千堂沙十美と室映士の場合
品子が驚きで動けない中、最初に動いたのはつぐみだった。
目の前に現れた沙十美へと小走りで向かっていくと、唐突に抱き着く。
「ああああ、ざどびぃ!」
名前の原型が残っていない呼び方をしながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめ……。
いや、これはもはや締め付けと呼んでいいものに変わっている。
彼女はひたすら泣きじゃくっていた。
一方の沙十美は、なんだかばつの悪そうな顔をしてしばらくつぐみの様子を見守っている。
だが、終わりのない締め付けに限界が来たようだ。
「お! ち! つ! け!」
一文字ずつ区切りながら、つぐみを引き離す。
「ざどみ? ざどみは私を嫌いになったの?」
「……うわ、冬野君がめんどくさい女みたいになってる」
思わずそう呟き、ようやく品子は冷静さを取り戻す。
「冬野君。一度、落ち着きなさい。千堂君、久しぶりと言っていいものか。とにかく、私の話を聞いてほしいんだ」
◇◇◇◇◇
「なるほど。そんなことがあったのですか」
品子は、ここ数日の話をかいつまんで沙十美に話す。
「あぁ、そうなんだ。それでヒイラギ、えぇと、私の従弟がそのまま目を覚まさずにいる。これに変異した蝶の毒が関係しているのではないかと、私達は考えているんだ」
「……」
沙十美は品子の言葉に、何やら考え込んでいる様子だ。
「そこで君の力でヒイラギの中にいる蝶の毒に接触。あるいは訴えることが出来るのかを聞きたくて、ここに来てもらったというわけなんだ」
「実際にその少年を、……ヒイラギ君を見てみないと、何とも言えないですね。確かに私と同じ気配の存在を一つ、認識はしていました。ただその気配は何だか、他の存在の介入を嫌っているというか。近寄ってほしくないというか。そういった思いを感じられるものなんですよね」
沙十美が戸惑い気味に答える。
「沙十美、それってやっぱりさ。ヒイラギ君を起こして欲しくないから、隠れてるのかな?」
ようやく理性を取り戻したつぐみが、会話に入ってきた。
「うーん、ここでいくら話をしても進まないというか。やっぱりそのヒイラギ君を、実際に見てみないと分からないわ」
「となると、病院に行く必要があるな」
全員が一斉に室を見つめる。
一本目のタバコを、とうに吸い終えていた男はといえば。
「俺を巻き込むな」
それだけ言うと、再び煙草に火をつける。
「ちょっとあんた! 私、行くからね。病院!」
「勝手にしろ」
「したいわよ! でもあんたが病院に居ないと、私だけでは行けないじゃない!」
「じゃあ諦めろ」
「っきぃぃぃ! むかつくわ! あんた! だいぶおじさんなんだから病院でついでに健康診断でも受けて待ってなさいよ!」
「確かに俺は若くはないが、至って健康だ」
何だか痴話げんかを見ているようだ。
よりによってその片方が、落月で処刑人と呼ばれている男。
(千堂君もそんな相手に食って掛かるなんて、すごい勇気だな。私も惟之も、室にはかなり痛い目に遭わされているというのに)
彼女の行動力に。
それもあるが、彼女の気の強さに品子は驚くばかりだ。
「いいわ、考え方を変えましょう? 今回の件で私とあんたがどれだけ離れてて実体化が維持できるかの確認作業をするの! その実験を病院でする! それならあんたにもメリットあるでしょ?」
「室さんお願いします! おそらく時間的にはそれほどかからないと思うのです。ご迷惑はかけないように心がけます。ですから、どうか少しだけお時間を下さい」
沙十美とつぐみが、室を囲むように話している。
「それによ。その気配の子に会うことによって、私にも何か新しい力が目覚めることがあるかもしれないじゃない。力の強化が出来たら、あんたにも損はないはず。そもそもこんな可愛い女の子が、二人して頼んでいるのよ。とっとと了承しなさいよ!」
「うわ、最後すごい力技で決めていたな、千堂君」
かなり強引な理論に、品子の口から思わず言葉がもれる。
「あんたが断ったら、私は体の中でこの話を受けなかったこと、ずっとぶつぶつ言い続けてやるんだから。しかもすっごく大きな声で! いいの? それでも!」
(あ。全然、最後じゃなかった力技。強いな、強すぎるな、千堂君)
