冬野つぐみと少女の場合
「嘘! だってさっきまでここに居たのは、三人だけだったはず!」
つぐみの声が響く。
ここはただ広いだけの何もない白い空間。
誰かが近づけば、すぐに認識できたはずだ。
つまりこの子は、『突然』現れたということになる。
「つぐみ! なにぼさっとしてるの!」
沙十美がつぐみと女の子を引きはがすように、体を引っ張り立ち上がらせた。
こちらの急な動きを、予想していなかったのだろう。
少女はつぐみが立ち上がった勢いで、そのまま尻もちをついた。
引っ張られるまま、つぐみは数歩さがり距離を取る。
混乱した頭を落ち着かせ、離れたその子をつぐみは見下ろした。
白いワンピースを着た長い髪の少女は、小学生くらいの年ごろに見える。
髪が顔を覆っているため、表情はうかがい知ることが出来ない。
「さ、沙十美。何が起こったのか教えて欲しい」
腕を掴んで離さない沙十美に声を掛ける。
「正直、私があなたに聞きたいくらいなんだけどね。あなたがヒイラギ君に話しかけている時に、白い蝶が寄って来たのよ。いいえ、寄って来たというよりは、空中から突然に現れたように私には見えたわ」
この現象に驚いていたのは、つぐみだけではないようだ。
声を震わせ、沙十美は説明を続けてくれる。
「それでどんどん蝶が増えてきたと思ったら、あなたの隣に、突然その子が現れたのよ。しかも出てきた途端にあなたに噛み付いてるんだもの」
改めて自分の腕を見れば、右腕にはっきりと残る小さな歯形がある。
かなり強く噛んできたようで、血が滲み出してきていた。
これは、つぐみを敵と認識していることだ。
「あなたはあなたでそんな状況なのに、ちっとも動かないんですもの。だから声を掛けて引っ張って、この状態の出来上がりって訳」
「解説ありがとう。これはつまりこの子が……」
「えぇ、この子がもう一つの目的だった子。『変異した毒』でしょうね」
自分の話だと認識し、女の子はつぐみ達を見上げてきた。
子供らしからぬ強い意志を秘めた瞳は、こちらを射抜くように睨みつけてくる。
隣りにいる沙十美の口から、「嘘でしょ」と呟く声が聞こえた。
この顔は、知っている顔。
知ってはいるが、決して出会うことは無いはずの顔を見つめ、思わずつぐみは呟く。
「な、何で沙十美が?」
一方、名前を呼ばれた沙十美は苦笑いを浮かべている。
「まぁ、そうなるわよね。だって私が元なんだから」
――その女の子は、幼い沙十美の姿をしていた。
◇◇◇◇◇
「何で沙十美が二人もいるの? あと、……沙十美ってやっぱり小さい頃から可愛いんだね」
「動揺すると、訳の分からないことを言い出す。こんな時でも、つぐみは相変わらずみたいね」
呆れながら答える沙十美と、小さな沙十美を交互に見つめる。
少女はつぐみを睨みつけたままヒイラギのそばへと向かい、彼をかばうように立ちはだかった。
明らかに、つぐみ達を警戒をしている。
ならば、敵意が無いことを伝えるべきだ。
「あ、あのね。小さい沙十美ちゃん? 私達は、あなたにひどいことをするつもりは無いの。ただ、ヒイラギ君に起きてもらって、元の世界に戻ってほしいだけなの。だから心配しないで」
相手を驚かせないようにゆっくりと、なるべく優しい言葉で話しかけてみる。
すると少女は戸惑い気味に自分の喉に手を当て、こちらを見つめ口を開く。
「ぎ、ぎいがぎ、がどぎ」
少女の唸るような声に、つぐみは沙十美と顔を見合わせる。
「どうしよう、沙十美。この子、お話ができないみたいだよ」
「ちょっとこれは予想外ね。意思の疎通が出来ないとなると……」
これでは彼女に、ヒイラギの眠りを止めさせることが出来ない。
ならば直接、ヒイラギに起きるように促していくべきだ。
そう考え、彼のそばに向かおうと一歩前へ出る。
『来るな!』
頭の中に、声が響く。
幼い声、これは目の前にいる彼女の声なのか。
だが言葉は、彼女の口から発せられたものではない。
思わず後ろにいる沙十美を振り返る。
彼女も同様に驚いている様子だ。
つまりこれは、二人に聞こえた声。
彼女は話すことは出来ないが、自分の意思を伝えることは出来るのだ。
『やめろ。この人に触るな。ひどいことを言うな。来るな来るな嫌い嫌い!』
彼女の感情そのままに入ってくる言葉。
声の大きさに、頭に割れそうな痛みが襲いくる。
思わず頭を両手で抱えながらつぐみも叫んでしまう。
「聞いて! 私は彼に、ひどいことをしない!」
大声に驚いたのだろうか。
ようやく頭の中に響く言葉が途絶える。
ヒイラギを抱えるようにしがみついた彼女は、鋭い目つきで瞬きすらせずに、こちらをにらみつけていた。
この子は、ヒイラギを守りたいだけなのだ。
理解をしたつぐみは、再び彼女に語り掛ける。
「聞いてくれてありがとう。あのね、私はあなたを困らせるために来ていないよ」
ゆっくりとしゃがみ、彼女との目線を同じ高さに合わせてから話を続けていく。
「あなたがヒイラギ君、そこにいる男の子を守りたいのは分かったよ。急に人が来て怖かったのね? ごめんね、驚かせて」
彼女は何も言わず、つぐみを見つめたままだ。
ただ先程までと違い、その目には敵意は無くなりその分、とまどいが現れ始めている。
少なくともつぐみ達が、自分や彼を害する存在ではないと認めてくれたのだ。
話を続けてこちらの気持ちを理解してもらい、彼を起こすのに協力してもらおう。
態度の軟化にほっとしながら、つぐみは再び口を開いた。
「彼に、ヒイラギ君に帰ってきて欲しいの。皆が彼をずっと待っているの。だから……」
つぐみの言葉に、少女の顔色が変わる。
『みんな? この人にひどいことを言う、……みんな! この人を泣かせたみんな! 待っている? この人を傷つけたいから待ってるの? 許さない。ひどいひどい嫌い嫌い!』
再び響く彼女の声。
……そうだった。
つぐみにとっての「皆」はシヤ達のような、ヒイラギを大切に思う人達。
だが彼の心の声を聞き続けた彼女にとっての「皆」は、ヒイラギを傷つけた人達という認識なのだ。
なんということだろう。
せっかく開きかけた彼女の心を、つぐみは再び閉ざしてしまったのだ。
お読みいただきありがとうございます。
次話タイトルは「千堂沙十美と少女の場合」です。




