「不安」
カーテンの隙間から差し込む光が、町田亜依香のまぶたの奥を明るく照らす。
頭はぼんやりしているけれど、夢を見ていた記憶がはっきりとある。
怪物から逃げるように走っているうちに、段々と空が明るくなっていった。そして気がつけば、亜依香はベッドの上で目を覚ましていた。
夢を夢だと確かめるために、リビングに行って窓を開いた。
ベランダから棟に囲まれた公園に目をやると、夢の争ったような跡はどこにもなかった。駆けまわった色とりどりの屋根が見える。それを眺めているうちに、後ろから声をかけられた。
「おはよう。今日は早いのね」
「……おはよ」
サンダルを脱いでリビングに上がり、窓を閉めた。最近母とぎくしゃくしている。原因は私の態度にあるけれど、その態度の元はお母さんにある、と彼女は感じていた。
「いつもそうだといいんだけど」
余計な一言だよ、と思って、ぼさぼさの髪を直しに行った。
チャイムが鳴ってしばらく経ったが、桜木青は教室に現れなかった。なんなら一時間目の生物基礎の先生もまだ来ていなくて、教室はちょっと騒がしい。もっとも、桜木青が学校に来ていないことを気にしているのは、町田亜依香だけのようだった。
聞いてみたいことがある。夢の中に出てきただけだけど、あの怪物の恐怖と、助けられたという実感は、確かなものとして自分の中にある。あれを自分の中だけに収めることは、彼女にはできそうになかった。
ガラガラ、と教室の前のドアが開いて、教室が一瞬静まって生徒の視線がそちらに向く。
「いやあ遅れちゃった。ごめんごめん」
ずれた丸眼鏡を直しながら生物基礎の端立先生が息を切らして入ってきた。白衣の襟が変に曲がっているのはいつものことで、くせ毛が強いぼさぼさの髪はパーマのようになっている。
教室に入るなり板書を始める端立先生よりも、先生と同じタイミングで後ろの扉から教室に入った桜木青の方が気になっていた。
桜木青のまわりを、黒い魚が浮き泳いでいる。昨日までは絶対になかった影は、夢で見たねこくじらと合致した。
亜依香は驚いて教室を見まわすが、誰も何も変わった様子はない。おそらく、私にしか見えていないのだろう、と彼女は思った。凝視していると変に思われるかもしれないので、こっそりちらちらとねこくじらを盗み見た。
あくびのような動作をしながら教室をふよふよと浮いている。時折桜木青に話しかけているようだったが、それを聞き取ることはできなかった。こちらを向いたような気がして、慌てて目を窓側に向けた。その方が怪しいかもしれない、とはその後で気づいた。
でも、あのねこくじらの存在で、亜依香の中で今朝の夢が確かなものへと変わった。
話しかけるタイミングが見つけられないまま昼休みが来てしまった。チャイムが鳴ってすぐに教室を出た桜木青の後を追おうかと一瞬考えたが、結局歩良たちと机を並べてお弁当を食べることにした。
大学生の彼氏と車で千葉に東京のテーマパークに行くことになった、という歩良の話を笑って聞いていた。
「あっかはどう?」
「あー、私もそれがいいと思う、かも?」
「そ。まあそうだよねー」
放課後も桜木青を見失ってしまい、亜依香は約束通り崎山模型店へと自転車で向かった。
「来たよー。竜兄」
『お疲れさま』
のれんをかき分けてエプロンをつけた彼が現れた。エプロンがと両手汚れているところを見ると、何かの塗装を行っていたのかもしれない。
『はい、昨日のあれ。今日もよろしく!』
大げさに箱を取り出して亜依香に渡した。今日のお面は「アーリーライザーオルタナ」だ。戦国時代に送り込まれた『REM』が、とある足軽に力を与えたときの、やや兜っぽい装飾が特徴的なものだ。相変わらず無口な彼が接客業で大丈夫なのかと亜依香は思っているが、お面のおかげで子どもには人気が高いらしい。
右腕関節の細かいパーツに感動しながら組み立てていると、コップにお茶を入れて竜文が持ってきてくれた。
「わ、ありがとう」
『いえいえこちらこそ。僕塗装はは得意だけど組み立て苦手だから助かるよ』
塗料コーナーを親指で差しながら、肩をすくめて竜文が表した。
組み立てを行う亜依香の向かいの椅子に座り、器用にお面をずらしてお茶を飲みながら竜文が首を傾げた。
