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ムソウビト  作者: 青沼本懐
1/6

眠れぬ夜には夢を見て

夢の中では、夢の前の時間(眠りにつく前)を「昨日」、夢の後の時間(目覚めた後)を「明日」としています。

現実では、眠りにつく前から夢の中の時間を「今夜の夢」、目覚めた後から夢の中の時間を表す際には「今朝の夢」としています。


たまに間違えているかもしれません。

 星空を落としたような夜の街。

 あるビルの屋上の縁に一人の少女が座っている。風が強く吹いて、彼女の髪の青がより強くなった。

 少女が缶のプルタブを開けると、プシュ、と炭酸飲料特有の音が鳴り、レモンの風味が香った。

一口飲む。鋭い爽快感が喉に刺さって、自分がここにいることを確かに感じる。

「よし」

 そう言って缶を落とす。数秒後、コンクリートの地面に当たって街に反響した。

 その音を合図に、少女は体の力を抜いて前に倒れる。そして、夜の黒へと溶けていった。


   ◇


 何か、嫌な夢を見ていた。

 ベッドから体を起こす前、まぶたも開けていないまま、町田亜依香(まちだあいか)はそう思った。

 眠っているときに夢を見ていると、それが夢の中であると気づくことがある。明晰夢というようだ。

 ただ、目が覚めると夢のことはもう覚えていない。思い出そうとしても、夢を見ていたことしかわからない。

 今眠っても続きを見ることがなければいいな、と思いながら頭まで布団をかぶった。カーテンの外から差し込む光が眩しいことにはもう気づいていたけど。

「亜依香! 早く起きなさいよ。昨日もぎりぎりだったじゃない」

「わかってるよ」

 ドアの向こうから母の声がする。眠い頭には嫌というほど響くから、ぶっきらぼうな声を返してしまった。3・2・1、と心の中でカウントをして、布団をバッと体から放した。母親にまたうるさく言われたらいやだな、とあくびをしながら亜依香は洗面所に向かった。

 父はもう会社に向かっている時間だ。姉は今年の春から大学生で、東京の方で一人暮らしを始めている。朝のこの時間は、専業主婦の母と二人きりの時間になる。母のことは嫌いじゃないけど、めんどくさいな、とはときどき思ってしまう。でも、母が起こしてくれなかったら起きれないし、朝ごはんも食べられないし、お弁当も貰えない。それはわかっているけれど、それがわかっているから、複雑な気持ちになってしまう。

 食器を台所に片づけてから、カバンを取りに部屋に戻った。姉がいなくなってからは、やっぱり少し広く感じる。

 学習机の上に、「迅速勇士アーリーライザー」のフィギュアが置いてある。

 昔から、魔法少女よりも変身ヒーローが好きだった。男の子の友達が多かったから、というのもある。変身して戦うヒーローに憧れて、日曜日の朝はテレビにかじりつくように見ていた。高校生になった今もその熱は冷めないままでいて、ただ、母親が「女の子っぽくないよね」とか余計なことを言うから、最近は録画してこっそり見るようにしている。

 行ってきますは言わずに家を出た。


 高校に入学してからもう1か月が経とうとしている。授業についていけないわけではないけれど、どうしても集中が途切れるときはある。窓際に座る亜依香は、よく外の街並みを眺めていた。

 たくさんの高さの違う屋上を、自由に飛び回る空想をしてみる。ビルからビルへ飛び移って、そのまま空を駆ける姿を思い浮かべる。こういう想像をするのが彼女の癖だった。電車に乗っているときは、走る車窓の風景に忍者を走らせてみたり。

 特撮ヒーローが好きな彼女は、窓の外に巨大なロボットを出現させたり、校庭に怪人を出現させて、アーリーライザーを戦わせてみたり、それでもやっぱり飽きてきて、少しずつうとうとしてしまう。

「おい」

 その声がして、慌ててはっと顔を上げた。「ごめんなさい!」と思ったけど、自分に向けて言われたわけではないようだ。クラスメイトの視線が集まる斜め前の教室中央に目をやると、古典の教師が女子生徒の机を叩いていた。女子生徒は顔を机に突っ伏していて、耳を澄ますと微かに寝息のような音も聞こえる。

「おい桜木、いい加減にしろって」

 まだ5月も半ばだが、この女子生徒――桜木青(さくらぎあお)がこうやって居眠りを注意される姿は、この教室ではすでに見慣れたものだった。角ばった眼鏡の古典教師も、もう諦めたように声をかけている。

