千堂沙十美は戻る
医者が、ヒイラギを検査の為に別室へと連れて行く。
品子は惟之と共にそれを見送ると、ソファーで未だ眠り続けているつぐみの元へと向かった。
何か大変なことが起きているのは、こちらでも分かった。
なにせ突然、つぐみの右腕に歯形が浮かび上がってきたのだから。
出血があったということは、かなり強い力で噛まれたのだろう。
「なぁ、惟之。ヒイラギから何か聞いているのか?」
「……ああ。どうやらあちらの世界に、小さな女の子がいたらしい」
「ふぅん。つまりその子が、冬野君に噛み付いた相手だと?」
「俺もそう考える。ヒイラギの眠りを妨げようとした彼女に攻撃したのだろうな。俺はその子が変化した毒だと思う」
「同意見だね。いずれにしてもヒイラギが目覚めたとい……」
思わず言葉が途切れる。
消えたときの時と同様に突然、千堂沙十美が部屋の中に現れたからだ。
彼女はよろめきながら、品子達の方へと向かってくる。
かなり無理をさせたようだ。
沙十美へと駆け寄り、肩に手を添える。
彼女はかろうじてといった様子で微笑み、辺りを見渡した。
「私は大丈夫です。ここにヒイラギ君がいないということは……」
「心配ない。君の、……いや、君達のおかげでヒイラギは意識を取り戻したよ。本当にありがとう」
品子の言葉を聞き、沙十美に安堵の表情が浮かぶ。
「良かった。あの、私達が彼の心の中に入ってから、どれくらい時間が経っていますか?」
「あ、あぁ。えっと、一時間位だよ。千堂君、顔色が悪いね。少し座るなりして休んだほうがいいと思うのだが」
「いいえ、平気です。それより人出先生。つぐみを起こしてあげてください。私はこのまま失礼します。……あいつを、かなり待たせていますし」
「そうか。室はこの近くでずっと待機していたのだったね」
彼がしびれを切らして、自分達を襲う可能性もあった。
その事実に改めて気づき、品子の背筋にぞくりと寒気が走る。
「実に勝手なのを承知で言うが、どうかこれ以上は無理をしないでくれ」
「心配ありません。あいつのところに戻ったらすぐに休みます。それから改めて、後片付けをすることにします」
「後片付けかい? もし私達にできるなら、それを任せてもらえないだろうか。さすがにこれ以上、君にばかり負担がかかるのは、こちらとしても心苦しい」
「お気持ちは本当に嬉しいです。ですが私にしか出来ないものですから。でも、そうですね。目を覚ましたつぐみが、何かとんでもないことを実行しようとしていたら。その時には見守ってくださるとありがたいです」
品子達に一礼をして、沙十美は病室から出ていく。
「千堂君、ありがとう。俺達が君に礼を返せることがあるならば、いつでも言って欲しい」
沙十美に向けて、惟之が声を掛けている。
彼女は品子達へと振り返り、綺麗な笑顔を見せるとそのまま去っていった。
次に彼女に会えた時に、自分は何か出来るだろうか。
何が出来ているだろう。
借りが増えるばかりで、ちっとも『大人』になんてなれていない。
もどかしい思いを、品子はつい惟之にぶつけてしまう。
「ねぇ、惟之。私、全く大人のお仕事が出来てないんだけどさぁ」
「おいおい、同じく出来てない俺に言うなよ。……まぁ、今は目だけしっかり開けとけばいいんじゃないか? いずれは俺達にしか出来ないことがきっと出てくるだろう。そん時にしっかりと見据えて、『大人』を頑張ればいいんじゃないの」
「……そうだねぇ。ちゃんと開けとけば、いつか見えるものもあるかな」
確かに清乃にも言われたのだ。
視野を広げ、正しく動く。
つぐみ達の活躍に焦って、動こうとする今の自分は、……きっと違う。
ならば今は、自分がすべきことをしよう。
まずはつぐみを起こして、頑張ってくれたことをたくさん褒めてあげたい。
だが、沙十美が言っていた「とんでもないこと」とは一体、何なのだろう。
いや、それはいい。
なぜならそれは、今から聞けばいいのだから。
品子はつぐみの頭にそっと手を乗せる。
「……さぁ、冬野君。君の話を聞かせて?」
◇◇◇◇◇
……苦しい。
品子と別れ病室を出てすぐに、沙十美は胸に手を当て息を吐く。
ただ歩くだけなのに、ここまで苦しいとは。
病室を出て数歩あるいた後、こらえきれずに壁にもたれ掛かる。