『そういえば、亜依香は部活とか入ってないんだっけ』
「部活なら入ってないよ」
『もう5月だからさ、学校最近どうなのかなって』
「……竜兄には関係ないでしょ」
亜依香が思っていた以上に冷たい声が出て、自分でも少しびくりとした。
「……ごめん」
そう言ったのは、亜依香だったろうか、竜文だったろうか。次に亜依香が顔を上げたとき、竜文の姿はなかった。
居心地が悪くなって、武器だけ完成したプラモを無言で箱に片づけ、そのまま亜依香はひっそりと店を出た。
ああ、なんでこんなにうまくいかないんだろう。ずっと、何かが体を押さえ付けているようで息苦しい。
どうにかしたいような焦りとどうにもならないような諦めと。
夕飯の間、母親と目を合わせることも、声を交わすこともなかった。
なぜか「ごちそうさま」が言えなかった。
お風呂から上がり、アプリで動画を見ながら髪を乾かす。
『アーリーライザー変身集』というタイトルの動画は、何度も見返したものだから、ドライヤーの音にかき消されても何を言っているか頭に浮かぶ。
無印初代アーリーライザー第2話、突如学校に現れた怪人から生徒をかばうため、REMの力を借りて先生が変身するシーンだ。
「オーソライズ、アンリミテッド」
不登校の少年が生み出した社会と大人への不信感、それに応えて現れた怪人を、ヒーローとなった先生が倒す。少年の心を同時に救うありきたりな物語。
「セット、モード『スラッシュ』」
鍵型のREMが展開し鎧と大剣へと姿を変える。機械的なフォルムに、血管のような青白い光が走っている。何かを守るという意志を持たない人にREMは力を与えないが、与えたならば何よりも迅速に敵を断罪する。
「はあ」
小さくため息を吐いて亜依香がドライヤーを切ると、スマホの音量を大きくしていたため、爆発音が部屋に響いた。
夢だ。
私は、夢を見ている。
気がついたとき、亜依香は強い濁流の中にいた。
ミルクを入れすぎたコーヒーみたいな茶色の中。「かはっ」と持たない息が漏れた。
苦しいな、と冷静に亜依香は考えていた。どこかで経験したことがあるような気がした。
もがいて陸に上がろうとしても、思うように体が動かない。急な水の流れに逆らえず、そのまま亜依香はどんどん沈んでいく。同時に視界が狭く、暗くなっていく。
目を閉じかけたとき、ばしゃん、と水が跳ねる音が聞こえた。
何かに手を掴まれた感触がして、次の瞬間、亜依香は宙を舞っていた。
「げほっ! はあ……っくっ」
「大丈夫、には見えないね」
「うん。大丈夫じゃないかも」
河原に横たわっている亜依香が目を開けると、さかさまの桜木青の顔が見えた。覗き込むようにしている彼女に、何とか言葉を返す。
耳元でけたたましく水が流れる音が聞こえる。雨も降っているようで体が冷えてきたようだ。だんだんと落ち着いてきて、改めて状況を確認した。
亜依香は体を起こして桜木青の方を向くと、彼女はお腹にロープを巻いており、ロープの先をねこくじらが咥えていた。なぜか、彼女も亜依香も学校の制服を着ていた。
「……ありがとう」
どっと疲れがでて、また倒れ込んでしまう。大きく腕を広げて、地面に疲れをしみこませる。
「どういたしまして」
変わらず無表情のまま桜木が言った。深い青色の髪は雨に濡れてすこし癖が出ている。まつ毛長いな、とどうでもいいことに気づいた。
「事情、聞きたいかも」
何が起きているかわからない。でもただ一つの夢で終わらせられるような時間じゃなかった。きっと、彼女が何かを知っている、と亜依香は確信していた。
「わかった。とりあえず、場所変えるね」
「ひゃっ!」
急にお姫様抱っこをされ、少し変わった声が出てしまった。
そのまますぐ近くの公園の屋根の下まで運ばれた。「さっむ」と呟きながらねこくじらがふわふわ浮いて着いてきていた。
「あ」
「どうしたの」
「知ってるんだ、この公園」
小さいときに竜兄と遊んだあの公園だ。そういえば、近くに川もあった気がする、と亜依香は思い出していた。
「町田亜依香の思い出の場所?」
どうしてフルネームなんだろう、とは聞かないで置いた。やっぱり桜木さんには少し変わったところがある。
「うん、そう」
確かに思い出の場所ではある。夢に見てもおかしくはないのかもしれない。