「あ、おはようございます」

 ようやく目が覚めた桜木は、まだ眠そうな目をしていた。焦る様子も悪びれる様子も全くない。先生に対して返事はしているが、どこを見ているのかよくわからない。

「はあ、眠いなら顔洗ってきていいから」

「はい、ありがとうございま」

 桜木はそう言って頭を下げ、そのまま動かなくなった。

「だから寝るなって」

 初めは授業のほとんどを寝ている彼女を面白がっていたクラスメイトだが、次第に「桜木って変わってるよな」という風になり、あまり彼女を話題に挙げるようにはならなくなった。クラスでは少し浮いている彼女だが、当の本人は全くそれを気にはしていないようでいつも澄ました表情をしている。

 必要最低限の言葉しか喋らないような彼女だが、なぜか冷たい印象は受けない。町田亜依香はそう感じていた。でもそう言えば、彼女が笑っている姿を見たことがないかもしれない。未だ困った表情の教師の前ですやすやと寝息を立てる彼女の背中を見てそう思った。


 出席番号が近い女子数人で机をくっつけてお弁当を広げる。入学してまだ日は浅いから、このグループがこのまま続くのか、仮のものになるかはよくわからないけれど、決して居心地は悪くない、はずだ。グループの中心である洲川歩良(すがわあゆら)は、最近大学生の彼氏の話をよくしている。彼女の髪は入学時からやや明るく、笑ってのけぞった時にピアスが少し見える。

 アーリーライザーとかのヒーローの話を友達としてみたいとは思うけど、できるわけもないし、それはまあ仕方ない。

 ふと、彼女はどうしているのかな、と思って教室を見渡すが、桜木青の姿は見えなかった。昼休みのチャイムが鳴るとすぐに教室を出て行って、いつも終わりのチャイムが鳴るころに戻ってくる。何をしているのか、気にならなくはないけれど、聞くことできるほどは仲良くないし、まあ別にいいか。

「あっか、聞いてた?」

 肩がびくっとなった。あっか、というあだ名を亜依香は歩良につけられていた。

 慎重に言葉を選びながら返答した。

「えっと、ごめん……」

 消え入るような声。クラスには笑い声が響いているのに、一瞬机の周りだけ時が止まったようだ。5人の視線が亜依香に突き刺さった。

「でさ……」

 何を言うでもなく歩良は話題を戻し、もとの時間と喧騒が帰ってくる。笑顔を繕うけれど、さっきの返事で大丈夫だったのか、なんて一つのわだかまりは亜依香の中に残っていた。


 部活に所属していない亜依香は、放課後のチャイムが鳴るとすぐに帰り支度を始めた。帰りの準備をしていると、歩良が声をかけてきた。

「あっかはカラオケ行く?」

 振り向くと、亜依香以外の女子数人は行くようで、すでに準備をしていた。

「あ、今日は用事あって」

 一瞬、歩良の表情が固まった気がして、慌てて言葉を継ぎ足した。

「また、次あるとき行く、かも」

「わかった。じゃ、またね」

「うん」

「バイト?」

 リュックを背負ったとき、スマホから目を離さずに歩良が言った。

「あ、えっと、ちょっと用事」

 言ってから、今の返答は少し変かな、と思った。でも、自分の趣味を出してしまったら、その方が変に思われてしまうかもしれない。

「へー」

 興味なさげに歩良が返した。そんなに意味のない質問だったのかもしれないけれど、すこしやっぱり引っかかってしまう。歩良たちの顔を見ないでうつむいたまま亜依香は教室を出た。


 駐輪場へ行って自転車に乗り、校門を出てからペダルを踏む足を加速していく。はあ、と大きなため息も出てしまうが、すぐに切り替えた。見慣れた通りを走って、目的地へと向かう。人通りが多くなってから、自転車を降りて手で押して歩く。

 喫茶店や服屋さんなど様々並ぶアーケード街の一角に『崎山模型店』という小さな模型店がある。

 外のショーウインドウには、塗装済みプラモデルが飾られている。亜依香の好きなアーリーライザーも飾られている。玩具展開が子ども向けの武器だけではなく、こういったところに広がっているのが、アーリーライザーが10年以上人気たる所以なのだろう。

 プラモデルやモデルガン、鉄道模型やラジコンなどが雑多に積み重ねられていて、地震など起きたらすぐに崩れてしまいそうだ。自分の身長よりも高い箱たちの圧迫が、秘密基地みたいでいつもわくわくする。

「こんにちはー、来たよー。竜兄(たつにい)

