくなってくる。
鉱物がまた尖った正八面体へと変化した。突進してくる、と思って。かわす動作をしようと思った。
そのとき、青の後ろから影が走った。
姿をはっきりとは見えなかったが、長い刀を持っていたような気がする。影は、その刀で正八面体を2つに断った。
「な」
青は一瞬驚いたが、すぐに切り換え、この隙を逃すわけにはいかないと思って原付を呼び出し飛び乗った。
加速するまでに、横目で影の姿を捉えた。
袴姿で羽織をしていた。まるで侍のような容姿をしていたそれには頭がなく、代わりに紫色の炎が揺らめいていた。
「味方?」
ではない、直観的に青は悟った。あれはあのネオビルを斬った後、青のことを斬るつもりだろう。
であれば早くここを立ち去り、あの列車に追い付かなければならない。
風景を捉えられないほどに、青は線路の上を加速した。列車はどんどんスピードを上げている。
「おい」
「ねこくじら」
どこからともなくねこくじらが現れた。彼は縁を結んだ人の元に飛ぶことができるから、その力だろう。
「亜依香から伝言だ『1両目の連結部分を撃ち抜いて』」
「わかった」
理解するより先にそう返答した。
私にできることはそれだけだ、と感じていたから。
スマホを投げ捨て、さらに加速する。列車に並ぶほどスピードを上げる。
「この先に長めの橋がある。やるならそこでだな」
ねこくじらがそう言った。
原付は一両目と二両目の間の隣を並走している。亜依香は2両目にいるはずだ。
「あれ、撃ち抜きたいんだけど」
片手をハンドルから離し、REMを持つ。その言葉に応じて、変形が始まった。
『設定・方式〈射撃〉』
大剣の刃が開き、Vの字を作った。持ち手が曲がり、一つの大きなクロスボウへと変わった。
構え、引き金に指を添える。集中している暇はない。
『更新――識別"藍"』
「――届け」
『狙撃』
青緑色の光の矢が、真っ直ぐに連結部分を過ぎ去った。
2両目以降は段々と減速し、1両目との差がどんどん離れていく。
「え」
遠ざかる1両目に、人影が見えた気がした。
ほんの少し前、2両目にて。
「1両目に人がいなくてよかったあ」
亜依香は安堵していた。杜ノ宮線の動力は1両目にあるはずで、2両目以降を切り離せば、最悪の事態は免れると考えていた。
窓から外を見ると、青が原付でこちらに向かってきているのが見えた。
ねこくじらに頼んで、亜依香のもとに来たように青のところへ行ってもらった。
夢の主である笠竹ほのかにははっきりとした意識はなく、どこかぼんやりと遠くを見ているようだった。ひどく客観的に、これから起きる惨状のことを捉えているように思えた。
あとは青ちゃんがやってくれる、そう亜依香は確信していた。
「――駄目」
「え?」
しゃがみこんでいた笠竹ほのかが急に言った。
「私、私が、助かってしまう」
「待って⁉」
笠竹ほのかが1両目へと走っていった。正気のようには見えなかった。
青はもう準備を終えているだろう。
どうしようもない。もう何も、考えられなかった。
私だけ、私だけ助かってしまった。私だけが生きてしまった。
どうして。もっと生きたい人がいたのかもしれないのに。
ああ、あの人は私のせいで死んだのかも。
みんなが私を助けなければ助かった人がいたのかも。
ああ、駅に献花を置かないで。献花の前で泣かないで。
私の罪を、暴かないで。
少女に連れられてほのかは2両目へと移動した。彼女が助けてくれるようだ。
それでは駄目。
みんな恨んでいるでしょう。私だけが生き残ったことを。
電車に乗らないでほしい、と両親は言うけれど。
そう言って心配できない人もいるのだろう。
ああ、私も、死んでしまえばいい。
そう思ったときには、走り出していた。
少女の制止も気にならない、私の居場所はここじゃないはずなんだ。
背後で青緑色の光が走るのが見えた。続けて音が鳴り響き、車内が揺れた。
きっと、少女の考えは上手くいったのだろう。
そう、それでいい。それでいいんだから。
なんであなたがここにいるの?