「ここが、町田亜依香の夢のなかってことはわかってるよね」
彼女の言葉に亜依香は頷いた。
「『夢』は、その人間の精神とか人格を司っている。だから、この世界すべてが、町田亜依香のすべてなんだ」
「じゃあ、ここにいる私は?」
亜依香が自分の顔を指さして聞いた。
「夢の核、この世界の心臓みたいなもの。昨日の怪物、ネオビルは、人の夢を食らう存在。だから、あいつに食われないようにしないと」
「食べられたら、どうなるの?」
「えっと……」
言葉に詰まった桜木をフォローするように、ねこくじらが言った。
「人格を失う。まあ、人として死ぬ、と思っていいな」
「あ」
「どうした?」
周りをぐるっと一周した、ねこくじらと目が合った。
「気にしてなかったけど、喋れるんだね、これ」
「失礼だなオマエ」
「学校でももしかして喋ってた?」
「やっぱ気づいてたのな。……普通、夢の出来事ってのは覚えてないものなんだ。でもオマエは覚えてる。お前が特殊なのか、ネオビルによる悪夢の性質が変わったのか……まあそれは後だ」
確かに、桜木さんと出会ってから、私は夢のことをはっきりと覚えているな、と亜依香は考えていた。
「私たちはそのネオビルを倒して、悪夢から人を解放している。まあ、ばい菌に対する白血球みたいなものだと思う」
ねこくじらは、魔法少女に力を与えるマスコット的存在なのだろうか。
「桜木さんは、桜木さんなんだよね? えっと、私が作り出した夢の存在、とかじゃなくて」
「うん。そのことについて説明するのはめんどくさいから、またいつかね」
「う、うん」
はぐらかす、というよりは本当にめんどくさそうに言い放った桜木に対して、亜依香は曖昧にうなずいた。
「でもどうやってネオビルを倒すの?」
「いつもはとりあえず吹っ飛ばして」
そういう桜木の手にはいつの間にか金属バットが握られていた。
「ねこくじらが食べてる」
ねこくじらがニッと笑うと、思ったより鋭い牙が見えた。
「だが、今回はそううまくはいかねえんだよな」
「え?」
「オマエが、青のことを知っちゃってるからさ」
「どういうこと?」
「オマエ、夢のなかなら何でもできると思てんだろ?」
「うん、まあ」
「これだから最近の若者は」とひれを振りながら言うねこくじらに亜依香が少しいらっとしていると、桜木青がねこくじらをバットで押しのけて説明を続けた。
「例えば、現実でフランス語を話せない人は、夢の中でもフランス語は話せない。喋った気になることはできるかもしれないけど」
「あ、たしかに」
「ここは町田亜依香の世界だから、町田亜依香の常識がある。でもネオビルと私は違う。部外者だからさ、ある程度融通が利く。私も私の常識を超えたことはできないけど、そこは想像力で頑張っている」
無表情のままガッツポーズをする彼女が何だかシュールだな、と思いながら亜依香は苦笑いを返す。
「今回はうまくいかないって言うのは」
「そう、でも町田亜依香が私を知っているから、私も町田亜依香の常識で動かなければならない」
「ホントならもっと飛んだり跳ねたりいろいろできるんだけどな」
「そっか……」
「……町田亜依香のせいじゃない。普段は夢のことが覚えられていないから上手くいっていたけど、今回は事情が違った。これからもそう言うことが多くなるかもしれない」
「もしも、さ、ネオビルってやつに、桜木さんがやられちゃったらどうなるの」
「……」
きっと、彼女は嘘がつけなくて、ごまかすのが下手な人なんだろう、と亜依香は感じていた。だから、亜依香にとって都合が悪いことを聞かれると、つい返答を躊躇ってしまう。
「今はオマエの夢の中にいるが、コイツは桜木青という人間の核だ。だから死ぬ」
ねこくじらが言葉を継いで言った。
「そんな、なんで……」
「――助けたい人が、いるんだ」
まっすぐに亜依香の目を見て、桜木が言った。その目を見て、亜依香はもう何も言えなくなった。
「そして、私は町田亜依香も助けたい」
遠くで、昨日の怪物の吠える音が聞こえた。
「移動しよう」
もう動けるよね、と聞かれて、頷いて返した。
「どこに行くの?」
「町田亜依香が、強くなれる場所」
ときどき、ネオビルが吠える音が聞こえて、そのたびに亜依香は少し頭が痛むような気がした。きっと、あいつはこの世界ごと食べている。
