冬野つぐみは働く
「冬野さん、まずはお疲れ様。……とっ、取りあえずは問題なく終わらせることが出来たわね」
早足で高辺は後ろにいるつぐみを振り返ることなく進んでいく。
だが本当に問題なく終わらせていたのならば、高辺はもう少しゆっくりつぐみと並んで歩いてくれるはずなのだ。
本来ならさきほど自分にかけられた言葉も、彼女はどもることもなく話をするはずだろう。
自分を見ない高辺の様子につぐみは確信する。
高辺は今、笑いをこらえているのだと。
ならばいっそ品子のように。
『さっすが冬野君! よっ、この想定外の女王!』
とでも言って笑い飛ばしてくれた方が、お互いに楽になれるのではないだろうか。
つぐみはそんなことを思いながら、互いに何も話すことなく応接室へと戻る。
部屋に入ると高辺は深く息を吐いてから、ようやくつぐみの方を向いた。
今の行動で気持ちを切り替えたのであろう。
ここ最近で何度も見た艶やかな微笑が、彼女の顔に浮かんでいる。
それを崩すことなく、彼女は中央にあるテーブルの上に置いてある黒いファイルを手に取った。
このファイルにつぐみは見覚えがある。
前回の面接の時に、里希が手にしていたものだ。
高辺は慣れた手つきでページをめくると、さらさらと何かを書き込んでいる。
「それにしてもあなた凄いわね。たった一度、説明しただけで本当に覚えてしまうなんて。おめでとう、一つ目の課題はクリアと言っていいでしょう」
「ありがとうございます。お役に立てて嬉しく思います」
だがこれは里希の予定を記憶し、ただ述べていたにすぎない。
それにまだ二つのうちの課題の一つ目をクリアしたに過ぎないのだ。
「さて、では二つ目の課題について説明するわね」
高辺はファイルから一枚の紙を取りだすと、つぐみへと差し出してくる。
「十五時からの片哉社での面談。これにあなたも同行してもらいます」
「え? ですがそれは……」
何も知らない自分が同行するなど、あまりにも無謀ではないだろうか。
思わず動揺するつぐみに、高辺はくすりと笑うと言葉を続ける。
「もちろん、私も同行します。それに綾重様との打ち合わせの際には、私が里希様に同行することになるわ。それまでのあなたの動きを確認させてもらうということ。これは一条に入った際に、あなたがするであろう仕事の予習も兼ねていると理解してくれればいいわ。だからそんな顔をしなくてもいいのよ」
かなり悲壮感がただよう表情をしたようだ。
心の強さをと誓っていたはずなのに、これはあるべき行動ではなかった。
つぐみは反省をしつつ、渡された紙を見つめる。
そこには片哉社と面談相手の綾重の情報が書かれていた。
「片哉社の同行までは、まだ時間があるからその資料を読んでおいてね。打ち合わせに入る前に、あなたに何か綾重様から問われることもあるかもしれないから。この内容を頭に叩き込んでおいてちょうだい」
資料には片哉社の事業内容や社史、企業理念などがA4の用紙に書き込まれている。
幸い記憶力には自信がある。
ならば今のこの時間を、もう少し有効に使うべきだとつぐみは判断をする。
「分かりました。こちらは昼の休憩の際に覚えます。ですので今、自分が出来る仕事を教えて頂けますか?」
あってはならない予言を防ぐため。
少しでも多く、白日にあるものを吸収し、記憶しておく必要がある。
つぐみとしては、出来るだけ情報や知識を得ておきたいのだ。
「あら、実に前向きな行動だわ。意欲は素晴らしいものがあるわね」
高辺はつぐみの言葉に満足そうにうなずく。
「とはいえあなたは組織入りが確定したわけではないの。だからあまり業務に深くかかわる仕事は、今はまだあなたに与えられないわね。本当に雑務になるけれどもいいのかしら?」
「もちろんです。どんなことでも、自分としては勉強になりますので」
むしろこちらにとっては好都合だと言えるだろう。
なにげない行動、相手の言葉。
そこから手にする情報は、きっとあるはずなのだから。
「本当にしっかりしたお嬢さんね。楽しみがどんどん増えていくわ。では始めましょうか」
◇◇◇◇◇
「……ううぅ。がんばったよね、私。もう自分でほめちゃうんだから」
一条の管理地内にある休憩所。
つぐみは空いている椅子に腰かけると、そのまま前にあるテーブルへとがくりと倒れこんでいく。
あれから自分の居た応接室の掃除や、来客用の砂糖やコーヒーミルクの補充。
さらには一条の敷地内の観葉植物の水やりなど、文字通りに休む間もなく動いた。
里希の昼食の準備として管理室に仕出し弁当を届けた時に、あろうことかその匂いに誘われるようにつぐみのお腹の虫も動いてしまった。
彼が会議で席を外しており、高辺と二人きりの室内でその音が鳴り響いたのは、不幸中の幸いだといえるだろう。
真っ赤になったつぐみを、彼女は何だか楽しそうに見つめていた。
「はぁ、それにしても高辺さんの動きは凄いや。見習いたいなぁ」
指示を出しつつ自分も同様に動き、こちらが頼まれた内容を終わらせるタイミングを把握して次の行動を与えてくれる。
出雲といい、ここの事務方の人間は実に優秀だ。
自分はこうして昼の休憩に入った。
だが高辺は、まだ所用があるからと笑いながらつぐみへと紙袋を渡してきたのだ。
「頑張った子にはご褒美。さっきあなたのお腹を鳴らしたものと同じお弁当よ。それを食べながら先程の資料をしっかり覚えておいてちょうだい。十三時になったら応接室に戻って来なさい」
つぐみの肩を軽く叩きそう話すと、颯爽と彼女は次の仕事場所へと向かって行った。
「こんな美味しそうなお弁当まで用意してくれているなんて……。ありがたくて涙とよだれが出ちゃう」
テーブルの上に置いた紙袋を横目で眺めながら呟いた言葉に、後ろから笑い声がする。
慌てて振り返ったすぐ後ろ。
そこには、一人の男性が缶コーヒーを片手に笑っている姿があった。
「あぁ、ごめんね。冬野さん」
見覚えのない人物から名前を呼ばれ、思わず言葉を失う。
その様子を気にすることもなく、彼はつぐみに近づくと穏やかな笑顔を向けた。
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次話タイトルは「冬野つぐみは問われる」です。