波の音と泡はいつ消えるのか その2
「……仕事が中止になった。しばらくある場所に滞在することになる」
室のそれからの行動は、すべて沙十美の想定を超えるものだった。
驚く彼女を全く気にすることもなく、車を走らせること一時間。
そうして着いたのが海が見える旅館。
いや、ただの旅館ではない。
通された部屋はとてつもなく広く、海が一望できる部屋。
テラスには露天風呂まであるではないか。
目を見開き呆然としている沙十美に、室は淡々と語る。
「部屋は壊されて使えない、仕事も現状において保留。次の拠点となる部屋が見つかるまで、ここに滞在する」
ソファーに座った室は、外の景色をちらりと眺めると言葉を続けた。
「いつも通りにしていればいい。ただ場所が変わっただけだ」
それだけを沙十美に語り、持参した本を読み始める。
現に彼はここに来てからは出掛ける様子もなく、拠点にいた時と同様に相も変わらず本をただ読み耽っていた。
だから。
沙十美もそうすることにした。
彼がこの部屋で定位置とした一人掛けのソファーは、形や色こそ違えど座っている主が同じなのだ。
いつものようにそっと背面にもたれかかれば、以前より硬めでしっかりとした感触。
目を閉じてまぶたの中に広がる淡い暗闇に彼女は浸る。
そうすれば確かにいつもと同じ、彼が本という世界へ入り込んでいるのを伝える音が聞こえてくる。
それに重なるように小さく窓の方から聞こえてくるのは、途切れる事のない波の音。
(――何よ、いつも通りではないじゃない)
心が柔らかくなり、彼女からは小さな笑顔が生まれる。
それから沙十美は波の音を『いつも通り』に追加することにして、この時間と場所を大切なものにすると決めた。
それはとても穏やかな時間。
室の言う通り新たな『いつも通り』を沙十美はしばらくの間、過ごすことが出来ていたのだ。
それが変わったのが昨日。
少女のために行われた『七夕』の計画。
この出来事により、沙十美の心は揺らいでしまっていた。
つぐみの成長を感じ、彼女の周りに大切な人がたくさん出来ているのを知った。
小さなさとみもつぐみと共に過ごすと決めたようだ。
これからもあの二人は、楽しく皆との生活を続けていく事だろう。
そうやって沙十美が彼女達の幸せを感じると同時に生まれてくるのは、今までになかった感情。
(……では、私は?)
死という形で体を失い、家族とも友人とも会うことが出来ない、許されない存在。
沢山の人に囲まれ愛されながら生きていくあの子達と違い、室という宿主によってかろうじて生かされている自分。
いや、『生きている』という言葉すら使うのもおこがましいのかもしれない。
(――私は、……孤独だ)
その思いが。
実に女々しく愚かな考えがぐるぐると頭の中を巡り、それが絶えるのことの無いため息として沙十美の口から零れてしまっていた。
こんなことを思っていても何も変わらないし、惨めになっていくだけだというのは理解しているというのに。
いつか室から拒絶されれば、孤独どころか消える?
以前に抱いた良くない考えまでもが沙十美の胸によぎる。
(いけない、こんなことでは)
気分を落ち着けようとふらりと立ち上がり、テラスへと向かう。
ただ波の音を聞こう。
そうすれば何も考えないでいられるだろうから。
その思いにすがり、テラスの手すりにもたれかかるように体を預ける。
空にあった太陽は、ゆっくりとオレンジの光を放ちながら海に帰ろうとしていた。
海に溶けゆく光と生まれては消える白い波。
彼女はそれを、どれくらいの間みていただろう。
コトリ、と小さな音が沙十美の隣から聞こえた。
誘われるように目を向ければ、手すりの上にコップに注がれたサイダーが置かれている。
透明な液体の中を小さな泡が表面へと駆け上がっては消えていく。
これを運んだ男は彼女の隣で、何をするでもなくただそこにいる。
「ねぇ、こういう時はお酒なんじゃないの?」
コップを手に取ると一口のむ。
喉を通る炭酸の感覚が心地よい。
「未成年に酒はあり得ない」
前を見据えたまま呟く声に。
何も悪くない、むしろ親切でここに来た男に沙十美がかけたのは感謝ではなくひどい言葉達。
「もう私は年も取れない、生きてもいない。そんな存在に未成年も何も、……ないじゃない」
明らかに間違えている言葉。
分かっているのに沙十美には止められない。
「新しい世界を広げて仲間が増えていくあの子達と違って、家族にも友達にも二度と会えない。こんな私は一体、何のためにいるのよ! どうして私は一人なの!」
もちろん沙十美には分かってる。
これは自分が望んだ結末。
つぐみを守る。
その念いだけで生まれてきた存在。
自らが願い、そうしてここにいるというのに。
そして隣りにいる男が、ぶつけられるべき言葉ではないということも理解しているはずなのに。
「……違うの、こんなこと言いたくないの。私はつぐみもあの子も大好き。とても大切なの。幸せになってほしいのっ……!」
(あぁ、苦しい。コップの中の炭酸の泡のように、いっそ消えてしまえれば楽になるのに!)
「私が望んだからここにいる。それなのに私は苦しいと思ってしまう。あの子達と違い、自分が一人だということに気づいてしまう」
己の体を両手で強く抱きながら俯き、沙十美はただ醜い心の内を晒していく。
「自分で決めたこと。なのに私自身がそれを否定する。こんなのおかしいのに。こんな、こんなふうだから私は……!」
(――あの子達みたいになれないんだ)
唐突にブティックでみた黄色のワンピースが沙十美の頭に浮かぶ。
光り輝くような明るい、まるで自分と正反対の服。
「だからきっと私には、……似合わないんだ」
下を向いた沙十美の視界の端に映る彼の手がぴくりと動く。
今の言葉で彼の限界が来たのだろう。
何を言うでもなく室は彼女から離れていく。
彼が部屋へと戻る際の、扉が無機質に閉まる音。
まるで沙十美の一連の行動の返事のように、それは重く心に響いた。
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次話タイトルは『波の音と泡はいつ消えるのか その3』です。