 レジ裏ののれんに向かって声をかけると、奥からバタバタと音がして、エプロンをつけた青年――崎山竜文(さきやまたつふみ)が現れた。彼は町田亜依香より3つほど年上で、小学校の頃の幼馴染である。

 亜依香が小学3年生のときに引っ越して離れ離れになったのだが、父親の転勤の関係で亜依香が高校に入学するタイミングで再び戻ってきた。先日、アーケードに模型店があることを知って向かった亜依香と、客と店員として再会したのだった。

「あ、今日ナイトオウルのやつだ」

 崎山竜文は常に()()をしている。7年ぶりに再会したにもかかわらず、一瞬で彼が崎山竜文、幼馴染の竜兄であることがわかったのは、彼のこの大きな特徴によるものだった。

 お祭りの屋台などで売っている、プラスチック製のお面だ。つけるものは日によってさまざまだが、ヒーローものであることが多い。ナイトオウルは、『迅速勇士アーリーライザー』の二期から登場した、ライバル的なダークヒーローだ。

 小学校のころも遊ぶときはいつもお面をしていて「俺は正義の味方だからな!」と言っていた覚えがある。まさか今でも、と久しぶりに会ったときは驚いたが、子どもからの人気は高いらしい。

『そう! しかも劇場版の特別フォーム仕様だよ』

 仮面の上部にV字に入ったラインを指さすジェスチャーをした。

 再会した彼はなぜか非常に無口になっており、会話のほとんどをジェスチャーで行う。ただ、その技術が高いのか、なぜか声に出さずとも考えが良く伝わるのだ。

「ねね、前言ってたさ」

『ああ、これでしょ』

 そう言って彼は、レジの台の下から一つの箱を取り出し、勢いよく掲げた。

『「無印アーリーライザーの復刻版プラモデル!」』

 こういったフィギュアを崎山模型店の二階では展示している。ネット限定で発売していて、高校生の亜依香では簡単に手に入れることはできない。

 竜文がこうやって彼女に展示用のプラモデルの組み立てをお願いする名目で、亜依香はフィギュアを楽しむことができていた。

 レジの横の椅子に座って机の上で開封する。箱の表面で決めポーズをするアーリーライザーがかっこいい。

「いやあ、毎年新しいやつ出てるけど、やっぱり初代なんだよなあ」

 箱を開けると、プラスチックの袋の中にアーリーライザーの主体となるガンメタリックを含め数色のランナーが重なって入っている。圧巻して感嘆の声が思わず漏れる。

「ランナー多いなー。え、このパーツ塗装じゃなくて別パーツなんだ。関節の稼働すごいことになってるらしいんだよね」

 うんうん、と竜文が腕を組んで頷く隣で、感動しつつ説明図を開き、ランナーからパーツの切り離しを始めた。

「なんといってもこの武器だよね! 7段階変形の完全再現」

 7色あるクリアパーツを外しながら亜依香は竜文に話しかける。

 アーリーライザーの武器『REM』は変身者の戦闘を自動サポートする装置で、普段は鍵のような形をしている。変身者が認証することで戦闘時に全身を覆う装甲を呼び出し、またREM自体は武器に変わるというアーリーライザーの代名詞的存在だ。

 初代『迅速勇士アーリーライザー』は話によってアーリーライザーに変身する人が異なる、という一風変わったストーリーだった。ピンチの中でも立ち上がる人であれば、老若男女問わず『REM』が力を貸し、アーリーライザーに変身できる。その点が、自分もヒーローになれるかもしれないという子供たちの想像力を膨らませるのかもしれない。

『大剣、刀、槍、斧、銃、大砲、弓! 差し替えこそあれどやっぱりすごい。しかも発光部分はクリアパーツだしね』

 なぜか得意げな竜文も興奮している様子だ。

「やっぱ劇中時点でプロップがしっかりしてるんだよなー」


 話し込んでいてかなり長居してしまったが、結局完成はしなかった。また明日作りに来ることにして、亜依香は商店街から団地へと自転車を走らせていた。

 もともと山だったこの土地の、かなり上の方にある団地なので、行きは下り坂だが、帰りは上り坂になってなかなかしんどい。

 ABCの3つの棟に囲まれるようにある公園は、竜兄たちと遊んでいた公園を思い出させた。実際は商店街の近くの公園で、こんなに整備もされていなかったけれど。ジャングルジムの頂上で決めポーズをするお面をかぶった少年と少女、目をつむれば鮮やかによみがえるような思い出だ。もっとも最近まですっかり忘れていたけれど。

