冬野つぐみは声を掛ける
「……あれ?」
つぐみは違和感を覚え、周囲を見渡す。
案内を受けた場所から、すぐそばにあった階段を下り進むにつれ、人はまばらになっていく。
先程までいたロビーは、とても賑やかだった。
それだけに、この静けさには心細さを感じてしまう。
「道、間違えちゃったのかなぁ。これは先生が心配する前に戻った方がいい……。あ、あった!」
探していた化粧室の案内板が、ようやく目に入る。
足早に向かう途中で、ふと別の通路へと視線を向けたつぐみは、小さく息をのんだ。
礼服姿の男性が壁にもたれ、うずくまっているではないか。
「大変っ! 大丈夫ですか!」
近づくにつれ、それまでになかった異臭をつぐみは感じ取る。
腐臭を思わせる匂いは、男性に近づくほど強くなってきた。
そのことによるためらいが、さらには自身が誘拐された際の記憶が蘇ってくる。
知らない人間に、いきなり近づくのは危険だ。
周囲を確認し、ゆっくりと男性に近づいていく。
そんなつぐみへと男性は、制するように左手を前に出してきた。
「来てはいけません! あなたに迷惑を掛けたくないのです」
悲しげに話す姿には、つぐみを心配している様子がうかがえる。
「迷惑? それはどういうことでしょうか?」
つぐみが立ち止まったのを確認し、男性は掲げていた手をおろしていく。
「この臭いは、僕の体質が原因なのです。今日は、姉の結婚式でこのホテルに来ました。残念だけど、僕は式に出ることは出来ません」
男性は、寂し気な笑みを浮かべる。
先ほどスタッフが、式が終わった直後と言っていたことをつぐみは思いだす。
上階の式は、彼の姉のものだったのだ。
「姉は結婚したら、このまま義兄と他県へ行くのです。だから最後に挨拶をするために、ホテルの控室で待機していました。えっと、それでですね……」
気まずそうな顔をして、男性は言葉を続けていく。
「トイレに行って帰ろうとしたら、急にめまいがしてしまって。でも部屋はすぐそこなのです。体調が落ち着いたら戻りますので、どうかご心配なく。驚かせてしまい、本当に申し訳ありません」
男性は、数メートル先を指し示した。
そこには確かに、「ご親族控室」と書かれた案内板がある。
いずれ回復すれば、彼は自力でたどり着く。
わかってはいるが、つぐみは男性の元へと歩み始めた。
結婚式の参加者となれば、事前にここに来る予定の人間であること。
加えて控室ということであれば、式を終えた今、他の参列者もいるはずだ。
ならば、自分に危害を加えてくる可能性は低い。
彼を部屋へ送り届けたら、そのまま品子の元へ戻ろう。
そう結論を出すと、男性へと声を掛ける。
「良かったら、控室までお手伝いさせてください」
つぐみの提案に、男性は驚きの表情を見せる。
「あの、僕が言うのもなんですが。その、嫌ではないのですか? あなたの他にも、僕のそばを通過していく人たちが何人かいました。でも皆、目を背けるか無視していく人達ばかりでしたよ。あなたは……」
言葉を途切れさせ、うつむいてしまった男性につぐみは話しかける。
「他の皆さんのことは分かりません。ですが自分は、その時に誰かのお手伝いを出来れば。そう思って行動しているだけですから」
手を差し伸べれば、男性はちらりと自身の右手を見やる。
「ごめんなさい。僕の右手は動かしづらくて」
彼の手に目をやれば、右手にだけ黒色の薄い手袋をつけている。
「そうですか。では、左手を出してもらえますか?」
左手を差し伸べながら、つぐみは笑みを浮かべる。
男性は戸惑いながらも、左手を出しつぐみの手を掴んだ。
そっと包み込むように両手で握り、彼が立つのを手助けする。
ゆっくりと彼は立ち上がると、ぎこちなく右手を上げていく。
「ありがとうございます。あなたのその優しさ、とても……」
男性は、唇をゆがめて笑う。
「とても愚かで、素敵だと思いますよ」
「え、何を言って……」
意味が理解できず、つぐみは男性に尋ねかけた。
次の瞬間、左手の甲に何かひやりと冷たいものが触れ、小さな痛みが走る。
慌てて見下ろせば、いつの間にか自分の手に添えるように、彼の右手が乗せられているではないか。
はねのけようとするも、どうしたことか体の自由が利かない。
「そんな、どうして……?」
言葉に答えることなく、男性はつぐみを左手で突き飛ばしてくる。
抵抗もできず、床へと倒れこんでいく自分を、冷ややかに男性は見下ろしてきた。
「寂しがることはないよ。もうすぐ人出様も一緒に連れていくからさ。それじゃあ、おやすみ。……冬野つぐみさん」
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次話タイトルは『人出品子は迎えに行く』です




