蛯名里希は絶望する
足元に転がるのは、自分の父親だった体の一部。
里希はしゃがみこみ、吉晴の手のひらへと触れていく。
見覚えのある、母を愛した証である指輪。
見間違いようのない黒子へと、静かに指をなぞらせていく。
なぜもっと、この手に触れておかなかったのだろう。
なぜ様子が変わった時にもっと、話をしなかったのだろう。
そうしていれば、父を取り戻すことが出来ていたかもしれないのに。
「……様、里希様っ!」
松永の声に顔を上げれば、いつの間にか目の前には清乃が立っている。
「里希様、この部屋から早く出てください! 清乃様の目的は貴方様の……!」
声の方へと顔を向ければ、壁に寄りかかっている松永の姿が目に入った。
右肩を赤く染め、苦しげな表情を浮かべながらも、彼は自分へと必死に叫び続けている。
どうして彼は、こんな姿になっているのだ。
定まらない思考を続ける里希に、清乃の声が聞こえてくる。
『さっきから邪魔だな、少し黙れ』
清乃が人差し指を、松永の右肩へと軽く振るった。
直後、松永の体はびくりと震え、肩からはおびただしい量の血が吹きだしていく。
言葉もなく松永が床に倒れるのを見届け、清乃は里希へと向き直った。
『これでようやく話が出来る。自我を取り戻したお前の父親から、「最後の頼み」とやらで、伝言をお前にって預かっていてなぁ』
血の臭いが充満する部屋で、清乃は何事もないように笑って話しかけてくる。
松永の言う通りに、ここは逃げるべきなのだろう。
だが父は死に、松永も目の前で動かなくなってしまった。
そんな自分に、何が残されているというのだろう。
ここで立ち上がることなど、本当に必要なのだろうか。
心に絡みつく空虚感が、里希から動こうとする気力を奪っていく。
――あぁ、やはりいつもこうなるのだ。
強く望んだものであればあるほど、掴もうと手を伸ばすほど、自分からは離れていってしまう。
母も、欲しかった親からの愛情も。
……そして品子も。
だから望まないようにした。
『人に関心を持つ必要などない』
偽の父から与えられるこの言葉に流されるまま、心を閉ざし生きることを選んだ。
持たなければ、何も失わない。
だがその結果はどうだ。
絶望と取り戻せない後悔だけを、ただ自分に残しただけではないか。
大きく体が揺さぶられる感覚に、里希は我に返る。
どうしたことかと見上げれば、清乃の右手が胸ぐらをつかみ、体が持ち上げられていた。
顔を近づけた彼女は、里希の表情を見ると、つまらなさそうに口を開いた。
『吉晴からだ。「一人でよくここまで成長してくれた。父としてお前を誇りに思う。どうか一条を頼む」だとよ』
「……」
『まぁ、何も言えないよな。……今のお前に、全く似つかわしくない言葉だものなぁ』
清乃の言う通りだ。
今の自分に、この言葉を受け取る権利はない。
『さて、これで吉晴からの頼まれごとは済んだな。ここからは俺からの話となる。正直に答えろよ、里希』
乱暴に清乃の手がはなされ、里希は床へと倒れこんでいく。
『マキエ亡き後、一条にて行われていた「祓い」。これにマキエの魂を利用していたことを、お前は知っていたのか?』
父から、いや偽物からそれは聞いていた。
今さら隠すことも、偽る必要もない。
「……はい、知っておりました」
『三条ではなく、一条がマキエの魂に関わる。それをお前は、おかしいと思わなかったのか』
「違和感はありました。ですが……」
どう答えようかと言いよどむ。
『お前にとっては、「復讐」だった。……そんなところか?』
鋭いところを突かれ、里希は言葉を返すことが出来ない。
マキエの事件で惟之は片目を、木津兄妹は母を失った。
それにより品子が、彼らの傍らから離れることなくいたこと。
さらにはその直後、彼女との婚約破棄を知らされたことが、自分を負の感情へと一気に傾かせた。
マキエさえ、こんなことにならなければ。
歪んだ憎しみであると、分かっていたというのに。
だがそんな自分へ、偽の父はこう言ってきたのだ。
「今回の事件を収められなかったことを、マキエは反省している。三条には合わせる顔がない。なのでここ一条で贖罪をしたいそうだ」
ほかならぬ本人からの望みである。
その言葉に異を唱えることもなく、三条の人々が悲しみにくれるのを、ただ自分は傍観し続けた。
「そうです。私はあなた方の大切な人の魂を、利用しておりました」
『それを認めるか。ならば、吉晴と同様にお前も責任を取る必要がある。とはいえ、当時は未熟であり、偽物にたぶらかされたというのも事実』
清乃の言う、当時の自分は十五歳。
物事の善悪を知るには、十分な年齢だ。
「そのような情けは、自分には無用です。今ここで、けじめをつけましょう」
あぁ、そうだ。
ならば、自分も父と同じように。
強く発動を込めた右手の指先を、自身の左腕へと当て、一気に振り下ろす。
痛み、喪失感。
それらが混じりあい吹き出すかのように流れる血が、床へと転がった自分の左手へと降り注いでいく。
見上げた先にいる清乃は、無表情に自分を見下ろしているのみ。
なるほど、この程度ではまだ足りないということか。
「申し訳ありません。でしたら次は……」
再び指先を上げ、今度は首へと伸ばした里希の体が、衝撃を受け大きく傾ぐ。
あおむけに倒れた自分へと、おおいかぶさってきた人物は、怒鳴るように里希へとまくし立ててくるのだ。
「あんたって人は、何をしようとしているんですか! そんなもんが、けじめになるわけがないでしょう!」
これほどまでに、激高する彼は見たことがない。
この感情は、驚きであろうか。
あるいは、自分だけが取り残されたわけではなかったという思いからか。
自身に生まれゆくそれを理解できないまま、かすれた声で里希は彼の名を呼ぶ。
「松永、……さん?」
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次話タイトルは『蛯名里希は答えを出す』です。