品子は少しだけ、室に同情してしまう。
室は諦めたように大きくため息をつく。
「……好きにしろ」
それだけ言うと、そのまま振り返ることもなく歩いていく。
「え? えっと、これはつまり大丈夫だという事なのかな?」
つぐみが、おろおろしながら沙十美に尋ねる。
「そうね。……つぐみ! 病院の場所と時間をメモに書いて私にちょうだい。早くしないとあいつ帰っちゃう」
沙十美に言われ、つぐみが慌てて品子と惟之の方を振り返る。
「……そうだな、明日の午後一時でどうだろうか? 品子、お前の方は?」
「大丈夫、こちらも問題ない。千堂君、これが病院の名前と住所。一階の総合受付の前で、午後一時に待ち合わせよう」
品子は手帳の紙を破り、取り急ぎ必要な内容を書きつけると沙十美に渡す。
「一応、私の電話番号も記入してある。よろしく頼む」
「わかりました。ではこれで」
沙十美は足早に室の方へ向かっていく。
とりあえずは、一歩前に進めたと言った所か。
それにしても今回は、本当に危なかったと品子は思い返す。
あの時、つぐみが来なかったら。
今頃、自分達はどうなっていたことか。
そうなるとだ。
どうして、彼女は店に現れることができたのかという疑問が起こる。
沙十美が帰っていった方向を、じっと見つめているつぐみに品子は尋ねる。
「冬野君、聞きたいことがある。どうして君は、あのタイミングで店に入って来たんだい?」
「それなのですが。先生にお伝えしなければいけないことがあるのです。先程までは、室さんが居たので話せなかったのですが」
お伝えしなければいけないこと。
その言葉を聞き、品子の心の中にざわつきが起こる。
何かとてつもなく、大事なことを忘れている気がするのだ。
「実は車の中で、先生達からの連絡が来るのを待っていた時なのですが。とても不思議な雰囲気を持ったご婦人が、私の所に来ました。白日の関係者だとおっしゃるその方から、お二人に伝えて欲しいと言われたことがありまして」
品子は隣にいる惟之を見る。
惟之の顔色が、相当に悪い。
……自分も同様なのだろうが。
「えっとさ、冬野君。その人って背は小さめ?」
「そうですそうです! やはりお知り合いの方なのですね? その方が、私がお店に行かないと大変なことになるって教えてくださったのです。……って先生? 靭さん? ものすごく顔色が悪いですよ」
「……そうですね、きっと悪くなっているでしょうね」
「え? 敬語? 先生、どうしたのですか?」
一連の室との出来事ですっかり忘れていた事実。
それは品子と惟之をおののかせるのに十分だった。
「そ、それでその方がこう伝えて欲しいと。えぇと、『お前達。私を担ぎ上げておきながら、ほったらかしとはいい身分だな』ということですが……」
(――あ、死ぬわ。私)
半ば魂が抜けた状態で、品子はつぐみに語りかける。
「……冬野君、今から君を木津家に送る。そのあと私と惟之はちょっと殺され、……いや、出掛けてくるのでシヤと二人で今日は夕飯を食べておいてくれ」
「ちょ! 先生、いま凄く穏やかじゃない単語がさらっと出てきていましたけど!」
「大丈夫だよ、ふふふ、惟之。お前は絶対、一緒について来いよ! 逃げんなよ!」
「いや。でも俺さ、急にめまいがひどくなったから。……帰っていいか?」
空を見上げながら、惟之が言う。
「ふざけんなよ! 私一人で死んで来いって言ってるのと一緒だぞ! お前だって共犯だからな!」
「ちょっと待てよ品子! そもそもこの案はお前が言い出したことだろうよ!」
「お前だって、それ聞いて納得してたじゃないか。大丈夫だ! いいかよく聞け、惟之。一人で行おうとすれば負担は十だが、それが二人なら五になる。この理論でいけば多分、……半殺し辺りで済むはずだ」
「奥戸の事件の時に今の言葉を聞いたときには、えらく俺の心に響いたものだが、……今は空しく響くだけだな」
「せ、先生! 何が起こっているのですか? 怒られるのなら私も一緒に行きます。あぁ、先生が遠い目をして帰ってこない! 先生っ、しっかりー!」
お読みいただきありがとうございます。
次話タイトルは「ある喫茶店にて 再び」
というわけで喫茶店の方に話は戻ります。




