人出品子は傷を負う
品子は思わずにやけていく顔を、下を向いて隠しながら廊下を歩む。
「ふんふ~ん、皆でお寿司~。もちろん払いは惟之だぁ~!」
即興の歌を口ずさみながら、木津家での皆の様子を想像していく。
きっとつぐみは、寿司を一つ食べるごとに、幸せそうな笑みをうかべるのだ。
さとみが玉子を食べて、喜ぶ顔も早く見たい。
彼女達のことを考えるだけで、心が舞い上がっていくのだ。
管理室の扉の前に立ち、心を落ち着けようと深呼吸をする。
自分はここで今日、新たに発現した能力の報告をせねばならないのだ。
「失礼します。人出品子、入ります」
声を掛け、管理室の扉へと手を伸ばしていく。
早く自分を大切にしてくれている人達の所へ帰ろう。
彼らに、自分が一つ上の段階へと進めたことを伝えたい。
この部屋にいる人も、もちろん聞いてほしい一人だ。
いつもならば、部屋の主から入室の許可が出るまで待機している。
だが、はやる気持ちを抑えられず品子は扉を開いてしまった。
その行動を、品子はすぐさま後悔することとなる。
部屋にいた二人の人物は自分の入室に、ちらりと視線を向けるのみ。
状況が分からぬまま、品子は部屋へと足を進めていく。
部屋を見渡した品子は、違和感を覚える。
普段ならいるはずの井藤が、部屋にいないのだ。
代わりにいたのは、先ほどまで会話をしていた人物。
思わず品子は、その相手へと問うていく。
「里希、どうして君がここにいるの?」
◇◇◇◇◇
蛯名様と呼ばず、つい名前を呼んでしまった。
後悔と共に、品子は思わず口元を押さえる。
「おや、先輩。いくら部屋の主が身内だとはいえ、許可なく入ってくるなんて。あいかわらず失礼な方ですね」
だが里希は特に呼び方をとがめることもない。
自分を『先輩』と呼び、こちらへと振り返りながら立ちあがってくる。
笑顔をたたえ、自分を見つめている彼に品子は戸惑う。
「品子さん。何かお話があるのなら後で聞きます。一度、退室をお願いできるかしら?」
もう一人の人物である品子の母が、同様に立ち上がった。
早口で退出を促してくる姿にあるのは、焦りと不安。
品子は、一歩下がり礼をして部屋を出ようとする。
「申し訳ありませんでした。では、私は改めますので」
「なぜですか、先輩? いいではないですか。もっと楽しい時間を過ごしましょうよ」
里希は笑いながら、自分の方へと近づいてくる。
「里希さん。私の話はまだ終わっていません」
母の鋭い声が聞こえる。
その声に里希は足を止め、不機嫌そうに振り返った。
「そうですか。でも自分もまだ、先輩と話が途中だったことを思い出したものですから」
里希は品子へと向き直ると、右手の人差し指をまっすぐに伸ばした。
そのまま素早く、品子へと振り抜く。
動かなければ。
頭の中ではそれは分かっているのに、品子はそれが出来ずに立ち尽くす。
ひゅんと音が聞こえた。
吹き付けてきた風に、品子は左頬と耳に熱さを感じる。
それでも品子は動けないまま、里希の目を見続けることしか出来ない。
彼は品子の頬に描かれた小さな赤い直線を眺めながら、嬉しそうにつぶやいた。
「後ろの壁に傷をつけないように。そちらにばかり、気を取られてしまいましたね。やはり僕はまだまだ未熟だ。あははっ」
里希は笑いながら、右の人差し指と中指の二本を品子へと向けてくる。
つまり、先程より威力を強めて発動するということ。
自分を見つめる彼の姿は、とても美しく、そして残酷だ。
彼が行おうとしていることを、どうしても品子は認められない。
「嘘だよね? お願い里希、止めて」
「本気ですよ。僕はね、今とても機嫌が悪いんです。知りたいことも知れない。ならば別のルートでと思っていたら、それも上手くいかない。この空回りに、ただ怒りがこみあげてきて仕方がないんですよ」
全てを拒絶するような、軽蔑するような視線で、里希は品子を見すえてくる。
先程よりも強く手首をしならせ、里希が自分に振りかぶるのが見えた時、品子は彼に願うのではなく抗うことを決めた。
手のひらを上にかざしていく。
さきほど発動したばかりだ、感覚は掴めている。
母も巻き添えにしてしまうが、今は仕方あるまい。
再び息を吸い込むと、品子は意識を集中させる。
「そこまでですよ。……里希さん」
穏やかな、だがその場にいる人間の動きを止めるには、十分な声が響いた。
母が里希に近づき、そっと彼の右手の手首を掴む。
だがそれは決して『優しく』ではない。
里希の手首へと伸ばされた母の手は、握るではなく、めり込むという状態になっていた。
「怒りで勢い付いてしまうのかもしれません。でもそれは、時と場合によるという事。あなたは今それを、知るべきではなくて?」
母の口調は丁寧で、とても落ち着いたものだ。
それが、自分に向けられたものでないと理解はしている。
だが、背筋を冷たいものが駆け抜けていく感覚に、品子は声を出すことができない。
ゆっくりと里希は、右手を下げていく。
それを見計らったように、扉をノックする音が響いた。
「人出様、一条の高辺です。吉晴様からの言付けを預かっております。入室の許可をいただけますか?」
人が来るのならば、今の自分がいる位置は邪魔になる。
部屋の隅へと品子が移動すると、それを見届けた母は里希から手を離した。
「高辺さん、入って頂戴。あぁ、品子さん。あなたは席を外してくださいな」
「……っ! はい。では私は失礼いたします」
部屋から出ていけるということに、品子は安堵する。
これ以上、彼の冷たい視線と言葉に耐える自信が、今の自分には無い。
母の厚意に甘え、部屋を出ようと扉へ向かう。
扉が開き、声の主であった高辺とその後ろから井藤が入ってきた。
彼らと入れ違いに、品子は部屋を退出すると早足で歩き出す。
廊下を歩く自分の左頬を、すれ違う人達が驚いた表情で見つめてくる。
頬から流れる血を放ったまま、真顔で歩いているのだ。
彼らからすれば、さぞ気味が悪かろう。
やがて向かう先に、一人の男が立っているのが見える。
彼は品子と目が合うと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
その姿にようやく、自分がもう足を止めていいのだと品子は理解する。
「どうも。四条治療班の井出明日人です。家に戻られる前に、その頬と耳の治療をいたしましょう。では、了承をお願いできますか?」
そう言って明日人はにこりと笑い、品子へと手を差し伸べてくるのだった。
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次話タイトルは「井出明日人は考えを述べる」です。