蛯名里希は二人に問う
「里希様は空き時間に一条の管理地内で、ふらりと出かけられる時があるんだ。一人で考え事や何か決めたいことがある時が多いかな」
浜尾の説明を聞きながら、つぐみは廊下を歩いていく。
「とはいえ、いつもならばとうに管理室に戻られている時間ではある。いくら白日の管理地内だからといって、連絡手段を持たずに出て行かれるのはまずい。少し改善していただく必要があるな」
浜尾は苦笑いを浮かべると、つぐみを連れて建物から出ていく。
二人はそのまま裏手にある整備のされてない道へと足早に向かう。
森とまではいかないが、木の生い茂ったアスファルトの舗装がされていない、でこぼこの細い道。
雑草を踏みしめ、転ばないようにとつぐみは足元に視線を落とし進んでいく。
今日の靴がヒールであったのならば、かなり歩きづらかったに違いない。
植わっている木々のおかげで日がさえぎられるためだろう。
夏の暑さでじわりと汗は出てくるものの、程よく吹いてくる風はこの季節にもかかわらず心地良く感じられる。
「敷地内にこんなところがあるのですね。森林浴とか気持ちよさそうですね。あ……、すみません」
仕事中だというのに、のんきなことを話してしまったとつぐみは反省する。
浜尾は首を横に振り、周りを見渡しながら口を開く。
「そこまで気にしなくていいよ。この辺りならば確かにそう感じられるからね。ただもう少し奥に入ると、崖とまではいかないが、急な斜面の所もあるんだ。そこから落ちてしまったら大変なことになる。慣れるまでは一人ではここには来ない方がいいだろう」
「が、崖があるのですか。……はい、気を付けます」
不安定な足場に奮闘しつつ、さらに歩くこと数分。
進む先にある東屋に、里希がつぐみ達に背を向け座っているのが見えた。
休憩中ということと、この暑さもあるのだろう。
ジャケットは着ておらず、皺ひとつない真っ白なシャツの袖を上げている後ろ姿。
そこにはいつもの張りつめた様子はない。
二人の足音に気付いたのだろう。
里希は振り返ると立ち上がり、腕時計にちらりと目をやるとつぐみ達の元へと歩いてきた。
「すまない。少し……、いや、かなり時間を費やしてしまっていたな」
「問題ありません。次の予定の時間まではまだ余裕がありますので」
同様に左手首に目を向けた浜尾が答えたのをきっかけに、三人は来た道へと引き返していく。
細い道の為に並んで歩くことも出来ず、浜尾を先頭に里希、つぐみという順番で帰路を進む。
数メートル進んだところで、里希が突然に立ち止まると抑揚のない口調で問いかけてくる。
「ところでさ、二人共。いつから『連れて来ていた』の?」
つぐみはその言葉を理解することが出来ずに里希を見つめる。
一方の浜尾が「しまっ……」と叫ぶのと同時につぐみの視界の隅で何かが動く。
正体を確認しようとする彼女の目は突然の白色に塞がれる。
里希がつぐみの頭を抱えるように自らの胸元へと引き寄せていたからだ。
「……動くな。僕がいいと言うまで何も見ず、何も話すな」
里希はつぐみに小さくそう呟くと腕に力を込める。
何が起きているのかわからない。
だが、言われるままにつぐみは目を閉じる。
視覚が消えた分だけ、意識は聴覚に向けられていく。
つぐみの耳に届くのは、草を踏みしめる音と男性二人の荒い息遣い。
ときおり何かを振り回し、空を切る音がそれにまじる。
浜尾と何者かが争っている、それだけは理解出来た。
それなのになぜ、彼は浜尾を援護するでもなく動こうとしないのだろう。
疑問は起こるものの、緊張と里希の命令によりつぐみは何も言うことができない。
そうしているうちに聞こえてきたのは、どちらかが引き倒された音。
そして後に続く鈍い殴打の音。
聞こえてくるうめき声は……、先程までつぐみと話をしていた聞き覚えのある人の声。
こんなことがあっていいはずがない。
そう思うつぐみに聞こえてくるのは、自分をさらに絶望させる言葉だった。
「はい、護衛の人お疲れ様~。おやすみなさい、さようなら」
愉快そうに話す男の声の後に響くカシャンという軽い音。
すぐ後に何か小さなものが地面に落ちた音がした。
「サプレッサー付きの銃で周りの人に気付かれないように、って所かい? そんなことをしなくても、ここに来る物好きなんて君くらいしかいないと思うよ」
「そうかもしれませんけど、念には念をっていうでしょう? はじめまして。写真で見るより男前ですねぇ。蛯名里希様、そして研修中のお嬢さん」
相手の言葉に里希は小さくため息をつき「面倒だな」と呟く。
思わず顔を上げようとしたつぐみを制するかのように、彼は手の力を少しだけ込めた。
再びつぐみは胸元に押し付けられる。
彼が付けているムスクの香水の匂いが一層、強まる。
つぐみは何も話すなと言われたこと思い出し、口を一文字に結ぶ。
その様子を確認した里希は男に向かって声を掛ける。
「へぇ、それも知ってるんだ。じゃあさ、この子がただの一般人だってことも分かってるんだよね。一応、聞きたいんだけど。彼女はまだ君を見ていない。そして君の狙いは僕。だったらこの子を見逃してくれる可能性って、今どれくらい?」
その言葉でようやくつぐみは理解する。
里希はただ見ているだけではなかった。
つぐみを守るために動かなかったのだということを。
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次話タイトルは「蛯名里希は提案をする」です。