屋根のついて商店街に、雨の当たる音と、二人分の足音だけが響いている。
「ここ」
シャッターのしまった商店街で『崎山模型店』だけ明かりが点いていた。
「今の私の、一番好きな場所」
学校でも、家でもない。
「なんか、女の子っぽくないよね。あはは……」
ドアを開けて中に入るが、竜兄はいなかった。聞かれてもいないことを答える亜依香に何も言わず、桜木も続けて店に入った。
「ネオビルは、人の負の感情を種に現れるウイルスみたいなもの。心が弱ってるときとかに、あいつらは生まれる。だから多分町田亜依香には、何か不安なことがある」
亜依香は後ろに立っている彼女の方を向けなかった。
「家族とか」
母親の顔が浮かんだ。
「友人とか」
歩良ちゃんと竜兄の顔が浮かんだ。
「自分とか」
思わず強く手を握ってしまった。爪が手の平に食い込むほどに。
その様子を知ってか知らずか、桜木は言葉を続ける。
「嫌いなものは嫌いって思っていいんだよ。認めなければ前には進まなくて、辛いだけだと思うから」
「――」
桜木青に背を向けているため、亜依香にはその表情が見えない。でもとても優しい声色に聞こえた。
「おい、来たぞ」
ねこくじらが言うと同時に、外の方で破壊音と鳴き声が聞こえた。
「言ってくる。町田亜依香はここにいて」
「でも、桜木さんが!」
思わず振り向いて亜依香は言った。
だってこれは、私の夢だから。制服を着た一人の少女に、一体何ができるのか。
「そう、ここはあなたの夢、あなただけの世界」
青が、静かに重たく言葉を紡ぐ。
「だから、悪夢なんかに邪魔させない。私は、あなたの桜木青。――勝ってくる、信じて」
それだけ言って、彼女はバットを持って外に飛び出した。
砂埃が晴れていき、向かいの喫茶店の看板を咀嚼するネオビルの姿が現れた。店の数々は重機で取り壊したように崩れている。
ふー、と息を吐いて軽く何度かジャンプする。いつもよりバットが少し重い。現実と変わらない感覚。それで、あいつを倒せるか。
飛び掛かるネオビルに、青は思いっきりバットを振り当てた。
「っ……!」
その衝撃の振動が、青の腕に強く響いた。へこんだのはバットの方で、ネオビルの表面は何も変わっていない。
口を開いて噛みつこうと突っ込んできたネオビルをかわし、バットで受けた。
「やば」
そのままバットを噛み砕いたネオビルから距離をとる。しかし、長いネオビルの左腕はすでに青を捉えていた。
外で窓ガラスが割れる音がする。時折コンクリートの崩れる音もする。店が揺れ、プラモデルが倒れた。
いつもプラモを組み立てている机の下で、震えながら亜依香は桜木を待っていた。
ふと、机の下に何かが落ちているのが見えた。今日まで作っていたアーリーライザーのプラモデルの箱だ。開けると、一つの鍵が入っていて――
「Aaaaaaaaa――!」
ガシャン、と大きな音とともに、ショーウインドウが飛び散った。何かが飛んできて棚を倒した。驚いて窓の外を見ると、ネオビルが唾液をたらしながら歪な牙を向けていた。
隣を見ると、桜木青が倒れていた。髪が乱れ表情は見えないが、頭から血を流しているのが見えた。
「あ、ああ」
ゆっくりと、ネオビルが亜依香の方に向かってくる。
「待ちやがれ畜生!」
ねこくじらが飛んできてネオビルの腕に噛みついた。
――でもそんな小さな体で何ができるのか、町田亜依香がそう感じてしまった。だから、ねこくじらはすぐに吹き飛ばされた。桜木青は倒れたままで、恐怖は静かに刻々と迫ってくる。
「ぐあっ……!」
首を掴まれて、壁にたたきつけられた。上手く息ができない。痛い。苦しい。
でもこの痛みを私は知っている。
あのとき感じた視線、あのとき聞こえたため息、あのとき貰った気づかい、全部全部痛かった。
だから今も、その痛みに潰される。
「……でも」
ネオビルの口が大きく開く。世界ごと食べられてしまいそうだ。その動作がなぜだかゆっくりに見える。私が作った、私の悪夢。
私はまだ弱いし、自分のこともよく分かってない。向き合うことから逃げたくせに、一人じゃ何もできない。でも、これからそれも頑張っていくから。だから。
「私が信じた、私の夢だ!」