「駄目っ、止まるな! 一歩でも前へ進むのよ」
今の自分がすべきこと。
――約束を守ること。
今の自分が分かること。
――約束を守ってくれている、あいつがいる。
「だから私は、約束を交わした場所へ戻る。だって『勝手にどこかへいかない』って言ったもの」
呼吸を整えながら向かった先に、室が見える。
一時間前と全く同じ場所で、この男は約束と共に自分を待ってくれていたのだ。
室は自分の腕時計に目を移し、沙十美へと声をかけてくる。
「十五分も待った。待たせ過ぎだ」
ため息をつく室を見つめ、沙十美は思う。
随分と長い『十五分』を過ごさせてしまったようだ。
時間の認識の違いは、この男なりの気遣いといったところか。
ささやかな動きですら億劫で仕方がないのに、沙十美の口元に自然と笑みがこぼれる。
「お待たせして、……ごめんな、さいね。せめてものお詫びに、……今日は、静かにしてるわ」
とぎれとぎれでしか言葉が話せない。
自身の体に、沙十美はもどかしさを覚える。
室は黙ったまま、そばにあった椅子に座ると隣の席をちらりと見た。
ここに座れということなのだろう。
隣に並んで座り、ゆっくりと息を整えていく。
横にいる男を眺めながら、小さな自分が言っていたことを思い返す。
『主がいなければ世界が終わる』
自分が発現した当初は混乱していたが、今ならば室は沙十美を拒否することが出来る。
そうなれば自分は消えるのだろうか。
今はまだ、反動を抑えるというメリットがあるからここにいられる。
ではもし、この力がなくなったとしたら。
――彼は、私をためらいもなく消すのだろうか。
力をかなり消費したからであろうか。
どうもよくない考えばかりが浮かんでしまう。
「おい」
突然に声をかけられ、沙十美は思わずビクリと反応してしまう。
「……煙草を吸いに行きたい。まだ動けないのか」
廊下にはまばらとはいえ、まだ人がいるのだ。
室の中に戻るにも、場所を変える必要がある。
「っ! ごめんなさい。……すぐに移動するわ」
慌てて立ち上がった。
……そのつもりだったのに、ぐらりと体が傾ぐ。
倒れると思った瞬間、室の右手が沙十美の手首を掴んだ。
そのまま室は左手を沙十美の体へと伸ばし、自身の方へと引き寄せていく。
倒れずに済んだことにほっとする一方で、距離の近い彼からの視線に沙十美は戸惑いを隠し切れない。
いつも通りの無表情ではある。
だがここまでまっすぐに、見つめられることなど、今までなかったのだから。
「ごめっ……、もう、大丈夫だから」
沙十美は室の胸に手を置き、体勢を整えながら距離を空ける。
彼は今、何を思っているのだろう。
こんな情けない姿を見て、失望しただろうか。
そう考えうつむく沙十美に、室は何も言わない。
ただ握ったままの右手を離すこともなく、ゆっくりと歩き出す。
とぼとぼと付いて歩きながら、やがて沙十美は重い口を開いた。
「約束したのにすぐ戻れなくて、……ごめん」
「……十五分は、長い方とは言わない」
「約束を守って、待っててくれてありがと」
「別にお前を待っていない」
ならば、誰を待っていたというのだ。
その言葉は、握られた彼の手の温かさに溶かされたように消えていく。
ぽつりぽつりと、沙十美の口からは代わりの言葉が出始める。
「あんたの手って、温かいのね。もっと冷たいと思っていたけど」
「無駄口を叩ける余裕があるなら、早く戻れ」
その言葉に周りを見渡し、人がいなくなっているのを確認する。
目を閉じ、沙十美は室の中へと戻っていく。
「私、もっとこれから強くなる。だから、……あんたも強くなって」
憎まれ口しか叩けない、自分勝手な言葉。
それに対し聞こえてきたのは、いつもの口癖である「気が向いたらな」という言葉。
だがどうしてだか彼は、それを小さく笑みを含んで話していた気がする。
普段感情など出さない、ましてや笑いながらなど、この男がするなどあり得ない。
疲れ果てた自分はきっと聞き違えたのだろう。
けれどもし、本当だったとしたら……。
心に静かに宿るのはわずかながらの温かさ。
それを抱きながら、沙十美は眠りへと身をゆだねた。
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次話タイトルは「人出品子は願う」です。