「よし、上手くいった」
離れていく2両目を見て、亜依香はほっとした。
「いや、ほっとしてる場合じゃなかった! どうしよう!」
思わず座り込んでいるほのかに声をかけた。
ほのかが1両目へ行ってしまったときは驚いて頭が真っ白になってしまったが、どうやら私は考えるより体が動く体質のようだ、仕方ない、と亜依香は思った。
「なんで、なんであなたが! 死んじゃう、死んじゃうよ」
まるで自分が殺されるかのように泣いていた。
自分だけ生き残ってしまった重圧は、亜依香には想像できないものだろう。
5年間、背負い続けてきたのだろうか。自分も死ねばよかった、自分が死ねばよかった、と。
亡くなった人の分まで精一杯生きようと考えたこともあったのだろうか。知らない人の死と共に生きるなんて、どれほど辛いことなのだろう。
「まだ、生きてるよ」
うつむいていたほのかが顔を上げた。
生きていく理由とか、まだ私にはわからないけど。死にたい理由が、彼女にはあるのかもしれないけれど。
「生きてるから、生きないと」
あなたが死ねばよかった。そんなわけがない。亡くなった人も、遺族も、家族も関係ない、ここにあるのはあなたの命。
電車が止まればよかっただけなんだから。
だから、止めてみよう。電車なんて、ブレーキかけたら止まるんだ。
亜依香は運転席に入った。大きな車窓から、流れるように過ぎ去る街並みが恐ろしい。
「多分これだ」
ハンドルを握り、奥へと倒す。ちゃんと倒れた。あとは止まってくれればいい。
急なブレーキに、身体が前に倒れそうになった。止まろうとする装置に反発して進み続ける列車が摩擦の甲高い音を鳴らす。
止まれ。止まれ。止まれ。
そう願いながら、車両の真ん中にいるほのかの元へ亜依香は向かった。座り込む彼女を抱きしめる。泣きはらした彼女は小学生のように見えた。
「大丈夫。止まるよ」
根拠なんてない。ただそうしたいだけだ。
腕の中の彼女が亜依香の服の裾を掴んだ。
列車が大きな音を立てる。亜依香たちの重心が揺らぐ。一瞬の浮遊感。列車が線路を外れた音だ。亜依香はぎゅっと目を瞑った。
亜依香が目を開くと、天井ではなく電車の扉があった。
ぼんやりとそれを眺めていると、ガコン、という音がして、扉が開いた。赤い夕陽の光が差し込んだ。
「無茶しすぎ」
逆光から青が顔を出した。
「あはは……」
亜依香は苦笑いで返す。
「お疲れ様。止まったよ、電車」
青は開いた扉から飛び降り、今は下となっている電車の側面の窓に着地した。どうやら電車は横転したらしい。急ブレーキの影響だろう。
「気づいてんならさっさと降りろ」
「あ、ごめん」
ねこくじらがクッションとなってくれたようだ。あわててどくと、膨らんでいたねこくじらがしぼんでいった。一緒に倒れていたほのかを青が支えた。
ほのかは気を失っているようだった。というより、眠っているように亜依香には見えた。何か、夢を見ているかのような。
「無事で、よかった」
それにほっとしてしまい、亜依香もまた力が抜けていくような気がした。
「助からなければ潰れるし、助かっても罪悪に潰れる……はずだったんだけどなあ」
マンションの上から、アサヒはそうぼやいた。
「残念だったわね」
「トウカ」
傘を差したワンピースの女性が隣に立っていた。
「昨日電車に乗ってた人いろいろ連れてくるっていうの、結構よかったよね」
「ええ」
「まさかトウカもいるとは思わなかったけど」
歩良たちを夢に誘い込むことにしたとき、たまたま対象にした電車にトウカもいたのだった。
「ちょうどいい人を見つけたの、悪夢を見せたくなるような」
「ふーん、かわいそうだね、その人」
「ええ、かわいそうね、本当に」
そう言ってトウカは微笑んだ。
あーあ、失敗しちゃったな、とアサヒは屋上に寝っ転がった。
「でもまあいいんだ。頑張ったし、頑張ってくれたし」
明るい声のまま、アサヒは笑顔でそう言った。
「悔しいわね」
その顔を見ずにトウカが返した。
「……うん、悔しい」
そう言って、アサヒは右腕をさすった。
「腕、痛むのかしら」
「アンバーがやられちゃったんだ。誰かわかんないけど、デイドネオビルに。絶対ジンドのやつだよ」
ペットは飼い主に似るからね。飼い主がペットに似るんだっけ? とアサヒは首をひねっていた。
もうすぐ夢が閉じようとしている。
「今度、私と一緒に悪夢を作りましょう」
「いいの! 絶対だよ。約束!」
跳び起きてアサヒが言った。差し出した小指に、トウカも小指を出し、指切りをした。
そして、世界が白に包まれた。
◇
笠竹ほのかは、今日も杜ノ宮線を使って家に帰っていた。定刻通りホームについた電車から降り、改札を抜け、出口へと歩いた。
前から歩いてくる二人の女子高生とぶつからないように少し横によけた。
「刀を持ったデイドネオビル! かっこよさそう……」
「頭なかった、そう言えば」
「デュラハン系だ⁉ 首なし騎士とかめっちゃいい」
「いや、頭の代わりに炎があって」
「ええええ属性が強い」
すれ違う途中、軽く会釈をされたような気がした。同じ制服だったし、どこかで会ったことがあったのかもしれない、とほのかは思った。
歩いた先に、献花が供えられていた。否が応でも、5年前の事故を思い出させる。
立ち止まって、ほのかは手を合わせた。
私は生きている。生きていてもよいのだろうか。
まだわからない。わからないけれど。それはきっと、もう少し先の未来で。
『生きてる! 生きてるぞ! ああ――』
『よかった!』
覚書
笠竹 ほのか(かさたけ ほのか) 亜依香たちの通う千内第二高校の2年生、杜ノ宮線脱線事故で生存した
アンバー 分裂も可能な鉱石のようなネオビル、分裂した破片を繋ぐように熱線を放つ
ネオビル:ブランク
口だけしかない顔、長い鉤状の腕、昆虫のような表面、
ネオビル
ブランクの成長した状態
夢の主によって見た目や能力は様々
デイドネオビル
ネオビルが人の夢を喰らって成長した状態
知性があり、夢渡りが可能
他のネオビルや人の夢を喰らってさらに成長する
メアネオビル
ネオビルを作り出し、人に悪夢を見せ、心を折る
ネオビルたちの祖
怪物に襲わせる、環境を作る、記憶や思考に干渉する、などやり方は様々
夢渡りも可能
夢渡り
縁を辿って他人の夢に入る
対象は「ネオビルのいる夢」と「現実で会った人の夢」
夢渡りができるAがBと出会う
Bの夢の中にはBの知るAが存在している
そのBの中のAと同期することで夢渡りが可能