だから助けて。
――ヒーロー。
『承認 限定解除』
機械的なプログラムのような、優しい少女の祈りのような声。青い光が輝いた。
『設定――方式〈斬撃〉』
「GuAOOOOO‼」
左腕が吹き飛び、ネオビルが叫んだ。解放された亜依香はそのまま膝から崩れ落ちる。続いた蹴りで、ネオビルは外の方へ飛ばされた。
「ごめん、ちょっと寝てた」
身長より大きい機械的な大剣を持ち、表情を変えることなく、桜木青が立っていた。片手で大剣を持ったまま、左手を亜依香に差し伸べた。
「まだ、信じてくれる?」
「うん!」
彼女の手を取り手を取って亜依香が立ち上がった。
「ったく、やっと起きたか、ってなんだその剣⁉」
どこからともなくねこくじらが現れた。
「あ、ほんとだ。何これ」
青もよく分かっていないようで、今更驚いた表情をして。
「かっこよ」
と呟いた。
「アーリーライザーに出てくる迅速果断機構『REM』だよ! 所持者と敵の相性を考えて最善の武器形態に変形するっていう。本編では7段階の変形があるんだけど、これはスラッシュモードで……」
「おお……」
思わず早口になる亜依香に引いているねこくじらに対し、青は手に持った感触を確かめるように少し振るった。「危なっ!」ねこくじらを掠っていた。
「トリガー引くと必殺技が出て、スラッシュモードはシンプルなんだけど、それがまたいいって言うか……」
「ねえ」
大剣の刃を眺めて、青は亜依香に声をかけた。
「え? モード変形なら音声認識でできるけど?」
「あ、いや」
その亜依香の勢いに青も少し気圧されてしまった。
「これで、あいつ倒せるかな」
「倒せる!」
亜依香は即答した。だって絶対に勝てるから。
そのとき、動き出すネオビルが視界に入った。
「ねこくじら、ネオビルの引き付けて。斬るから」
「えー」
と言いながら、ねこくじらがネオビルの方へ飛んでいった。ねこくじらが大きく口を開けると、同時に体も大きく膨らんだ。今にもネオビルを食らいつくすようだった。
ネオビルが腕を振るうが、瞬間にねこくじらはしぼんでそれを避けた。
青がトリガーを押しながら、ねこくじらの背後からネオビルへ迫った。大剣に走る血管のような光の筋が、青白く光る。
『識別"青"』
光の刃が輝いて。
『一撃!』
悪夢を二つに切り裂いた。
そして、ネオビルが爆発した。
「危なっ」
ねこくじらが慌ててこっちに飛んできた。
「爆発、するんだ」
青が呆然としながらそう言った。
「特撮番組のお約束だからね!」
得意げに言う亜依香にふふ、と青が笑った。笑った姿を初めて見たかも、と亜依香は思った。笑顔を返そうとして、すでに笑っている自分に気がついた。
店を出ると、雨が上がっていて、東の空が明るんでいた。
「結局ネオビルはあいつだけだったみたいだな。そろそろ閉じる」
ねこくじらが青の前に回り込んで言った。
「うん、帰ろっか」
それじゃあ、と言って去って行こうとする青を亜依香が引き留めた。
「私、わかったことがある」
こちらを向いた彼女を真っ直ぐ見つめ、一つ一つ言葉を紡ぐ。
「私、お母さんのことも、歩良ちゃんのことも、竜兄のことも嫌いじゃない」
青は一瞬少し目を見開いて、そっか、とすぐに微笑んだ。
「変わったとか、否定されるかもとか、全部私が勝手に考えてることだから、もう少し、ちゃんと向き合おうと思うんだ」
「それは何より」
「ありがとう、青ちゃん」
精一杯の笑顔で送る。目が覚めたら、私はこの夢を忘れてしまうのだろうか。
「どういたしまして」
そして、世界が白に包まれる。
「あら、今日も早いのね」
玄関で靴を履いていると、後ろから声をかけられた。
「お弁当、台所に置いてたけど」
「もう持ったよ」
お弁当の包みを掲げて、見せた。
「朝ごはんは」
「食べたー」
トントン、とつま先で叩く。
玄関の扉に手をかけて、後ろを振り向きお辞儀をする。
「今日、友達と遊ぶから帰り遅くなります。何時かは後で連絡します」
なんとなく、まだ顔は見れないけれど。
「行ってきます、お母さん」
顔を上げて言って、そのままドアを開けて外に出る。
確かに「いってらっしゃい」が聞こえた。ただそれだけのこと。
朝の団地を駆け下りる音が、澄んだ快晴に響いていった。