 彼女は自転車を降り、公園を横切りながら駐輪場へ向かった。そういえばあの頃は、お母さんも笑って見守っていたような気がする。ヒーローごっこをする娘たちにまざって、怪人役として追いかけたりもしていたはずだ。でもそれも過去の思い出だ。7年も経った。母が変わるのも当たり前で、自分も変わらなければならないのだろうか、と彼女は考えていた。 

 上を見れば、団地の窓もほとんどが明かりがついている。だいぶ遅い時間だ。また口うるさく言われるかもな、と思った。


 ふと、屋上に人影が見えた。屋上は誰も入れないようになっているはずだから、見間違いかもしれない。もう一度屋上の方に目をやると、確かに誰もいなかった。風で青い髪がなびいていたような気がして、なんとなく桜木青のことを思い出した。


 そーっと玄関の扉を開けて中に入った。どうせ家に帰ったことなんてすぐに気づかれるけれど。こっそり自分の部屋へと亜依香は向かった。

「遅くなるなら連絡しなさいよ」

「……わかってるって、次から気を付ける」

 顔も見ずに自分の部屋へと真っ直ぐ進む。

「ちょっと、ご飯は」

「大丈夫」

「大丈夫ってどういうこと?」

 母の声を遮るように扉を閉め、大きなため息を吐く。

 別に、いちいち口出さなくたっていいじゃんか。でも私も悪かったかもな。にしたってうるさいんじゃないのか。でもお母さんのおかげで助かってるはずで、私は自分勝手すぎるんじゃないか。とかいろいろ考えてしまって、考えていると、結局答えは出なくって、どうでもいいことにしたくてベッドに倒れ込む。

 泥水の中に沈んでいくような感覚。そのまま意識を手放した。


 夢だ。

 私は今、夢の中にいる。

 目が覚めてすぐ、亜依香はそう感じた。

 気がつくと、彼女は団地の公園のブランコを漕いでいた。もっとも、彼女には自分の部屋から出た覚えはなかった。

 夕日がやけに大きくて、世界全体を赤く染めている。

 ぼんやりとした違和感に包まれている亜依香は、少しずつ神経を研ぎ澄ましてみた。

 誰もいない公園。たぶんこの外にも誰もいないのだろう、と彼女は考えていた。ブランコを漕ぐ音だけが静かに響いていたから。

 どのくらい漕いでいただろうか、退屈になった亜依香は、ブランコを大きく飛び降りた。

 その瞬間。世界が青黒く染まった。

「え?」

 夜が来ていた。さっきまで夕日が西にあったにもかかわらず、大きな月が天頂に輝いていた。

「まあ、でも夢だしな」そう思う前に、背筋が冷たくなるような悪寒が彼女に走った。

 本能的に恐怖を感じた方向、ジャングルジムを振り返った瞬間、ソレは宙から現れた。

「ひっ」

 思わず息をのむ。

 怪物だ。

 そうとしか言えない生き物のようなソレが、彼女の目の前に降りてきた。軽い地響きとともに、公園の砂が舞った。

 身体からはかぎ爪状の腕が二本、地面に引きずるように長く伸びていて、菱形の頭部には口しかない。昆虫を思い出させる表面が、月明かりに照らされて黒く光った。

「GuAAAAAAA!!」

 怪物が吠えた。世界全体に響く轟音に、身体がびくりと震えてしまう。

 そのまま目のない顔をこちらに向け、いびつな牙をむき出しにした。

 腰が抜けて座り込んでしまい、弱々しく後ずさることしかできなかった。

 ――ああ、これは夢だ。悪夢だ。早く目覚めなきゃ。

 恐怖と嫌悪で体が凍る。夢なのだから大丈夫なはずなのに、アレに捕らわれたら絶対にまずい! そう、心の全てが意識した。

 不気味に空気を漏らしながら、怪物が腕を縮めた。緩やかな時間が緊張で張り詰めた。

 来る! そう感じて目をつむる。

 自分の体が引き裂かれる想像が一瞬頭を過った。

 もうだめだ、とそう思った。


「――あれ?」

 怪物の迫力に押された瞬間、最初に感じたのは痛みではなく、金属と金属がぶつかったような甲高い音だった。残響も消えて静寂が戻ってから、亜依香は恐る恐る目を開けた。

「桜木、さん?」

 亜依香の目に映ったのは、こちらに向かって威嚇するように吠える怪物。そして、その振りかざされた長い腕を金属バットで受け、胴体を右足で蹴り押さえる一人の少女。

 風が吹いた。目の前の少女の髪が揺れ、その青が光った。

「間に合っ、た!」

 少女が力を込めて怪物を蹴り離す。ひるんだ怪物に対して、バットを大きく振りかぶって打ち付けた。怪物は一瞬宙に浮いて壁に激突し、衝撃でひびが入った。砂埃の向こうからこちらを睨んでいるような気がする。

 少女が振り返る。やはり桜木青だ。目が合った。教室での眠そうな目ではなく、一点を見つめる鋭い視線。

「行くよ」

 折れ曲がったバットを怪物の方に投げ捨て、彼女が言った。

 そのまま亜依香の腕を掴み、少女が走り出す。亜依香は連れられるがままに足を動かした。

「行くって……そっち道ないよ!」

 団地は坂の上にあり、桜木青が向かった先は、崖のようになっていて道はなかった。

 背後から怪物の叫び声が再び聞こえた。でも振り返っている余裕はもうない。でも前は崖で行き止まりだ。

「舌」

「した?」

「噛むよ」

「え? えええええ!?」

 桜木青は町田亜依香の手を引いたまま、ガードレールを飛び越え崖から飛び降りた。

 二人ははそのまま下に落ちることはなく、ふわりと空に円弧を描いて、住宅街の一つの民家の屋根に着地した。

「はあ、はあ」

 この短時間の出来事に動揺して、心臓の鼓動が速くなり、肩が上下している。

 対して青は息を乱すことなく、飛び降りた崖の方を睨みつけていた。

「桜木さんだよね、どうして……?」

「話はあと、来てる」

 驚き彼女の視線の先を向くと、怪物が腕と足を曲げこちらにとびかかる準備をしていた。

 再び桜木に手を引かれ屋根の上を走り出す。

 不安定な足場に躓きそうになる亜依香を気にすることなく桜木は真っ直ぐに走り、屋根の先から再び跳んだ。また民家の屋根の上へ降り立ち、行きつく暇のなく走りだす。亜依香は何が起きているのか呑み込めないまま、手を引かれるがままに足を動かした。

 後ろを振り向く余裕もないが、何かを崩す音と、たまに咆哮が聴こえる。確実に怪物は追ってきている。そんな状態でも表情を崩すことなく桜木青は冷静だった。

 少し大きな交差点が見えた。民家の屋根は途切れてしまい、道路の向こうまで飛び移るのは無理だろう。ただ、ここから下りるにしても相当な高さだ、軽く5メートルはある気がする。

 途切れる屋根が見えていないかのように、青はスピードを緩めず走り続ける。

「え、ちょっと待って、前!」

「ねこくじら、着地」

「あいよ」

 交差点の真ん中に飛び降りる瞬間、黒い風船のようなものが現れ、そこに突っ込んだ二人の衝撃が吸収された。

「いってえな」

 風船が痛みを訴えながら縮んだ。それはふよふよと宙に浮いた鯨だった。いや、鯨なんだけど、顔は確かに猫だった。大きさは子猫くらいのもので、黒い胴体からは胸びれと尾びれが生えていた。

「オイ、来てるぜ青」

「わかってる。行くよ、町田亜依香」

 その張り詰めた声の調子に気圧されて、思わず頷いてしまった。

 走り出した彼女に手を引かれ、亜依香もまた足を動かす。

「ねえ、どこに向かってるの?」

 そう聞かれた桜木青が、ちらりと亜依香の方を見た。

「夜明けまで、かな」

 何かを考えるように右上を向いた後、微笑みながら言葉を返した。

覚書


町田まちだ 亜依香あいか 高校一年生、特撮オタク、好きなヒーローは『迅速勇士アーリーライザー』

桜木さくらぎ あお 高校一年生、亜依香のクラスメイト、授業中ほとんど寝ている、夢を渡りネオビルを狩る


洲川すがわ 歩良あゆら 高校一年生、亜依香のクラスメイト、グループの中心、大学生の彼氏がいる

崎山さきやま 竜文たつふみ 亜依香の幼馴染、常にお面をしている、無口でジェスチャー中心に喋る、崎山模型店で働く


ねこくじら 頭はネコ、身体はクジラの謎の生き物


『迅速勇士アーリーライザー』

世界の危機を守るため作られた自動戦闘サポートシステム『REM』

『正義の人に力を与え、強大な悪を打ちくだく!』

シリーズ化しており、現在は『アーリーライザーデルタ』を放送中

初代『アーリーライザー』も客演しており、人気はなお高い

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